「神のみこころに添った悲しみ」
第2コリント
牧師 小林智彦

「あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、
今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」第二コリント7章8節から10節

パウロは先にコリント人への第一の手紙と呼ばれる手紙をコリント教会に向けて書きました。第一の手紙については先週、皆さんと分かちあいました。
パウロがこの手紙を書いたのは、コリント教会にさまざまな問題が起きていたからです。「私はパウロにつく。」「私はアポロに」「私はケパに」と教会の中に分派が起き、教会が分裂寸前の状態でした。その他にもコリント教会には不品行の大きな問題がありました。
コリントには女神アフロディーテを祭る神殿があり、神殿売春が行われていました。
コリントの町自体が偶像礼拝と性的な罪に満ちていました。そしてコリントのクリスチャンもこれらの罪に対しては妥協する問題があったのです。
問題はこれだけではありませんでした。コリントのクリスチャンは自分に与えられている自由を自分の欲望のために用い、神の御心を行い隣人に仕える為には用いませんでした。
聖霊さまから与えられた賜物についても同じでした。自分が霊的であることをアピールするために賜物が用いられ、そのため礼拝の秩序までもが失われました。
またもっと深刻なのはキリストの復活を否定する異端までも入り込んで来たことです。

コリント教会はこのように大変な問題を抱えている教会でした。
しかし、コリント教会だけが特別問題のある教会であったとは言えないでしょう。
生まれながらの罪人が赦されて集うのが教会です。当然問題は起きるのです。
問題が無い教会が良い教会ではありません。
問題を聖書と聖霊さまの導きによって解決する教会こそが本当の良い教会です。
なぜなら問題の無い教会は存在しないからです!それは問題を隠しているだけであって、問題が表面化している教会よりも更に大きな問題を抱えています。
問題が表に出るならば、そこには解決があるのです。
しかし問題が隠されているのなら、いつまで経っても解決されることはありません。
私たちの教会にも当然問題が起こるでしょう。しかしぜひ隠さずに、愛と赦しをもって問題に取り組んでいきましょう。ここはキリストの体ですから解決しない問題はありません。

さて、しかしコリント教会の問題はなかなか解決しなかったようです。
第一の手紙で問題が解決したのなら、第二の手紙を書く必要は無かったでしょう。
そして第二の手紙を書く間にも、今は失われてしまった「涙の手紙」と呼ばれる手紙をパウロはコリント教会に向けて書いたと言われています。

「私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。」第二コリント2章4節

第一の手紙はテモテがコリント教会へ携えました。そしてテモテがコリントでの礼拝中に読み上げたのでしょう。そして問題解決のために取り組みました。しかし、残念ながらテモテ一人の努力ではコリント教会の体質が変わることは無かったようです。
失意の内にテモテはパウロが活動していたエペソに戻り、パウロに状況を報告しました。
ここら辺の具体的なことに関しては「使徒の働き」には書かれてないので推測になります。
テモテの報告を聞いて、コリント教会の状態が思っていた以上であることに憂慮したパウロはコリント教会を直接訪ねることを決意し、実行に移したようです。パウロの2回目のコリント訪問も「使徒の働き」には書かれていません。しかし第二コリント2章1節にはその記述があります。この訪問は短期間であったようです。

「そこで私は、あなたがたを悲しませることになるような訪問は二度とくり返すまいと決心したのです。もし私があなたがたを悲しませているのなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょうか。」第二コリント2章1.2節

この2度目のコリント訪問はコリントのクリスチャンたちに大きな悲しみをもたらしたようです。何をパウロが語り、何をしたのかの詳細な記述はありません。しかし推測すると第一の手紙で問題行動を起こし、さらにテモテとパウロの直接的な指導に対しても悔い改めなかった者たちに厳しい処罰を与えたようです。

「その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから」
第二コリント2章6節

パウロの第2回目のコリント訪問は何らかの理由で短期間で終わらなければならなかったようです。エペソの教会でも何らかの問題が起きたからかもしれません。処罰することを決定しただけでコリントから離れなければならなかったようです。そして具体的な処罰に関しては「涙の手紙」に書き記され、テモテよりも年長の弟子であるテトスがコリント教会に届けました。そしてテトスがその手紙に従ってコリント教会の問題を厳しく解決していったようです。

第2回目のコリント訪問、そして「涙の手紙」、それらはコリントの信徒たちに深い悲しみをもたらしたことをパウロは知っていました。パウロは愛の人です。人を悲しめせるような手紙など本当は書きたくありませんでした。しかし、パウロは本当の愛の人です。
彼は問題を見過ごすことが解決になるとは決して思わなかったのです。
コリントの信者を、教会を愛するが故に、罪に対して厳しく臨む「涙の手紙」を書き送りました。そして、その結果コリントの信徒たちがどのようにパウロの手紙とテトスに接してくれたのかを知りたかったのです。

彼らが罪を悔い改めない信徒たちを処罰することを拒み、パウロの手紙に逆らい、テトスを教会から追い出して、別のリーダーを立てて逆らうことも考えられることでした。
パウロとしては「涙の手紙」を書いた結果、コリント教会がどうなったのか心配でたまらなかったのです。

「私が、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いてくださいましたが、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがなく、そこの人々に別れを告げて、マケドニヤへ向かいました。」第二コリント2章12.13節

「涙の手紙」を携えてコリントに行ったテトスとはトロアスで落ち合うことになっていたようです。ところが予定していた日を過ぎてもテトスがトロアスに来ない。
テトスの働きは失敗に終わったのではないか?パウロの心はとても不安でした。

そこでパウロはトロアスからコリントにより近いマケドニアにまで出向きました。そこでテトスに出会えたのです。そしてテトスからコリント教会の報告を聞きます。

「マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」第二コリント7章5節から10節

「涙の手紙」を書いたパウロ自身、心の中には悲しみでいっぱいだったことでしょう。
またその手紙を携えたテトス、その手紙を読んだコリントの信徒たちも悲しみに満たされました。しかし信仰によって受け止めたコリントの教会には真実な悔い改めが起き、更に神と人への真実な愛へと進むことが出来たのです。

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」

神のことばに従う時、私たちにはいつも喜びだけでありません。
クリスチャン・ライフは楽しさや喜びだけを約束しません。悲しみもあるのです。
しかし、神に従う時にもたらされる悲しみは、私たちに命と成長をもたらします。
神にあっては悲しみは必ず喜びへと変えられるのです。

【神のみこころに添った悲しみ、世の悲しみ】

しかし悲しみが全て喜びに変わるのではありません。神のみこころにそった悲しが命と成長、そして喜びをもたらすのです。パウロは世の悲しみは死をもたらすと言っています。
「神のみこころにそう悲しみ」とはどのような悲しみなのでしょうか?

コリントの信徒たちが向き合わなければならなかった問題から、「神のみこころにそう悲しみ」とは何かを考えてみましょう。

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。」第二コリント3章6節から8節

パウロはコリントの信徒たちに自分たちは「新しい契約に仕える者」、「御霊に仕える者」、人を生かし、義とする努めが与えられている者だと言っています。
そしてこれはある人たちと対比して書かれています。その人たちとは「古い契約に仕える者」であり、「文字に仕える者」、その者たちは死の努め、人を罪に定める努めに就く者たちです。この人たちこそコリントの信徒たちの信仰をかき乱す外部から進入してきた人たちでした。

ガラテヤ教会にも侵入し、福音を信じるだけでは救われない、異邦人でも割礼を受けてユダヤ人になり、律法を守らなければ救われないと異端の教えを宣べ伝える人たちでした。コリントの信徒たちはこの異端のユダヤ主義者と呼ばれるグループによってかき乱されてしまったのです。そしてその結果、パウロの神から与えられた使徒としての権威を疑うようにまでなったのです。

なぜユダヤ主義者たちはコリント教会に侵入し、人々の信頼を得たのでしょうか?
それは彼らがこの世の価値観を巧みに用いて、自分を優れた者とアピールしたからです。

彼らは自分たちを使徒と呼ばせ、パウロよりも優れた使徒であることをアピールしたようです。コリントの信徒たちはこの偽使徒たちの自慢話を簡単に信じて受け入れたようです。

パウロはこの第二コリント3章で自分と異端のユダヤ主義者の違いをモーセの顔に掛けられていた布を通して喩えています。
モーセは神との交わりによって顔から神の栄光を発するようになり、人々が恐れたので顔に覆いを掛けていたのです。しかし異端のユダヤ主義者たちは自分の「やがて消え去る栄光」が明らかにされないように覆いを掛けていると喩えているのです。

コリントの信徒たちがなぜ異端のユダヤ主義者たちを受け入れてしまったのか?
それはコリントの信徒たちの心にも真理が見えないように覆いが掛けられているからなのです。その覆いとは、この世を愛する欲望であり、この世の価値観なのです。

私たちの内に神が喜ばれないものを愛する思いがあるなら、簡単に心に覆いが掛けられます。神さまよりも大切にするものがあるのなら、簡単に心に覆いが掛かります。

パウロはコリントに入り込んだユダヤ主義者たちをこのように言っています。

「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。
ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」第二コリント11章13〜15節

このような悪意ある人たちの嘘、偽りを見抜けなかったのは、コリントの信徒たちの心に覆いが掛けられていたからです。それは彼らがまだ神の憎まれるものを愛し、この世の価値観、優先順位に生きていたからなのです。

コリントの人たちが体験しなければならなかった「神のみこころにそう悲しみ」の一つ目は、神が喜ばれない生き方、また神の喜ばれない物を捨てることでした。

偶像や魔術に関わる物、正しくない異性との関係、神よりもお金や物質に信頼する生き方、それらをキリストの前に精算しなければならなかったのです。

神が喜ばれない生き方、考え方、物をなお私たちが持ち続けるなら、神さまのある部分が見えなくなります。それが私たちの霊のある部分を覆い隠すからです。真理が見えなくなるのです。そうすると、悪意ある人たちの嘘が見分けられなくなり、その嘘に騙されてしまうのです。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
第二コリント3章16から18節

私たちがキリストのみこころを行いたいと願うなら、私たちの内に住んでおられる聖霊さまが覆いがあるのなら、それを必ず示して下さいます。それを聖霊さまの助けを受けながら精算するのです。捨てるべき物は捨て、返すべき物は返し、謝るべき人には謝り、間違った考え方に気付いたら信仰に進むのです。
そのとき!私たちの霊はキリストの命を受けて輝くのです!
これが悔い改めです。悔い改める者の信仰には変化と成長、そして命の輝きがあります。

キリストのみ言葉に従って真理の内を歩むなら、偽りの働き人の嘘を見抜くのは決して難しいことではありません。