「あなたがたは主にあって一致してください」
ピリピ人への手紙
牧師 小林智彦

今週の聖書通読箇所はピリピ人への手紙です。

【ピリピ人への手紙が書かれた背景】

ピリピの教会はパウロが開拓した教会で、ヨーロッパで始めての教会になります。
ピリピ教会の始まりは使徒の働き16章11節から40節の間に詳しく書いてあります。

「そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、『私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。』と言って頼み、強いてそうさせた。」使徒の働き16章11から15節

ピリピの教会は「祈り場」に集まっていた女性たちから始まりました。
紫布の商人のルデヤが教会の中心となってピリピの教会が形作られたようです。
「祈り場」に集まっていたのも女性たちだったので、ピリピの教会は女性が多数を占める教会だったようです。だから教会を開拓したパウロに対しても女性ならではの心遣いで、パウロの働きをサポートし続けたようです。

「それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」ピリピ4章14から18節

このピリピ人への手紙はローマの獄に捕らえられているパウロの苦境を覚えて、ピリピの信者が送った贈り物(献金・衣類・日用品)に対するお礼の手紙として書かれたのでした。

パウロはこの贈り物が単なる個人的なプレゼントとしては受け取りませんでした。
福音に仕える者へのサポートは「それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」と書いています。つまり、それはただの贈り物ではなく神への捧げ物、神への礼拝になると教えているのです。

私たちも毎月、少額ではありますがウイクリフを通してインドネシアで宣教活動をしておられるロジャー夫妻に対してサポート出来ていることを神に感謝します。
これらの贈り物もロジャー夫妻だけでなく、主が喜んでおられるのです。

皆さんに覚えていただきたいのは、日曜日の朝に教会堂に集まるだけが礼拝ではないと言うことです。神に仕えること、それは全て礼拝なのです。
神の愛をもって家族に仕えることも礼拝です。神の愛をもって社会に仕える仕事も礼拝です。神はこれらの行為を礼拝として喜び、受け入れて下さるのです。
そして、神のみ言葉に仕えている人たちを覚えて祈り、その必要に仕えることも優れた礼拝なのです。それは神の国の前進に直接につながるからなのです。
私たちも更に御国の前進のために捧げることを通して主に仕え、主を礼拝しましょう。

【ピリピ教会にある問題】

ピリピ教会の贈り物は4章18節に名前が出て来るエパフロデトによってパウロのもとに届けられました。エパフロデトはしばらくローマのパウロのところに留まったようです。その間、彼は大病に罹るという苦難もありましたが、病も治り、このピリピ教会への礼状をもってピリピの教会に帰っていったようです。

エパフロデトはローマに滞在している間だ、パウロにピリピ教会の状態を報告しました。問題の無い教会は存在しません。問題の無い教会が良い教会なのではなく、問題を聖書的に解決する教会が本当に良い教会なのです。

エパフロデトがパウロに話したピリピ教会の第一の問題は、リーダ達の不一致でした。

「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。」ピリピ4章2.3節

ユウオデヤとスントケはピリピ教会の婦人で、教会のリーダー達でした。
彼女たちは熱心に福音を広める働きに就いていましたが、何かの理由で仲違いしていたようです。この問題を聞いて、パウロはとても心を痛めました。

パウロは一致することの大切さを良く理解していたからです。
そして不一致は愛の欠如を表しています!
愛が冷えると私たちメンバーの間には距離が生まれます。そこには誤解が生まれ、誤解が怒りや憎しみにつながり、最悪の場合には分裂さえ引き起こすのです。

パウロは教会はキリストの体であると認識していました。キリストが頭であり、私たちはキリストの体を構成する各器官なのです。もしそこに一致がないなら、まるでそれは右足と左足が別の方向に向かって進むように、体としては進まなくなるのです。

【一致の大切さ】

「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。」ピリピ1章27.28節

パウロはこのピリピ教会の不一致が気がかりでならなかったようです。
ピリピの手紙の中には一致の勧めが随所に見られるのです。

パウロは「キリストの福音にふさわしい生活」として「霊的な一致」と「神の国の拡大のために一致して働く」をこの箇所であげています。そして、このような状態に教会がある時、それは「救いのしるし」であると言っています。

「霊的一致」とは頭であるキリストとにしっかりと結び合わされていることです。
そして教会が置かれている地域に対する神のみこころを、教会員全体が一致協力して行う時に、「救いのしるし」リバイバルが起こるのです。リバイバルは教会の一致から生まれるのです! そして神の敵である悪魔、サタンにとっては滅びのしるしなのです。
教会に一致がある時、悪魔、サタンは滅びるだけです!彼らは勝つことが出来ないのです。

だから!覚えていただきたいことは、神の敵である悪魔・サタンは私たちから一致を奪い去ろうと必死になっているのです。一致ではなく、不一致と分裂を教会にもたらそうとしているのです。悪魔・サタンはバカではありません。ただ彼らはワン・パターンです。

【真の協力者:一致のために助ける人】

「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。」ピリピ4章2.3節

パウロは一致の勧めの中で「真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください」と言っています。リーダー達が一致を回復できるように助ける人たちが「真の協力者」なのです。

この「真の協力者」とは、キリストの御国を建て上げる「真の協力者」です。

悲しいことに、色々な教会で聞くことですが、分裂を盛り上げる「悪魔の協力者」の方に、私たちは簡単に陥り易いようです。

仮に、教会の中であるミニストリーを担当する方がいるとします。そしてミニストリーの進め方で他の信徒と意見が食い違ったとします。こういうことは当然起こりうることです。その時、「私はAさんの方が正しい!と思う」「いや俺はBさんの方が正しいと思う」と意見の対立を煽るようなら、それは「真の協力者」でしょうか?
確かに自分の意見を表明することは良いことであり、必要なことです。
しかし、「どちらが正しいか?」「どちらが優れているか?」のような議論にすり替わるなら、それはキリストの御体を建て上げるための集まりでは無くなっているでしょう。

真の協力者なら、互いの良い点を上げ、時間を取って納得出来るように話し合うことを進めるはずです。

ミーティングが終わった後で、意見の違う相手をこき下ろしにやって来る人は決して「真の協力者」ではありません。

教会が一致して前進できるように、パウロは私たちに語りかけているのです。
「(教会のリーダーたち)に勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。
ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。リーダーたちを助けてやってください。」

皆さん、不一致は神が悲しまれ、また不一致を神は憎まれます!
「どちらのリーダーに着くか?」のような分派が起こりそうになったら警戒して下さい。それは神さまの霊から来ている思いではないことに気付いて下さい。

また、この教えに「怒り」「苛立ち」を覚える方は、主の前に正しい心を持っているか吟味して下さい。納得の行かない方はゆっくりと話し合いましょう。

ミニストリーが健全に進むには、何よりも互いに集まることです。
時間を掛けて話し合い、祈り合い、食事をともにすることです。忙しいからと言って、交わりを疎かにしないようにしましょう。不一致は愛の冷めたところから始まるからです。

【キリストの模範に従う】

「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」
ピリピ4章2節

最後に「主にあって一致(する)」ことについて分かち合いたいと思います。

「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」
ピリピ2章1節から5節

ピリピのリーダ達が不一致になった原因は書いてありませんが、教会内に不一致を引き起こす原因は「自分の方が正しい」、「自分の方が優れている」と思い上がるところにあると思います。相手の良いところが見えなくなる時、私たちの交わりは切れかかるのです。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」
ピリピ2章3.4節

しかし、このことを私たちの努力や頑張りで守ろうとするなら、それは道徳になります。これは「頑張って一致する」ことになります。「主にあって一致する」には、この心の態度がイエスさまが持っておられたものであると覚えるところから始まるのです。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」ピリピ2章6節から8節

キリストの生き方、それは謙遜で謙られていました。
自分の栄光ではなく、神の栄光のために生き、自らは十字架を背負われたのです。
この方を私たちの主人、救い主と呼んでいるなら、私たちはキリストの模範に従おうとパウロは私たちに勧めているのです。

このキリストの生涯、キリストから目が離れてしまっているから、兄弟姉妹を引き下げ、自分の栄光のために生きてしまっているのではないか?とパウロは問うているのです。

私たちがキリストのようになりたい!キリストの模範に従いたい!この願いは神に喜ばれるものです。そして、これは頑張りや努力のレベルではないのです。キリストの模範に従う者は聖霊の助けを受けるからです。
私たちは聖霊の助けを受けて「主にある一致」を保ちましょう!