「再臨の希望に生きる」
第一・第二テサロニケ人への手紙
牧師 小林智彦

【テサロニケ教会誕生と手紙が書かれた背景】

今週は第一・第二テサロニケ人への手紙から神さまのことばを分かちあいましょう。
テサロニケの町で教会が誕生した経緯については使徒の働き17章に書かれています。

「牢を出たふたりは、ルデヤの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出て行った。」使徒の働き16章40節

ルデヤはピリピで最初に救われた女性で彼女の家が最初の教会になりました。
このピリピでの宣教をひとまず終わらせたパウロが次ぎに向かったのがテサロニケです。

「彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、『私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。』と言った。彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。」使徒の働き17章1から4節

「三つの安息日」とは三回の土曜日、つまり三週間を表しています。
一ヶ月に満たない短い期間しかパウロは福音を宣べ伝える事が出来ませんでした。
なぜなら一部のユダヤ人から激しい反対と迫害に会うからです。

「ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。しかし、見つからないので、ヤソンと兄弟たちの幾人かを、町の役人たちのところへひっぱって行き、大声でこう言った。『世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいます。
それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ないをしているのです。』こうして、それを聞いた群衆と町の役人たちとを不安に陥れた。彼らは、ヤソンとそのほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂にはいって行った。」使徒の働き17:5〜10

しかしテサロニケのユダヤ人は、パウロがテサロニケを去った後も彼らの後を追いかけて迫害を続けます。

「ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神のことばを伝えていることを知り、ここにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。そこで兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して海べまで行かせたが、シラスとテモテはベレヤに踏みとどまった。パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。」使徒17:13〜15

テサロニケのユダヤ人はパウロをしつこく迫害し続け、パウロはアテネまで来てようやく彼らを振りきることが出来たようです。しかしパウロの心の中にあったのは、テサロニケで迫害の中に誕生した教会と信徒たちのことでした。

このような激しく執拗な迫害のなかで、テサロニケの教会は無事だろうか?信徒たちは信仰を守ることが出来ているだろうか?パウロの心は不安だったようです。
そこでアテネから弟子のテモテをテサロニケに遣わしたのです。

「そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。」第一テサロニケ3章1節から5節

しかしパウロの心配は喜びと神への感謝と賛美に変えられました!

「ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。」第一テサロニケ3章6節から9節

テモテは喜ばしい知らせをパウロに伝えました。テサロニケの教会は激しい迫害のなか、短期間の宣教で産み出されたにもかかわらず、信仰を保ち続けていること、神の愛を実践していること、またユダヤ人の妨害にもかかわらずパウロたちを神の僕と敬い、慕い続けていることを聞いたのです。

この嬉しい知らせに対する喜びと、またテサロニケの教会で起きている問題についての指導のために書かれたのがテサロニケ人への手紙なのです。

【テサロニケ人への手紙の特徴】

テサロニケの教会は激しい迫害と、またパウロの指導が僅かであったにもかかわらず、なぜ信仰を保ち続け、成長することが出来たのでしょうか?
その答えは、そのままテサロニケ人への手紙の特徴にもなっていると言えるでしょう。

テサロニケ教会の信徒はキリストが再臨する希望に支えられていたのです!

第一テサロニケは5章からなります。その5章の終わり全てに再臨に対する希望が書かれています。

「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」第一テサロニケ1章10節

「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」第一テサロニケ2章19節

「また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」第一テサロニケ3章13節

「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」第一テサロニケ4章17節

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」第一テサロニケ5章23節

キリストの再臨の希望、これがテサロニケ人への手紙の特徴であり、またテサロニケの教会はキリストの再臨の希望によって迫害と試練を力強く乗り切ったのです。

パウロが教会に向けて書いた手紙は新約聖書の中に9通あります。
この9通の手紙を3つのテーマでまとめることが出来ます。
ローマ、コリント第一・第二、ガラテヤの4通はキリストと十字架がテーマであり、信仰が強調されています。エペソ、ピリピ、コロサイはキリストと教会がテーマであり、キリストの教会に対する愛が強調されています。そして第一・第二テサロニケのテーマはキリストと再臨です。そして強調されているのは希望なのです。

パウロは言いました。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。」Tコリント13:13
キリストに対する信仰、希望、愛が私たちの中に確かに形作られているなら、私たちはどんな迫害や試練の中にあっても、キリストとその救いから引き離されることはありません。

キリストに対する信仰、希望、愛はキリストの十字架と復活、キリストの私たちへの愛、キリストが再び帰ってこられる再臨についての確信によって形作られるのです!

テサロニケのテーマは再臨です。私たちはキリストの再臨をみ言葉から良く理解し、失われることのない希望をキリストの再臨に対する確信によって持ちましょう。

【キリストの再臨】

キリストが再び来られることこそ、私たちクリスチャンの希望です。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」
第一テサロニケ4章16節から18節

他の聖書箇所でもイエスさまが再び天から帰ってこられることに関しては記述があります。このテサロニケの箇所ではその様子が更に詳しく書かれています。
「それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです(17節)」とあるところです。この「雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う」ことを空中携挙(ラプチュアー)と言います。これはイエスさまが再臨されるときに起きることを詳しく私たちに教えている箇所です。

再臨について今日、初めて聞かれた方は驚かれたと思います。
なぜキリストは一度地上に来られてから天に帰り、そしてまた来るのか?
それには明確な理由があります。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」ヨハネ14章1から3節

また空中に携挙される事に関してもビックリするような内容なので驚かれると思います。
しかし、このことに関してはイエスさま自信も語られているのです。

「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」マタイ24章30.31節

この二つの聖書箇所はテサロニケの再臨についての教えを違う角度から見ています。
再臨については全ての福音書に書かれ、今日の箇所のように具体的に言い表されています。
この聖書のことばは必ず実現、成就するのです!

ルカはこの箇所に「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」ルカ21章28節を加えています。
私たちには救いが完成される喜びの日であり、希望です。
しかしこれらのことばを信じなかった人々、神を拒み続けてきた人には悲しみの日です。
私たちにはこのような確かな希望が与えられているとともに、キリストの再臨と裁きについて人々に知らせる責任も与えられているのです。

テサロニケの教会は主が再び来られる再臨の信仰に堅く立ち、自分の賜物を通して神と隣人に仕え、その責任を果たしていました。再び来られる主に誉められること、主から評価されることを期待し、迫害のなかでもその信仰が衰えることが無かったのです。

しかし、一つの問題が発生しました。それはテサロニケの教会の中で病気によるのか、それとも老衰かは分かりませんが先に眠った兄弟、もしくは姉妹がいたのです。
テサロニケのクリスチャンは、主の再臨が非常に近いのだと理解していました。
これは再臨も含めて福音を伝えたパウロの影響だと言えるでしょう。
パウロも、そしてイエスさまも再臨に対してはいつそれが起きても良いように、目を覚ましていなさいと注意をしていました。

テサロニケのクリスチャンたちはキリストの再臨前に亡くなった信者は、キリストが再臨とともに携えてくる神の国に入る希望が断たれてしまったと勘違いしたのです。
死はもちろん悲しい事ですが、それにより神の国に入る希望さえも失ってしまったと更に悲しみを深くしていたようです。それに対してパウロが手紙の中で答えています。

「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。」第一テサロニケ4:13〜15

それに対してパウロはキリストの再臨前に亡くなったクリスチャンは希望が無いのではなく、再臨の際にはまず先に眠った兄弟姉妹が栄光の体をもって復活し、それから私たちも一緒に天に引き上げられるのだと教えているのです。

再臨は私たちに大きな希望ですが、この再臨の時に起こることの正しい理解は、主にある家族に先立たれた人には大きな慰めになったのです。

テサロニケのクリスチャンたちはパウロから指導を受ける期間が非常に短かったので、このような誤解が生じたのでしょうが、彼らが如何に真剣に再臨と向き合っていたかが分かります。テサロニケのクリスチャン、もちろん彼らに福音を伝えたパウロたちも、再臨は明日起きても不思議がないぐらいに思っていたようです。

再臨に対する真剣な取り組みが、テサロニケの教会に迫害や試練を乗り越える力と希望を与えました。キリストの再臨は私たちの信仰生活のゴールです。
信仰生活のゴール、自分たちの走る先が明確ならば、私たちの信仰はふらつくことがありません。何でもそうでしょうが、目標が定まらないとき、私たちの歩みはふらつくのです。

キリストは今日再臨されても不思議ではありません!
キリストが再臨されるとき、私たちの信仰生活は完成されるのです。
このゴールを目指しつつ、また大きな希望を持ちつつ歩んでいきましょう。