「光の中を歩む」
第一ヨハネの手紙
牧師 小林智彦

今週の聖書通読箇所はヨハネの手紙第一です。今日はこの手紙から学びましょう。

【手紙の著者、手紙が書かれた理由、当時の背景】

手紙の差出人は使徒ヨハネと言われています。手紙の中には名前が出てきませんが、「私の子ども達」と呼びかけていることから、この人物が教会の霊的な父親としての役割を果たしている人物であることが分かります。迫害を耐え抜き、使徒の中でただ一人殉教を免れたヨハネこそ、この手紙の著者に相応しい人物です。

ヨハネが手紙を書いた理由は、先週学んだペテロの手紙第二と似ています。
ペテロは「にせ教師」と「あざける者」の惑わしから教会を守るために手紙を書きました。ヨハネも「にせ教師」である「反キリスト」から教会を守るために手紙を書いています。

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」ヨハネの手紙第一2章18.19節

ヨハネは反キリストとはどのような者たちであるのかを2章22節で書いています。

「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」

キリストを否定する者が反キリストなのではありません。未信者や別の宗教を信じている人が反キリストではないのです。反キリストは始めは私たちと同じ信仰者でした。
しかし正統な教えに留まらず、自分たちが見いだした教理こそ正しいとして離れていったグループなのです。その特徴はイエスがキリスト、神であることを否定していることです。そして「御父と御子を否認する」とは、三位一体を否定することを指しています。

この点からモルモン教、エホバの証人は明確な反キリストです。
そして、皆さんもご存じのようにモルモン教徒もエホバの証人も自分たちこそ正統なキリスト教であることを主張しています。

ヨハネが手紙を書いた理由も同じであると推測できます。ヨハネが反キリストと呼んだグループも、自分たちこそ真のキリスト者であると強く主張したと考えられます。
これが悪魔の惑わしの力です。全く性質の異なるものなら誰も惑わされません。
悪魔も怪物やモンスターの姿をしてくるならば、直ぐに見破ることが出来ます。
しかし悪魔・サタンは光の天使の姿に変装してやって来るのです。

反キリストは自分たちの方が正統な教えであり、優れていることを信じさせる魅力(魔力)を持っています。それを見破るには深い洞察力と神の知恵が不可欠なのです。

ヨハネが明確に指摘しているように、反キリストはキリストが神であることを否定します。三位一体を否定するのが彼らの教えの特徴です。神が人となったことを否定するのです。これはキリストの十字架の死によって私たちの罪が赦されたことを否定することです。
モルモン教徒もエホバの証人も救いの確信はありません。
彼らは自分たちの行い(組織への忠誠)を通して救いの確信を得ようと努力するのです。
これらを覆い隠すために、彼らは人間的な魅力で惑わしてきます。

ヨハネが言っているように反キリストの出現は世の終わりの印です。
これから更にモルモン教やエホバの証人のような反キリストが現れるでしょう。
私たちは決して惑わされたり、またその悪影響に振り回されないようにしましょう。

ヨハネはその深い洞察力と知恵によって、教会が反キリストに惑わされないように手紙を書きました。この手紙は真理と偽り、光と闇、神を愛する者と世を愛する者、神の子と悪魔の子、義を行う者と罪のうちを歩む者などの対比を通して、何が真理で何が偽りであるかを私たちに教えようとしているのです。

ヨハネは反キリストの教えだけを否定するだけで終わっているのではありません。
それと対比させて真理を私たちに教えようとしているのです。本物の姿を見せること、優れた模範を明確に示すことこそ、私たちの成長の助けになるからです。

これからも反キリストは登場してきます。あらゆる人間的な知恵、魅力を通して私たちを惑わしてくるでしょう。私たちはこのヨハネの手紙からキリストに対する正しい信仰、またキリストを知る者に相応しい歩みを良く学んで、あらゆる惑わしから守られましょう。

【使徒ヨハネが伝えるキリスト】

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――」ヨハネ第一1章1.2節

ヨハネがこの手紙を書いた時、教会を混乱させていた反キリスト・異端がどのようなものであったかは明確ではありません。ヨハネと同時代にエペソで活動していたケリントス、また2世紀に大きく活動したグノーシスと呼ばれる異端であると考えられています。。
ケリントスもグノーシスも共通するのは、聖い神が人間になることはあり得ないとする前提です。ギリシャ人の哲学には、肉体は汚れていて、霊は清いという考えがあります。
この二つの異端は神であるキリストが肉体を持ったことを否定するのです。

しかしヨハネは手紙の冒頭で神であるキリストは肉体をもって現れたことを明確にしています。「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」と。
人間の五感のうち、三つを用いてキリストを体験し、それを私たちに伝えているのです。
この証言によって、ケリントスが主張していたキリストが人間の姿を取られたのは幻だったとする主張やグノーシスの主張を完全に否定しているのです。

ギリシャ人は神が人間になったことに何の魅力も感じませんでした。
ギリシャ人には肉体という牢獄から開放され、霊になることが救いであり理想でした。
神が肉体をとって現れたという聖書の証言は愚かにしか聞こえなかったのです。

このギリシャ人に対して一番始めに福音を伝えたのはパウロです。
そしてパウロもギリシャ人の哲学が、福音の妨げになっていることに気が付きました。

もしパウロがギリシャ人に受け入れられるように福音を変えていたら、パウロが一番始めの反キリストになっていたでしょう。しかしパウロはギリシャ人に愚か者と罵られながらも肉体を取り、十字架で処刑された神をまっすぐに宣べ伝えました。

「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」第一コリント1章17.18節

神が肉体を取られたことはギリシャ人には愚かに思えたでしょう。しかしギリシャ人が愚かだと思っても、それは神の知恵であり、神の力の現れなのです!
キリストが肉体を取り、十字架に付けられたからこそ私たちの罪は赦されたのです!
ギリシャ人には愚かであっても、これこそが救いの力なのです。

ギリシャ人に受け入れられるように福音を変えてしまった異端の教えは、罪に対しては全くの無力なのです!モルモンもエホバの証人も人間の努力や頑張りを重視する真面目人間には魅力があっても、人を罪を解放する力は無いのです!

キリストの力は私たちを罪から解放し、きよめる力です!その根拠は罪のないキリストが人となって私たちの罪を身代わりに背負い、罰を受けられたことにあるのです。

神よりも人に受け入れられようと、神の言葉を曲げてしまうところから異端は生まれます。どんなに人に受け入れられても、その教えは私たちを罪から解放する力にはなりません。

日本人に分かり易いように、福音を伝えることは私たちは努力すべきです。
しかし日本人に受け入れられるように、福音を曲げてしまうのなら反キリストです。
日本人の考えはギリシャ人の哲学と違い、全ての物の中に神が宿ると考える汎神論です。言葉を換えると多神教です。これが和の精神をも生み出していると言えます。
この文化の中に一神教を伝えるのはとても困難です。
しかし私たちが三位一体を放棄して、多神教を容認するなら会員は増えるかもしれません。会員が増えれば人間的な力は教会に増し加わるでしょう。
しかし罪に勝利する力を私たちは失うことになるのです!

私たちは神の言葉をありのまま受け入れましょう。たとえ私たちには理解できなくても、自分の文化に合わなくても、キリストの言葉を割引したり、増し加えてはいけません。
使徒たちが体験した証言を、私たちはありのまま受け入れましょう。

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」ヨハネの手紙第一1章3.4節

私たちの霊には罪の原因である善悪の知識の実の断片があるのです。これは神よりも自分の方が正しいと思い上がらせるのです。この実を神から盗んで食べた時から、人間は神から切り離されました。人間の方が神を避けて歩き始めたのです。
この罪の原因である実を私たちの内から取り除くのは、悔い改めです。
自分が神よりも正しいとする思い上がりを捨てることです。そして私たちに語られた神の言葉、使徒の証言をありのまま受け入れることです。

その時、私たちはヨハネが書いているように、神との交わりを持つのです。
「御父および御子イエス・キリストとの交わりです」、この交わりこそ、私たちの心に喜びをもたらすのです!それは、キリストにより罪が赦された喜びであり、またキリストの復活のいのちがもたらすいのちの喜びです!

【光の中を歩む】

ヨハネは父が自分の愛する子どもを諭すように、何度も同じ教えを繰り返しています。
同じ信仰を持つ者どうし互いに愛し合うこと。キリストとその言葉に留まること。
そして光の中を歩むことです。これらは反キリストの中には見られないものでした。
しかし、これらのことこそいのちあるクリスチャンの生きる姿なのです。

「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」ヨハネの手紙第一1章10節

ここでヨハネは「光の中を歩む」ことと「やみの中を歩む」ことを対比させながら私たちを教えています。この真理と偽りを対比させながら教えるのがヨハネの特長です。

「光」と「やみ」です。それはまず「真理」と「偽り」の対比でもあります。
神が完全な真理であるように、私たちもキリストの真理に従う時、光の中を歩むのです。

また「ひかり」とは隠し事がないことです。神の前に何かを隠そうとしているのなら、また神と人を欺く生き方をしているなら、それは光ではなくやみの中を歩む生き方です。

「歩む」とは生活における習慣的な行動です。私たちは弱さの故に、失敗をする時があります。罪を犯す時があります。それは「歩む」には当たりません。「歩む」とは、神の喜ばれないことを習慣として行い続け、隠し続けることです。

反キリストは信仰と生活は別であると考えていました。
彼らの信仰は霊の救いであって、生活と切り離された部分の救いでした。

しかし、真理は私たちの「歩み」の中に現されるのです!
私たちもこの部分で間違えないようにしましょう!

「キリストは赦してくれる、愛してくれる、このぐらいの罪は大目に見てくれるだろう。」このように神の喜ばれないことを行い続け、罪をきよめるキリストの血を拒絶するなら、私たちの歩みはストップしてしまいます。神との交わりも途絶えてしまいます。

歩むとは現在進行形です。その時「私たちは互いに交わりを保(つ)」のです。
罪を犯してしまうことが交わりを止めるのではありません。罪を犯しても、それを肯定すること、罪として認めないこと、罪を楽しみ続けることが神との交わりを止めるのです。

神との交わり、光の中を歩む中にも私たちは罪を犯します。失敗します。弱さがあります。しかし、その時は罪をきよめるキリストの血を受けることが出来るのです!
これが私たちに成長をもたらす歩みなのです。

罪を犯さない者が良いのではありません!誰もが生まれながらの罪人です。
罪を犯さない人間は一人もいないのです。しかし、罪を犯した時、それを隠すか、隠さないか、神に助けを求めるか求めないかが重要なのです。神に自分の犯した罪をさらけ出し、キリストの助けを受けることが「光の中を歩む」ことなのです。

そしてキリストの血を受ければ受けるほど、私たちは更に神との深い交わりを持ち、光の中を歩む続けることが出来るのです。

ここで皆さんに尋ねます。神の前に自分の罪を告白したのはいつですか?
「最近、全くありません!」、「忘れるぐらい昔です!」。
私たちは神との交わりが遠いか、近いか吟味すべきです。
神は光です。近づけば近づくほど、自分の中にある罪や悪い思いがしめされるのです。
自分が全く正しく、自分の罪深さに全く気が付かない場合、神さまからの距離を聖霊さまに示してもらうことが必要です。

正しい生き方、道徳的な生き方をしなさいと説教しているのではありません!

大切なのは神と光の中を歩むことであり、キリストの血を受けることです。
私たちが神の前に自分の罪を告白し、自分の弱さを告白する時、神は私たちをきよめるのです。キリストの血だけが私たちの心を悪の誘惑から切り離すことが出来るのです。
キリストの復活のいのちだけが、私たちの心に神の子の性質を生じさせるのです。
正しい生き方、良い行いはその後、きよめられた心が自然に行わせるのです。

日々の個人礼拝の中で神に近づきましょう。聖霊さまに罪を示して頂きましょう。
謙遜に神の前に罪を告白しましょう。これが歩みです。これが日常における習慣になる時、私たちは光の中を歩んでいるのです。歩みには成長が伴います。
キリストの血が私たちをきよめ、私たちをキリストに似た者に変えるのです。
そこには喜びがあります!神とともに歩む確信、罪赦された平安があるのです。

光の中を歩みましょう! 自分には罪がないと、神や他人よりも、まず自分を偽ることを止めましょう。罪を告白することに抵抗を覚える日本の文化からも解放されましょう。

罪には個人の礼拝の中で神に告白し、赦しときよめを体験するものもあります。
しかし、中にはなかなか赦しの確信が持てないもの、また習慣的に行われている罪や、他の人に危害を加えている罪は人々の中で罪を告白するほうが良いこともあります。
このことに関して神に示されている人は牧師に相談してください。

罪を告白することを躊躇わないで下さい!それが歩みを止める原因です。
神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩み、キリストにある解放を体験しましょう。