「恵によって強くなりなさい」
テモテへの手紙第二
牧師 小林智彦

【 牧 会 書 簡 】

今週はテモテへの手紙第二を分かちあいましょう。
ローマ人への手紙からテサロニケ人への手紙までの9通の手紙は教会に宛てて書かれました。先週から学んでいるテモテ、そして来週学びますテトス、そしてピレモンへの手紙は個人に宛てて書かれた手紙です。

そして、テモテ第一と第二、テトスへの手紙は教会を牧会している牧師に向けて書かれた手紙なので「牧会書簡」と呼ばれています。「牧会書簡」と言っても、どのように教会を運営するのかが書かれているのではなく、牧師としての生き方、心の態度、また実際に牧会する上での注意などが書かれています。

牧師に向けて書かれているので、その内容は厳しいものになっています。
要求している水準は非常に高いと言えるでしょう。

先週ティム牧師から学びました「衣食があれば、それで満足すべきです(第一テモテ6:8)」も、律法として読むのではなく、宗教活動を通して暴利を貪ろうとするエペソで活躍していた偽教師の姿勢に、「テモテ、あなたは牧師として惑わされるな!」とのパウロの戒めなのです。

それでは「牧会書簡」は、牧師だけが読むべき手紙なのでしょうか?
もちろん、そうではありません。しかし、字義通り生活に適用しようとするときは注意が必要でしょう。

まず第一に覚えるべき事は、この手紙を書いたパウロも、また受取人であるテモテもテトスも独身者でした。彼らは教会と結婚した人たちであると言えるのです。
彼らの家庭は教会でした。パウロは彼が置かれた状況では、家庭を持ちながら世界宣教の働きを両立させることは不可能だと思っていたようです。そのため、パウロは独身を貫き、また独身で過ごすことを全ての人に勧めています。

パウロは結婚が悪いとか、家庭の価値を低く考えているのでは決してありません。
その逆であると言えるでしょう。パウロは結婚して家庭を持つときに生じる男性の責任について良く理解していたのです。夫は霊的、精神的、物質的に妻と子ども達を養っていかなければなりません。この責任を放棄する者は決して神の家である教会に仕えることは出来ないとパウロ自身が言っています。

つまり、どの聖書箇所にも言えることですが、一つの節だけを切り抜いて過激に自分に適用することがないように注意させていただきます。
聖書は決して家庭を捨てて、世捨て人の生活を送りなさいとは勧めていません。

ただ独身の方で、生涯を主の働きと教会の発展に捧げたいと願う方は、どうぞこの牧会書簡で勧められている生き方、またパウロの生涯に倣う者となって下さい。
その生き方も主はとても喜んで下さると思います。
しかし、独身者として神に仕えることは賜物であり、神にそのように選ばれた者の生き方であるとイエスさまは言われました。決して無理して独身者を貫かないようにして下さい。

それでは、家庭を持っている人には牧会書簡はどのように適用すれば良いのでしょう。
私たちの船橋エクレシアの考えでは、家庭こそ、まず第一のエクレシア、教会であると考えています。結婚して妻子のある方は、家庭こそが自分に委ねられている教会なのです。

牧会書簡には霊的な父親としてのパウロの愛と厳しさに満ちています。
私たちはパウロに父親としての模範的な姿を見いだすことが出来るのです。
パウロが教会に仕えたように、家庭のある人は妻と子ども達に仕えるのです。
パウロが父親の心を持ってテモテ、テトスを導き育てていったように、家庭で自分の子ども達を導き育てるのです。パウロは自分の子どもは結婚しなかったのでいませんでしたが、多くの霊的な子ども達を育てました。パウロは父親として優れた模範なのです。

ですから船橋エクレシアでは家庭を持っておられる方は、家庭が第一のエクレシア(教会)であると覚えて下さい。地域教会である船橋エクレシアは第二番目の優先順位です。
まず妻と子ども達に充分に仕え、み言葉と物質的な物で養って下さい。そして余力があったら船橋エクレシアで仕えて下さい。地域教会のために自分の家庭を犠牲にしないで下さい!

ただ独身の方、また家庭での義務を終えられた方は、船橋エクレシアを自分の家庭として
建て上げ、仕えて下さい。

【テモテへの手紙第二】

さてテモテへの手紙第二ですが、第一の手紙よりも厳しいものが伝わってきます。
パウロが非常に厳しい状況で、この手紙を書いていたことが伝わってきます。

「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。(4章6節)」

パウロが自分の死を明確に意識していたことが分かります。
テモテ第二はAD66年の夏から秋頃に書かれたようです。そしてパウロは自分の予想通り、67年の春ごろにネロ帝による迫害によって斬首されたと伝えられています。

歴史によるとAD64年にローマで大火が起こりました。その原因については皇帝ネロ自身が放火したとも言われていますが、ハッキリした原因は分かっていません。
しかし皇帝ネロが大火の責任をキリスト教徒になすりつけ、非常に多くのクリスチャンを殺害したことは歴史的な事実です。ネロは自らキリスト教徒と公言する者を捕らえて、放火犯として殺害したのです。パウロ、またペテロもこの時の迫害の犠牲者となりました。

テモテ第二の内容が厳しく感じられるのは、厳しい迫害のなかで書かれた手紙だからなのです。パウロの遺言とも言える、テモテへの最後の命令が4章2節にあります。

「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」第二テモテ4章1.2節

み言葉を宣べ伝える事、これこそパウロが生涯を懸けて取り組んできたことです。
そして、これはイエスさまが地上を去るときに弟子たちに命じたことなのです。

私たちもみ言葉を伝えましょう!

み言葉を伝える対象はそれぞれの使命によって違うでしょう。
ある人は海外に出掛けて宣教する働きを主から与えられているかもしれません。
ある人は街頭に立って路傍伝道する働きを与えられているでしょう。
またある人は職場の人に、ある人は子ども達に、ある人は親せきにみ言葉を伝えることが任せられていると思います。

伝える対象の違い、遣わされる場所の違いはあるにしろ、私たちはみ言葉を宣べ伝えましょう!なぜならキリスト以外に救いは無いからです!

私たちを死と滅びに縛り付ける罪から私たちを救い出すことが出来るのはイエス・キリストしかおられないからです!

日本の大多数は福音を拒絶するかもしれません。しかしキリストの救いを必要としている人々が大勢いることも確かなのです。私たちはその人々に福音を伝える特権が与えられているのです。

また私たちが神の愛に生きることを通して、キリストに対して目が閉ざされている人々の目を開いていくことも私たちに与えられた特権なのです。

生涯を福音宣教に捧げ続けたパウロはこう言っています。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」第二テモテ4章7.8節

み言葉を宣べ伝える者の生涯は決して空しく終わりません!
パウロの地上人生は首を切られて終わりました、しかし、それで終わったのではありません。パウロの人生を正しく評価するのは神であり、主は彼に「義の栄冠」を授けて下さるのです。そしてこの約束は彼だけではなく、キリストを信じて歩む者すべてに約束されているのです。

私たちはみ言葉を宣べ伝えましょう!時が良くても悪くても。

【恵によって強くなりなさい】

「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」2章1節

迫害のなかにあっても、キリストの福音を伝え続けたパウロでしたが、その勇気、忍耐力、力は何処から来ているのでしょうか?

パウロはテモテに「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」と勧めました。

福音を伝える動機が、ただの義務感や頑張り、人に言われたからすると言ったものならば、直ぐに力を失い、燃え尽きてしまうでしょう。
しかし私たちが福音を伝える動機、そしてその力は恵から来るのです!

キリスト・イエスにある恵を覚えるとき、私たちの中には迫害にも打ち勝つ力が与えられるのです。

キリスト・イエスにある恵とは何でしょうか?

まず第一に神の御子イエスが私たちを愛して、私たちの罪のためにご自身の命を与えられたことです。神の愛と赦しを覚えることです。
私たちはキリストの流された血潮によって罪赦され、神の子とされたのです。

また神は私たちを愛し、価値あるものとしてご覧になっていて下さいます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:4

私たちがどんなに神に愛されているのか?これを知ること、その愛を受け入れること、その愛を証明して下さる聖霊に満たされること、これが恵によって強くなることです。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ローマ8章35節から39節

困難と迫害のなかにあっても福音を語り続けたパウロ、パウロの原動力は神の愛でした。
義務感や使命感、頑張り、でもそれらはいつか燃え尽きます。疲れます。
しかし神の愛を知ること、そこから溢れてくる力は燃え尽きることがありません。
私たちは恵によって強くなりましょう! 
キリストの愛に押し出されて進みましょう!