「キリストの恵みと知識において成長しなさい」
第二ペテロの手紙
牧師 小林智彦

【ペテロの手紙第二:差出人・宛先】

「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。」
第二ペテロ1章1節

この手紙の差出人は「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロ」です。
宛先は「私たちと同じ尊い信仰を受けた方々」です。私たちもペテロと同じ信仰を受けているのですから、この手紙は私たちにも宛てて書かれているのです。

【ペテロの手紙第二が書かれた理由】

「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。」
第二ペテロ3章1.2節

ペテロがこの第二の手紙を書いた理由が書かれてあります。
教会の中に「あなたがたの純真な心」を惑わす偽教師たちが現れ、預言者また使徒たちが警告した「あざける者」が現れてきたからです。

第二ペテロの2章はにせ教師に対する警告と、にせ教師たちがどのような裁きを受けるのかが書かれています。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」第二ペテロ2章1節

この教師は元々は信仰を同じするキリスト信者でした。「あなたがたのの中にも・・現れるようになります」とあるからです。にせ教師と言っても、教師と名が付くのですから、知識はある人たちです。しかしその知識は自分ばかりでなく、他の人々の信仰をも歪める間違った知識でした。

私たちもキリストに対する知識が全て健全な信仰を保証するものでは無いことを知るべきです。歪められた知識、聞くものを滅ぼす知識というものもあるのです。
自由神学と言われるものがあります。これは人間の理性は聖書に勝るとの前提がある神学です。自由神学は聖書の奇跡や癒しの記述を否定し、霊的な存在を受け入れません。
彼らはキリスト教文化を継承しているだけで、いのちある信仰は否定しているのです。
自由神学者たちは人間の理性を神にも勝ると考えています。理性を絶対視する前提があるのです。神に逆らった前提を持って聖書を解釈することを、ペテロは私的解釈と呼んで、注意を呼びかけています。

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」第二ペテロ1章20節

ペテロの警告は今日でも重要なのです!私たちは神学や教えが間違った前提に立っていないかを吟味する必要があります。歪んだ知識は私たちの信仰を破壊し、キリストの愛の実を結ばせなくするからです。

3章でペテロは「あざける者」を警戒するようにと言っています。
「あざける者」は私たちの希望であるキリストの再臨を否定しようとします。
しかしペテロは「こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。(3章5節)」と、彼らの主張も正しい聖書の理解、正しい聖書の知識に立っていないことを指摘しています。

「にせ教師」も「あざける者」も、ともにキリストと聖書に対する正しい知識を持っていないのです。彼らは聖書を知っていると主張しますが、その解釈は私的な解釈に基づく歪んだ知識であり、人々の信仰を破壊し、キリストのいのちから遠ざけるものなのです。

ペテロがこの手紙を書いたのは、「にせ教師」「あざける者」に対する警告とともに、キリストに対する正しい知識を持つことの大切さ、そして如何にキリストに対する正しい知識を持つべきなのかを示すために手紙を書いたのです。

【キリストに対する正しい知識】

キリストに対する正しい知識はどのようなものでしょうか?キリストに対する正しい知識は私たちに何をもたらすのでしょうか?

@キリストに対する正しい知識は私たちに「恵と平安」を与える。

「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」第二ペテロ1章2節

「知ること」と訳されている言葉はギリシャ語ではエピグノーシス(ギ)が用いられています。これは「知識」、「認識」を表すことばです。聖書の他の箇所では、「深く知る」、「自覚」、「正しい認識」と訳されていて、単なる知識(グノーシス)ではありません。

私たちが「キリストへの正しい認識を持つこと」、「キリストを深く知ること」をペテロはまず願っています。なぜなら「キリストへの正しい知識」は私たちの心を「恵と平安」で満たすからです。「キリストへの正しい知識」は私たちに神の国に入る希望と確信を与えます。神の国に入る希望と確信は私たちの心に「恵と平安」を増し加えるのです。

「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。」第二ペテロ1章11節

「恵と平安」はキリストへの正しい認識によって与えられるのです。

Aキリストに対する正しい知識は、私たちを神に似た者に成長させる力を与える。

「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」第二ペテロ1章3.4節

キリストを正しく知り、深く知ることは私たちをキリストに似た者に変える力になります。

にせ教師たちはキリストに対する知識を誇りながらも、生き方においてキリストを否定していました。

「彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」第二ペテロ2章18.19節

キリストを知っている!とその知識を誇りながら、罪に征服されている。それは本来はあり得ないことです。キリストを知る知識は私たちに罪に対する力を与えるのです!
キリストを知っていると言いながらも、罪に対して無力なら、その知識は無意味です。

世界観と言う言葉がありますが、私たちがキリストを正しく知り、深くキリストを知るなら、キリストの世界観を私たちは得るのです。世界観とは物事の見方、とらえ方、考え方の全てを含みます。つまりキリストを知るとはキリストの世界観を共有するのです。
キリストが考えたように私たちも考え、キリストが感じたように私たちも感じる時、私たちはキリストと同じ行動を取るはずなのです。

キリストを正しく知ること、それが私たちを神の似姿へと成長させる力なのです。

【あらゆる努力をしなさい!】

ペテロは私たちに勧めています。「あらゆる努力をしなさい」と。

「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」第二ペテロ1章5から8節

努力を勧めるメッセージは嫌われるかもしれません。しかしペテロが勧めているので私も勧めます。ペテロはあらゆる努力をしなさい!と言っています。
あらゆる努力をして私たちはキリストを正しく知るべきなのです。
キリストを知ることが私たちの信仰に徳を加え、徳に知識を加え、知識に自制を加えることになるのです。

ここで勘違いして欲しくないのは、あらゆる努力をしてキリストのように演技してくださいと言っているのではないのです。クリスチャンらしく、またイエスさまのように演じて生きることを勧めているのではありません。内面から変わって欲しいのです!
外面をいくらイエスさまの振りをしても何時か疲れ果ててしまいます。
しかし、内面からイエスさまのように変えられるならば、疲れることは決してありません。
私たちの内面を変えるのは「キリストに対する正しい知識」です。
ですから、あらゆる努力をして「キリストに対する正しい知識」を増し加えましょう。

【聖書を体験として読む】

どのようにしてキリストに対する正しい知識を増し加えることが出来るのでしょうか?

「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」第二ペテロ1章16から18節

新約聖書はペテロを始め、使徒たちの体験記です。使徒たちがイエスとともに生活し、学び、体験したことを書き記したもの、それが新約聖書にまとめられていったのです。
使徒たちはイエスが神であることの目撃者であり、証人です。
新約聖書は神学書ではなく、使徒たちの体験談であり、証言を集めたものなのです。

使徒たちはキリストを体験することによって知ったのです。正しい知識を得たのです!

私たちも体験を通して、生ける神を正しく知ることが出来るのです。

まず、お勧めすることは使徒たちの体験を追体験することです。
新約聖書を使徒たちの体験書として、私たちもその体験を追体験しながら読むのです。

ペテロはあらゆる意味で模範的な使徒です。それは素晴らしい働きにおいても用いられましたが、しかし弱さにおいて、また失敗においてもです。

ペテロがイエスさまを3回も面前で否定したこと。ペテロの弱さに対してキリストはどれ程、憐れみ深く接し、彼を赦したのか。私たちはこの赦しの体験を追体験するのです。

誰でも神に赦しを乞う必要があるはずです!神の前に誰がありのままで立つことが出来るでしょうか?誰もが赦しを必要としているのです。
ペテロが赦された体験を通して、私たちもキリストの赦しを体験するのです。
ペテロへの赦しを、自分の赦しとして受け取るのです。
その時私たちはイエスを知ることが出来ます。

聖書を自分と切り離して読んだら、それは何の意味もありません。
ただの古典を読んでいるだけで、それは聖書、神の言葉ではなくなるのです。
自由神学者たちは聖書を、キリスト教文化が残した偉大な古典として研究しています。
しかし、それは生ける神を知ることにはなりません!
聖書を使徒の体験として読み、自分もその体験を共有する時、私たちは神を知るのです。

また私たちは自分の生活の中で神を体験します。その体験が更に神への知識を深めます。

ペテロは変貌の山で、キリストの栄光の姿を目撃しました。
しかし、この体験をする前に、ペテロはとても大切なことをしました。
それは、イエスが生ける神の子キリストであると、自分の口で告白することでした。

マタイ16章を開いて下さい。16節でペテロはイエスを生ける神の御子キリストですと告白します。そして17章に1節にはその告白の六日後に、まさに告白した通りに父なる神の「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」との声を聞くのです。

キリストに対する正しい信仰の告白が、正しい信仰の体験を私たちに与えるのです!

信仰を持って神のみ言葉を告白し、そして行って下さい。その通りにあなたは神を体験するでしょう。そして、神を正しく知るのです。体験を通して神を知ってください。

【聖書の正しい解釈を通して神を知る】

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」第二ペテロ1章20.21節

にせ教師は聖書の「私的解釈」をしていました。「私的解釈」とは、自分の都合に合わせて聖書を読むことを言います。

キリスト教もヨーロッパでは長い歴史を持っています。ローマの国教になってからはキリスト教は政治と結び付くことになります。神さまの御心を知るために聖書を読んだ王様は非常に少なかったでしょう。ほとんどが自分の政策や立場を守るために聖書を利用しました。旧約聖書の聖戦の記事を引っ張り出して、異教徒を滅ぼすことは神の御心だと、十字軍を派遣しました。これらは全て聖書の「私的解釈」から生じたものです。

始めから自分の考え、思いこみを抱えたまま聖書を読む時、私たちはこの間違いを犯しやすいです。私たちは自分の思いこみ、自分の考えを脇に置いて、しもべの心を持って聖書を読むべきです。主人は聖書、私たちはしもべです。
私たちが主人になって、聖書を従わせようとすると、それが「私的解釈」です。

聖書が主人、私たちはしもべです。謙遜になって、聖霊さまに聖書の説きあかしを求めましょう。聖書の著者は聖霊さまですから、聖霊さまの助けが無くては聖書を正しく理解することは出来ません。これが聖書を読む時の私たちの態度です。

「私的解釈」を防ぐ方法として、今私たちが教会で取り組んでいる通読も助けになります。一つのことば、一つの箇所だけを読んでいると、偏ってくるのです。
聖書全体を何度も何度も読むうちに、聖書全体が語りたいことが聞こえてくるのです。

また、前後の文脈を理解しながら聖書を読むことも大切です。
文脈を理解しながら読む時、思いこみから来る間違いを防ぐことが出来ます。
また文脈を理解しながら読むと、著者の考えかた、著者の本当に言いたいことが良く分かってきます。 聖書の正しい解釈を通して、正しく神を知りましょう!