「生ける希望」
第一ペテロの手紙
牧師 小林智彦

「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」第一ペテロ1章1.2節

今週の通読箇所はペテロの手紙第一です。手紙の差出人は冒頭に書かれてあるように使徒ペテロです。そして宛先は現在のトルコにあたります。その地方に「散って寄留している、選ばれた人々」です。「散って」はディアスポラと言う言葉が使われています。
これはイスラエルを離れたユダヤ人を指す言葉です。この手紙もヘブル、ヤコブと同様にユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙と言えるでしょう。しかし手紙の本文には異邦人クリスチャンに対する内容も含まれているので、全てのクリスチャンに宛てて書かれていると言えるでしょう。

ペテロは手紙の最後でバビロンから挨拶を送っています。バビロンとは今のイラク南部です。実際、バビロン捕囚の時から大勢のユダヤ人がバビロンに住むようになりました。
しかし、ペテロ、そして弟子のマルコがバビロンで活動していたとは考え難いのです。
バビロンとはユダヤ人が祖国から捕らえ移された地です。
ペテロはローマにいたと考えられるのですが、あえてバビロンという地名を出すことによって、私たちは真の住まいである神の国を待ち望むものであり、この世にあっては寄留者であることを強調する狙いがあったと考えられます。

この手紙はキリストの再臨、神の国の到来を待ち望む手紙です。私たちの永遠の住まいは神の国であり、決してこの世ではないこと、この世にあっては私たちは寄留者に過ぎないことを強調しています。

私たちはこの世にあっては寄留者です!寄留者とは一時的に他人の家に住まわせてもらっている人のことです。この世界は、私たちの本当の住まいではないのです!

【ペテロが手紙を書いた理由】

ペテロがこの手紙を書いた理由、背景について見ていきましょう。

「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」第一ペテロ4章12.13節

やがて近いうちに必ず起こるであろう「火の試練」に備えなえるための警告として、ペテロはこの手紙を書きました。

「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」第一ペテロ4章17節

このペテロの預言は、ネロ帝の大迫害、その後長く続くローマ皇帝の迫害で現実になりました。約200年にも渡って激しい迫害が繰り返しキリスト教会を襲ったのです。
しかし教会は迫害の度に成長し、ローマ帝国がキリストの前に跪いたのです。

教会はペテロを始めとする指導者たちの警告に耳を傾けたのです。
私たちもペテロを通して語られる主の御声に耳を傾けましょう。

確かに今の日本は平和です。「火の試練」に備えなさい!と言われてもピント来ないかもしれません。ペテロが手紙を書いた時も同じでした。しかし、その試練、迫害は突然、教会を襲い始めたのです。今の日本は平和で安定しています。しかし、目を海外に向けるなら20世紀、21世紀はクリスチャンにとって大迫害の時代であることに気付くのです。
20世紀はクリスチャンが最も多く殉教した100年間であると言われています。
私たちもペテロが警告しているように「火の試練」に対して備えましょう。

【生ける希望:「そういうわけで、あなたがたは多いに喜んでいます」】

私たちは「火の試練」に対して、どのように備えるべきなのでしょうか?
試練を乗り切る力は一体なんでしょうか?何処から来るのでしょうか?

「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」第一ペテロ4章12.13節

ペテロは「喜んでいなさい」と勧めています。
試練を乗り切る力は、私たちの喜びから来るのです!
喜びこそ、私たちに試練に打ち勝ち、乗り切る力を与えるのです。

頑張りや努力では続かないのです。思いこみや気合い!も長く続く試練には無力です。
これは私たちのクリスチャン生活にも当てはまるのです。
信仰が停滞する。聖書が読めない。祈れない。「頑張らなくちゃ!」と自分を鼓舞しても、疲れるだけ。よけいにやる気がなくなってくる。
何処に原因があるのでしょうか?喜びです。喜びが無くなっているのです!
クリスチャン生活は決して義務感や使命感だけでは送れません。
喜びが無ければ、私たちはクリスチャンとしての人生を過ごすことは出来ないのです。
ましてや試練に対しては、喜びの無い信仰では太刀打ちできないのです。

喜びです! 試練に打ち勝つ力は喜びから来ます!

それでは試練にさえ打ち勝つ力を与える喜びは何処から来るのでしょうか?
希望です!私たちは希望がある時、喜べるのです。
私たちを待っている希望が大きければ大きいほど、私たちの喜びも大きくなります。

学生の時も、夏休みが待っている!と思うから、その前の期末試験を乗り切ることが出来ました。そのように辛いと思えることも、その後に楽しみが待っていることを知るならば、乗り切ることが出来るものです。希望は驚くほど私たちに力を与えるのです。
希望は私たちに喜びを与え、試練をも乗り切る力を私たちに与えます。

パウロはこの希望を、ただの希望ではなく、「生ける希望」と呼んでいます!

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」
第一ペテロ1章3節

ただの希望ではなく、「生ける希望」です。「生ける」とは「永遠に生きる」ことです。
この希望は無くなることがないのです!なぜならキリストの復活によって私たちに与えられた希望だからです。この希望についてはペテロは詳しく次の節で述べています。

「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。」第一ペテロ1章4.5節

私たちのために貯えられてある資産、キリストの再臨とともに現される完全な救い、これらは変わることも無くなることもない私たちの希望なのです!
キリストが私たちの罪のために死に、復活されたことにより、これらのものが私たちの希望として与えられたのです。これらは地上にあるのではなく、天にあるものです!
キリストの再臨の時、完全に私たちに与えられるものなのです。

キリストの再臨、そしてキリストが支配する神の国に永遠に住むことこそ、私たちの希望です。キリストの再臨を待ち望む時、決して無くならない喜びが湧き上がるのです。

私たちはこの喜びを実感していますか?
キリストの再臨が私たちの生ける希望になっているでしょうか?
この世の何ものにも勝ってキリストの再臨を待ち望んでいるでしょうか?

私たちが未だにこの世にしか希望がないならば、残念です。
信仰に伴う試練や困難が訪れたら、簡単にキリストから離れてしまうでしょう。
この世の希望は「生きる希望」ではありません。必ず失望に終わる空しい希望です。
この世にしか希望を持てない人は、この世の人生ですら失望に終わってしまうのです。

私たちはキリストの与える「生ける希望」を確かに手にしているでしょうか?

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
第一ペテロ1章8.9節

ペテロは私たちに救いの喜びについて思い起こすように勧めています。
私たちも自分がイエス・キリストを救い主として受け入れた時の喜びを思い出しましょう。キリストの十字架の死と復活によって私たちの罪が完全に赦された、あの罪からの赦し、解放の喜びを思い出しましょう。価値が無いと思い込んでいた自分を、あなたは高価で尊いと、そして自分の子どもにして下さった神の愛、その神の愛に触れられた時を思い起こしてみましょう。それは大きな喜びでした。これは私たちが体験している喜びです。

ペテロは言っています、救いの喜びがそれほど大きいならば、キリストが再臨され、私たちの救いが完成される時の喜びは更に大きいのだと!

キリストの再臨こそ、私たちの「生ける希望」であり、喜びの源です!

「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」第一ペテロ1章13節

キリストの再臨をひたすら待ち望みましょう!

【生ける神のみ言葉】

そしてキリストの再臨が私たちの「生ける希望」となり、喜びの源になるには、いつもこの真理に目を開かせ、悟りを与える「生けるみ言葉」なのです。

「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」第一ペテロ1章23節から25節

「生ける神のみ言葉」だけが、この世の栄えが過ぎ去るものであることを私たちに教えます。神の言葉と神の約束だけがいつまでも変わることなく、そして必ず実現するのです。

私たちは目に見えるものが永遠に続くと思いがちです。
聖書に書いてある約束の方を疑う人の方が多いでしょう。
しかし、かつての世界帝国だったエジプトもアッシリアもバビロンもペルシャもローマも全て滅びました。しかし、この四千年の歴史を経ても変わらないのが聖書のことばです。
聖書は「生ける神のみ言葉」だからです!

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」

とこしえに変わることがない神の言葉、必ず成就する神の言葉は、キリストが再び来られることを確かに約束しています。神が約束されたことが歴史の中でどのように実現してきたのかを学んでください。神の約束が驚くべき確かさを持って歴史の中で成就して来たことを私たちは知ることが出来ます。歴史は神が実在のお方であることを証明しています。何故なら聖書の約束、預言が成就しているからです。

神の言葉、神の約束が必ず実現すると確信できたら、それは何と幸いなことでしょう。
聖書のことばが神の生けるみ言葉であることに確信が持てるなら、私たちの神に対する希望は更に大きな喜びを私たちにもたらします!

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」第一ペテロ2章1.2節

神の言葉が歴史においてどのように実現してきたかを学ぶことをお勧めします。
また、いま実現しつつある聖書の預言を学ぶこともお勧めします。
み言葉に対する客観的で正しい知識は、私たちに霊的な成長をもたらし、キリスト再臨の希望を確かにし、揺るがない喜びを私たちにもたらします。

喜びです!生ける希望は私たちに喜びをもたらし、生ける神のみ言葉はこの希望を確かなものとします。この生ける希望が私たちに与える喜びこそ、やがて来る「火の試練」をも乗り切る力なのです。