「キリストの教えのうちにとどまる」
第二・第三ヨハネの手紙
牧師 小林智彦

今週の聖書通読箇所はヨハネの手紙第二と第三です。短い手紙ですが、何度も読み返すことによって、ヨハネが大切にしていたことが良く理解できます。

【ヨハネの手紙第二・第三:著者、宛先、背景について】

手紙の差出人は「長老」になっています。これは使徒ヨハネであると考えられます。
特に第二の手紙は、第一の手紙と使われている用語、そして内容がとても良く似ています。第一の手紙と第二の手紙の著者は同一人物であり、使徒ヨハネと言えるでしょう。

第二の手紙の宛先は「選ばれた夫人とその子どもたち」になっています。
「選ばれた婦人」とはいったい誰なのか?そのような疑問が浮かび上がります。
文字通りにクリスチャン女性を指すことも考えられますが、これは教会を指しているとする解釈もあります。婦人とはイエス・キリストの花嫁である教会を指していると考えるのです。私はこの「選ばれた婦人」が教会を指している解釈を支持します。何故なら、一個人に宛てて書かれた内容と言うよりも、教会全体に適用できる内容だからです。

第二の手紙が書かれた理由は、第一の手紙とほぼ同じです。
反キリストと彼らの活動に対する警告のためにヨハネはこの第二の手紙を書きました。

「なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。」ヨハネの手紙第二1章7.8節

反キリストの惑わしによく気をつけて!とヨハネは警告しています。
「私たちの労苦の実」とは、キリストを信じる信徒のことを指しています。
だれも反キリストの惑わしによって、正しい信仰が離れないように願っているのです。

具体的な指示としてヨハネはこのように書いています。

「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。」ヨハネの手紙第二10節

反キリストはクリスチャンの愛の行為であった旅人をもてなす行為を悪用して、自分たちの偽りの教理を広げていきました。純粋な信仰を持つ素直な人々の信仰を次々に覆して行ったのです。「この教えを持って来ない者」とはイエスが神であることを否定する者です。

これはそのままエホバの証人や、モルモン教徒に当てはめることが出来ます。
特にエホバの証人はクリスチャンを明確に伝道のターゲットとしています。
なぜならエホバの証人の中で正統なキリスト教から移った人が相当な数に上るからです。

私もヨハネのように皆さんにお勧めします。エホバの証人やモルモン教徒と信仰についての議論をしないようにして下さい。また彼らの教えに耳を傾けないで下さい。
彼らはクリスチャンに対してどのように伝道するか訓練されています。
私たちも偽りの教えに対して訓練されていないと、簡単に彼らの嘘に流されてしまいます。
信仰が覆されることは無いにしても、正統な信仰に対する迷いが生じるだけで、何の益も受けることは無いと言えるでしょう。

第三の手紙の著者、宛先、手紙を書いた理由について

第三の手紙の差出人は同じく「長老」であり、使徒ヨハネであると考えられます。
宛先は「ガイオ」と言う個人に宛てて書かれている手紙です。
「ガイオ」は当時の名前としては一般的な名前で、新約聖書にはこの他に3回登場します。その中にヨハネが手紙を書き送った「ガイオ」が含まれるかは断定できません。

ヨハネが手紙を書いた理由は、ガイオの立派な行いのためでした。ガイオは宣教の旅に出ている兄弟たちを経済的にも精神的にも援助していました。ヨハネはその援助を更に続けるように彼を励ましています。
もう一つの理由はデオテレペスに対する注意です。この人物が具体的に何をしていたかは不明です。反キリストではないようです。ただ教会の中で「かしらになりたがっている」ことが問題でした。パウロがコリント第一を書いた理由が、教会内部に起きた分派の問題だったように、このデオテレペスも分派を起こして使徒ヨハネに対抗していたのかもしれません。このような愚かな分派の争いに巻き込まれたり、荷担したりしないようにとの注意のために手紙を書いたと思われます。

【真理のうちを歩む】

「あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。」ヨハネの手紙第二1章4節

ヨハネは第二の手紙の冒頭で、「真理」を強調しています。1節から4節の間に5回も「真理」が用いられています。そして使徒ヨハネにとっての喜びは、神の子供たちが「真理のうちを歩(む)」ことなのです。

反キリストはこの「真理」の中に歩みません。反キリストには「真理」が宿っていないからです。反キリストは「真理」から出ていった者たちです。
ヨハネにとって「真理」とは、イエス・キリストが神であることを指しています。
父なる神、イエス・キリスト、聖霊なる神は三にして一つの神である、これが「真理」であると言っているのです。


真理とは私たちの信仰の土台です!私たちの信仰の土台とはイエスは神の一人子であり、救い主キリストであること、イエス・キリストは私たちの罪のために十字架の上で死なれ、三日目に復活されたことです。私たちはただキリストを信じるだけで、恵によって罪赦され、神の子とされる。これがヨハネにとって「真理」であり、私たちにとっても「真理」なのです!

私たちは使徒たちが伝えた「真理」の土台の上に立つなら、互いに交わりを保つことが出来、互いに愛し合うことが出来るのです。

ヨハネは1章3節で「恵みとあわれみと平安」は神の愛だけから来るのではなく、「真理と愛のうちに」来ると言ってます。

「真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。」ヨハネの手紙第二1章3節

愛は真理によって支えられ、真理を通って私たちのところに来るのです。神の愛は決して偽りの愛に支えられることも、偽りの愛を通ってやって来ることも無いのです。

イエスは完全な神であり、その神が人となられて私たちのもとに来られた。
その方がイエス・キリストであり、キリストは私たちの救いのために身代わりとなって十字架で私たちの罪を背負って下さった。これが真理であり、それゆえ愛の完全な現れなのです!

イエスが神であることを否定する教えには神の愛は決して現されません!
また「恵みとあわれみと平安」、つまり救いの確信は心に来ないのです。
エホバの証人が自分の努力よって救いの確信を得ようとしているのはこの為です。
エホバの組織に忠誠を尽くしても、いくら彼らの教えを伝道しても、救いの確信を得ることは出来ないのです。本当の「恵とあわれみと平安」は来ないのです。

救いの確信、そして喜びは「真理と愛」を通って私たちのもとに来るのです。

【キリストの教えのうちにとどまる】

「よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。」ヨハネの手紙第二1章8.9節

「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません」。ヨハネは直接には反キリストを指して、このように言っています。
しかし、「だれでも」とあるように、私たちもキリストの教えのうちにとどまらないなら、いつの間にか、神との交わりから離れ、実を結ばない者になる危険があります。

「キリストの教えのうちにとどまる」。この「とどまる」と言う教えに対しては私たちの罪深い性質は反発しやすいのです。私たちの内にある罪深い性質は、自分の方が優れていることを主張し、言われた言葉にただ従うことに抵抗を覚えるのです。

科学万能の現代では、多くの人々が神を否定し、自分自身を神としています。
誰かに従うことを敗北と感じ、あらゆる権威を拒絶し、否定し、自分自身がまるで全ての価値を定められる神のように歩んでいます。

このような人間万能の価値観のなかで、神の言葉に従い、キリストの教えのなかにとどまり続けることは、自分の自由と権利を全て放棄することであり、自ら進んで不自由と束縛されることを選んでいるように思われるでしょう。

確かに神を信じ、そしてキリストの教え、キリストの言葉にとどまることは自分の自由を放棄することです。そしてキリストの束縛のなかに自分を委ねることになります。
人間万能の自由とは全く反対です。不自由であり、束縛をもたらすのですから。

しかし、キリストのうちにとどまることこそ、本当の「恵みとあわれみと平安」を私たちの心にもたらし、そして「実」を結ばせるのです。

キリストのうちにとどまる不自由が、私たちに本当の自由をもたらし、キリストのうちにとどまる束縛が、私たちに本当の平安をもたらすのです!
キリストのうちにとどまること、それが私たち本来の場所なのです。
なぜならキリストが私たちを愛をもって、そのみ言葉で創造して下さったからです。

キリストのうちにとどまらない者、自分は自由であり、自分を神と同列に置き、あらゆる束縛、あらゆる権威を無視する者たちは、本当は不自由であり、不安定な者なのです。

多くの人たちが自由で解放された気分を味わいたいために薬物に走ります。
その結果、一時は開放感、万能感に浸りますが、それからはずっと薬物の奴隷になります。
自由をもとめて巨万の富を得ようとする人たちも同じです。お金があれば一時の万能感、神のような支配力を味わえるかもしれません。しかしやはり金の奴隷になります。
自由な恋愛を求めて、フリーセックスに走る者たちも同じです。
その結果、人間関係のもたらすあらゆる汚れと憎しみに縛られるようになるのです。

この世が約束する自由は、最終的には私たちを束縛します。この世の約束する自由は神に依らないからです。それは罪なのです。そして罪のもたらす報酬は死です!

キリストのうちにとどまる者が、本当の自由を得ます。心に平安を得るのです。
キリストが私たちを創造し、キリストの言葉が私たちを魂を養う糧だからです。
私たちは自分の相応しい位置を知りましょう。自分が神にあって何ものであるかを知ることが、私たちの心に本当の幸せと平安を与えるのです。
神を離れた自由は本当の自由をもたらしません。神を離れたところにいのちはありません。

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」 
ヨハネによる福音書15章1節から9節

私たちはキリストの言葉とキリストの愛のなかにとどまりましょう!
キリストのなかにとどまる時、私たちは多くの実を結ぶことが出来るのです。