「さらにすぐれた故郷」
ヘブル人への手紙
牧師 小林智彦

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし事実、彼らはさらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」ヘブル人への手紙11章13節から16節

ヘブル人への手紙には、私たちの人生が向かう目的地が明確に記されています。
聖書はハッキリと私たちの人生の目的について教えています。

多くの人は人生は長くても90年、もしくは100年だろうと考えます。
その90年の人生を少しでも楽しく、他の人よりも豊かに暮らせたら良いと考えています。しかし、聖書はこのような人生観を否定します。
聖書は人間の人生が死んで終わりとは教えていません。
単に死後の世界があると教えているのでもありません。それ以上です!

聖書は私たちの本当の人生は、この地上の人生が終わった後に訪れると教えています。
この地上の人生はある意味でテスト期間であり、その後の永遠の命を過ごすための備えの期間であると教えています。

今年の夏はとても暑く、また例年よりも蝉の声が大きかったように思われます。
私の家の隣は神社ですが、沢山の蝉の抜け殻が落ちていました。
皆さんもご存じのように蝉は成虫になるまで数年間、地中で暮らします。
そして、時が来ると地上に出て来て脱皮し、そして空を飛び回るようになるのです。

蝉がもし、自分の人生は地中の中で過ごす数年間だけだ!と思っていたら、決して成虫になることはなく、自分の人生の本当の意味を知ることはないでしょう。真っ暗な地中をはい回るだけの辛い人生だったと、ひたすら蝉に生まれたことを嘆くでしょう。

私たちの人生も同じなのです。この短い地上の人生だけが人生ではないのです。
もしこの地上の人生だけが人生なら、何と不公平で不合理に満ちた人生でしょうか?

多くの人が短い地上の人生を何とか満足して生きようと快楽を追い求めて生きています。確かに90年ぐらいで、人生が終わり、その後は何も残らないと考えるなら当然かもしれません。地上の人生しかないと考える人の生き方は、快楽追求の人生になるでしょう。

しかし聖書は私たちの人生についてこのようにハッキリと教えています。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・」
ヘブル9章27節

人生がもし長くて90年で終わり、その後に何もないならば私は皆さんに言います!
「せっかくの休日に教会なんかに来ないで、自分の快楽を思う存分に追求して下さい」と。

しかし、誤りのない神の言葉である聖書がハッキリと私たちの人生は地上の人生だけではなく、その後に本当の人生、永遠の人生があると教えているので、皆さんに神の言葉を学ぶように勧めているのです。

私たちの死後に何が待っているのか?それを知ることによって、私たちの人生の意味は大きく変わります。聖書はハッキリと裁きがあると教えています。その裁きは私たちの永遠の住まいを決定する裁きです。

神と神の言葉を信じる者は、永遠を神とともに生きるように定められます。
人間は本来、誰もが神と永遠を過ごす者として神が造られたのです。
しかし人間の一番の先祖が、人生の途中で神に逆らってしまった。

神は愛の方です。そこで神は人間が自分の意志で神とともに過ごすか過ごさないかを決める自由を与えられたのです。私たちが自分の意志で永遠の住まいを決めるのです。

誰でも神と神の言葉を信じ、神を愛する者は神と永遠を過ごす者と定めて下さいます。
しかし、神と神の言葉を否定し、聞き従いたくない者には神のおられない場所で永遠を過ごすように定められるのです。その場所は本来、人間が行くべき場所ではありません。

神に一番初めに反逆した悪魔・サタンとその従者たちのために定められた場所だからです。その場所は命の光も赦しも和解もなく、怒りと憎しみの場所、永遠の滅びの場所です。

今日、教会に集まっている皆さんは神と永遠をともに過ごすことを選んだ人たちです。
皆さんは正しい選択をされました!決して誰も地獄に行ってはならないのです。
誰ひとりとして滅びの場所で永遠を過ごさないために、神は大切な一人子であるイエスに十字架の上で地獄の苦しみを背負わせたのです。

それはすべての人に罪がもたらす結果が如何に残酷であるのか、永遠の滅びがもたらす苦悩がどれ程であるのかを示すためでした。

十字架で現された死と滅びの苦悩を体験するのはイエス・キリストだけで十分なのです。
イエスは本来私たちが背負うべき罪の十字架を代わりに背負って下さったのです。
キリストが私たちに代わって、私たちの罪の支払いを済ませて下さったと信じるなら、誰でも罪が赦されるのです!

「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」ヘブル9章27節(後半)から28節

神は私たちが誰ひとり永遠の滅びを受けないように、イエスを身代わりに十字架に付けて下さったのです。キリストが私たちのために死んで下さったことを信じる者は裁かれることはありません。キリストの十字架によって罪のさばきが過ぎ去ったからです。

しかし、神を否定し、神の遣わした救い主であるイエスの身代わりの死を受け入れないなら、自分で自分の犯した罪の支払いをしなければなりません。神を拒否したのですから、神がおられない、神の恵みが一切無い場所で永遠に罪の償いをしなければならないのです。

あなたの永遠の住まいは何処ですか?
はじめて教会に来られた方も、またすでにクリスチャンの方も自分の心に問うて下さい。
私たちの人生は永遠の世界と結び付くとき、初めて意味を見いだすことが出来るのです。

あなたの地上の人生は、神とともに永遠を過ごすための準備の期間ですか?
永遠の住まい、天の故郷を見失うなら、私たちの人生は場当たり的、短絡的な生き方になります。回りの状況や問題に振り回され、自分を見失う生き方になるでしょう。
それは永遠という支点を失っているからです。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし事実、彼らはさらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」ヘブル人への手紙11章13節から16節

ヘブル人の手紙が書かれた背景は先週話しました。
エペソで起きた大リバイバルによって、多くのユダヤ人たちが形式的で命のないユダヤ教からイエスを救い主として信じて救われました。イエス・キリストの救いによって、天の故郷を目指す信仰生活を始めたのです。しかし、迫害が起こりました。
パウロやテモテらが逮捕され、パウロは殉教しました。他の使徒たちも殺されました。
ネロ帝による迫害があまりにも長く、辛いので、ある者たちは迫害を避けて、安全なユダヤ教に戻って行きました。彼らは救い主イエスから離れ、天の故郷、神の国を見失い、地上でただ安全に楽しく過ごすことだけを願ってしまったのです。
(私たちは本当に弱い者です。このような過ち失敗を何度も繰り返します)

ヘブル人の著者はこのように語りかけています。

「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」ヘブル13章14節

私たちは耐えず軌道修正しなければなりません。永遠の住まいを地上から天に向けなければなりません。私たちは簡単に目に見える物、手で触れるものを信頼し、求めてしまいます。しかし聖書は目に見える物はやがて必ず滅びる通しています。目に見えない物こそ永遠であると教えています。私たちには目には見えないけれども確かな神の約束のみ言葉があります。神のみ言葉が約束している天の故郷をいつも目指して歩みましょう。

しかしこのように勧めると、ある人は思うでしょう。それならクリスチャンは世捨て人のように地上に関心を持ってはならないのか?地上の人生には意味や目的がないのか?と。

地上の人生に意味がないとは決して聖書は教えていません!
地上の生き方が、永遠の住まいを決めるのです。
私たちが永遠と結び合わせられる時、初めて地上の人生にまことの意味を見いだします。
天の故郷を目指す人生は、地上の人生を無意味と考えるのではなく、全くその逆でまことの意味を与えるのです!


どのような意味を私たちの地上人生にもたらすのでしょうか?
それは私たちの人生における苦しみ、試練に正しい意味を与えるのです。

ユダヤ人クリスチャンを始め、初代教会のクリスチャンたちは激しい迫害に合います。
ネロ帝が失脚した後も、次々現れる皇帝によってクリスチャンは迫害されていきます。

神が全能ならばなぜ迫害を許すのだろうか?
迫害だけではありません。全能の神を信じているのに、なぜ私たちの人生に問題が起きるのだろうか、試練が起きるのだろうか?

人生を地上の人生だけに限定するなら、迫害や試練、人生に起こる様々な問題は避けて通りたいものです。苦痛を与えるだけで何の意味も見いださないでしょう。
地上の人生だけに思いが捕らわれているなら、迫害や試練、人生の問題に対して意味を見いだすことは出来ないのです。試練や問題を避けることによって、実は試練や問題に振り回される人生を送るようになるのです。

しかし、永遠の故郷、神の国を目指して進む者には、迫害や試練さえも大切な意味を見いだすことが出来るのです。


「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」ヘブル人への手紙12章7節から11節

私たちの人生で一番遠ざけたいもの、試練や苦難にさえ、私たちは意味を見いだすことが出来るのです。永遠を神とともに過ごすために、神は地上の人生を通して私たちを整えて下さるのです。その一つの手段が試練なのです。

「霊の父は私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめはそのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

試練は私たちの人格に聖さをもたらすのです。「聖さ」とは神のご人格全てのことです。神の聖さの中には神の愛、赦し、義が含まれます。私たちは神の人格にどうすれば近づけるのですか?神が与えた試練を信仰を持って受け止めるときに与えられるのです。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」
ヘブル人への手紙5章7節から10節

私たちの大祭司であり、救い主であるイエスさまも神の子であるのに試練を受けられました。神の子であるイエスさまが涙と叫び声を上げて祈られたのです!しかし、その試練は私たちのための試練でした。私たちの救いを成し遂げることが主の試練だったのです。
また主は私たちに人生の試練をどのように受け止めるのか、その模範を示されたのです。

私たちもイエスさまに倣いましょう!決して問題から逃げないようにしましょう。
決して試練に対して不信仰な態度で取り組むことを止めましょう。
問題の中に、試練の中に、私たちを永遠の世界に生きる者、神に似た者に変える力が隠されているのです。そして辛いときはイエスさまが「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」たように、私たちも天の父に、そしてイエスさまに心を注ぎだして祈りましょう。

同じ試練を体験されたイエスさまは私たちの辛さを理解して下さいます。
私たちが弱く、祈れないようなときも、代わって私たちのためにとりなして下さいます。

イエスは私たちのために永遠の住まいを用意され、その道も開いて下さいました。
イエスは私たちの先頭を進み、模範示して下さいました。
イエスはいま天で私たちの歩みを見守って下さり、落伍する者がいないように祈り続け、また必要な助けを送ろうと見守って下さっているのです。

このような大祭司であり、魂の牧者であるイエスさまがともにおられるのですから、私たちは天の故郷、神の国を目指しながら進んでいきましょう。私たちの永遠の住まいは天にあります!