「十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」
ガラテヤ章
牧師 小林智彦

「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」ガラテヤ1章6.7節

パウロがガラテヤにある教会に向けて手紙を書いた理由がここに書かれています。
「かき乱す者たち」が、パウロがガラテヤ教会を離れていた間に入り込んで来たのです。彼らはパウロが宣べ伝えた教えとは異なる教えをガラテヤの信者に教え込みました。
その結果、ガラテヤの信徒たちはキリストの恵から離れていってしまったのです。

「かき乱す者たち」は、どのような教えによってキリストの福音を変えてしまおうとしたのでしょうか?

「よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」ガラテヤ5章2節から4節

「かき乱す者たち」はガラテヤの信徒たちに「イエスを信じるだけでは救われない。割礼を受けて律法を守らなければ救われない。」と教えたのです。
割礼を受けて律法を守るとは、ユダヤ教に改宗することを意味しています。
ガラテヤの教会にはユダヤ人でクリスチャンになった人も集まっていましたが、その他大勢はユダヤ人ではありませんでした。聖書では異邦人の信者と呼んでいます。

「かき乱す者たち」はこの異邦人クリスチャンに対して割礼を受けて律法を守ることを強要したのです。そうしなければ救われないと言う間違った教えを持ち込んだのでした。

この「かき乱す者たち」はユダヤ人以外は救われない、ユダヤ人だけが神に選ばれた民族だとする民族主義者たちでした。彼らは異邦人が救われることに強い抵抗がありました。
なぜなら彼らが誇りとしていた選民意識を傷つけられるからです。
この「かき乱す者たち」のことをユダヤ主義者と呼びます。

ユダヤ主義者は異邦人が割礼を受け律法を守り、ユダヤ人のように歩むなら、イエスを信じることで救われると教えたのでした。これはユダヤ主義者のプライドから出た教えです。
ユダヤ主義者たちは異邦人が異邦人のままで、イエスを信じるだけで救われるとしたパウロに対して強い敵意を持っていました。

ユダヤ主義者たちはガラテヤ教会だけでなく、コリント教会にも侵入して、パウロとパウロの教えが誤りであることを教えたのです。彼らは人間的には知恵があり、また説得することが得意だったようです。ガラテヤもコリントも信者たちは信じて間もない人たちだったので、彼らの教えに簡単に騙されてしまいました。
その結果、教会は本質を見失い混乱していったのです。

ユダヤ主義者たちは民族主義のプライドを守るためだけに活動していました。

「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。・・なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。」ガラテヤ6章12.13節

「肉において外見を良くしたい」、「あなたがたの肉を誇りたいためなのです」とパウロはユダヤ主義者たちの動機を見破っています。
彼らはガラテヤやコリント教会の信者たちが健全な信仰をもって愛の人に成長することなど、まったく考えていない人たちでした。ユダヤ民族としてのプライドを誇りたいだけなのです。

このユダヤ主義者たちが教会をかき乱したことによって、まず始めに教会の愛の一致が崩れてしまいました。このユダヤ主義者たちが来る前は、ユダヤ人も異邦人クリスチャンも一緒に礼拝し、一緒に交わりを楽しんでいたのです。しかし、ユダヤ民族を誇る彼らがやって来ると、この交わりが崩れてしまいました。

「なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」ガラテヤ2章12から14節

民族主義というプライドが教会の中に入り込むと、「福音の真理についてまっすぐに歩(む)」ことを阻むのです。「福音の真理についてまっすぐに歩(む)」とは何を意味しているのでしょうか?これは即ちキリストの愛を実践することです。

民族主義でも何でも、私たちの肉を誇るもの、プライドは神の愛を阻むのです!
学歴や家柄、ルックス、持っている車、お金、その他何でも人間の誇りは神の愛を邪魔します。それらのプライドが教会に入り込むと、教会の一致を壊してしまうのです。

ここで人間的な一致と御霊の一致について考えてみましょう。

教会の中で一致を保つことは大切なことです。初代教会の力強さは愛の一致にありました。
私たちはどうしたら教会を一致させることが出来るのでしょうか?

人間的な一致とはこのユダヤ主義者たちが取った方法です。人間的に力を持った人たちが弱者の意見を踏みにじり、強い人の意見を守らせる一致です。
これはあらゆる宗教、カルトも含めて、また一般の組織にも見られる一致でしょう。
このような一致を造り上げるために、厳しい上下関係や伝統を利用します。
また構成しているメンバーの自由を奪っていきます。そのようにして一部の人の意見や価値を浸透させるのです。


熱心な宗教団体を観察すると、ほとんどがこのような一致でまとめ上げられています。
信者が同じ服装、同じ話し方、同じ受け答えをするのです。
エホバの証人の信者やモルモン教徒、統一協会、また創価学会はこれに当てはまります。
彼らは独特な雰囲気を持っています。だからある意味、組織には力があります。

ユダヤ主義者たちが目指していたのはこのような組織、このような一致です。
皆がユダヤ人にならなければならない!皆が割礼を受け、ユダヤ人の習慣を守らなければならない。しかし、そこには違う考え方の人や民族を切り捨て、強制し、自由を奪わなければならない。それは力づくで行われるものでした。
本当の愛を壊す一致なのです。

それでは愛における一致はどのように実現されるのでしょうか?
またキリストの愛によって一致を保っている教会はどのような特徴があるのでしょうか?

キリストの愛の一致の特徴は、それぞれの人がありのままで認められることです。
その違いが尊重されることです。人種の違いも、学歴の違いも、結婚しているかしていないか、お金持ちかそうでないか、服装の違い、支持する政党の違い、あらゆる違いがそのまま認められ尊重されることが愛の一致の特徴です。

このような教会は一見すると皆がバラバラです。
しかし、オーケストラが様々な楽器によって構成されているように、それぞれの楽器がそれぞれの音を出しながら一致があるのです。キリストの指揮によってのみ一致するのです。
このようなハーモニーこそ私たちの教会が目指す愛の一致です。

人間的な一致は皆が同じ音色、同じ楽器になるのと同じです。そこには愛と自由はありません。しかしハーモニーの中には自由と愛が存在するのです。

それでは、私たちのエクレシアがキリストの指揮のもとで愛の一致を築き上げるにはどうすべきでしょうか?

「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
ガラテヤ2章19から21節

パウロもイエス・キリストによって表された神の愛を知るまでは熱心に律法を守り、ユダヤ民族を誇る民族主義者でした。パウロは始めイエスを信じる者を熱心に迫害する者でした。そんな彼が変えられたのはイエス・キリストの十字架を通して表された神の愛と赦しを体験したからです。

私たちは子どもの頃には子どもの頃の誇りがあります。男の子だったら車のオモチャを誇り、女の子だったら着せ替え人形を誇るかもしれません。しかし、大人になれば車のオモチャや着せ替え人形を誇ることはなくなります。なぜなら更に優れたもの、本物の車に乗ることが出来、女性なら本物のファッションを楽しむことが出来るからです。

パウロも人ではなく神から愛され、認められ、その存在全てが受け入れられていることを知った時、それよりも劣るものは消えていったのです。

パウロは神の御子が自分の為に命を投げ出すほど、自分は愛されていること、価値があることを知った時、自分で頑張って握りしめていた誇りを捨てることができたのです。

私たちはなぜ学歴を誇ったり、ルックスを誇ったり、財産を誇ったりするのでしょうか?
本当はそれが無ければ自分には価値がないと思っているからです。

「能ある鷹は爪を隠す」と言う諺もあるように、本当に才能がある人は自分の能力をひけらかすことはしません。人を押しのけてまで何かを誇りたい人は、それがなければ自分には存在する価値がないと思いこんでいるのです。

パウロもそうでした。彼は自分の頑張りや努力によって自分の存在の価値を自分で造り上げていったのです。律法を守ることによって、優れた学問を修めることによって、自分の家柄を誇ることによって、人々の上に立つことによって。

しかし、イエス・キリストを与えるほどに自分を愛して下さる天の父の愛を知った時、パウロは今まで自分を支えていた誇りを手放すことが出来たのです。

神の愛を知るなら、私たちは自分を自慢する生き方から解放されるのです。
自分で自分の存在価値をアピールするような疲れる生き方を止められます。

神はあなたを愛しておられます!これが福音です。
神はあなたを愛しておられ、あなたのためには命をも差し出して下さるのです。
キリストが十字架に掛けられたのはあなたのためです。
キリストの十字架は神のあなたへの愛の完全な現れです。

この愛を受け入れた時、パウロは自分の誇りを手放せたのです。律法主義、すなわち自分で自分の価値を造り出す生き方を止められたのです。パウロは神の愛に押し出されて歩む人生に変えられました。これが復活の力に生かされることです。

パウロは律法と誇りと言う手段で愛を追いかけて生きていました。しかし、その時は疲れるだけでいつも渇いていたのです。しかし、イエスを受け入れた時、愛を追いかけるのではなく愛に押し出されて生きる人生に変えられたのです。

私たちがこのキリストの愛によって生かされる時、キリストの愛によって教会に一致が生まれるのです。ただキリストの愛によって導かれ、キリストの愛を表現するのです。
キリストの愛を知ること!これが答えです。