「キリストにある成人を目指して」
牧師 小林智彦

「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」第一コリント3章1節から3節

パウロはコリント教会のクリスチャンたちを「キリストにある幼子」と表現しています。
霊的な幼子と呼んで良いでしょう。霊的な幼子の特徴は「堅い食物」が食べられないこと、また「肉に属している」ことです。

「キリストにある幼子」がいるなら、「キリストにある成人(大人)」がいるはずです。そうです、パウロは「キリストにある成人」について第一コリント2章6節で語ってます。

「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。」第一コリント2章6節

キリストにある幼子と成人を分けるものは知恵です。幼子は知恵が僅かしかないのです。
そして私たちをキリストにある成人へと成長させる知恵は、この世の知恵ではないのです。

この世の知恵と神の知恵があります。
この世の知恵は努力や頑張りで得られる知恵です。これはDoingの世界です。
「努力・行い」の世界に属する知恵です。
しかし、神の知恵は努力や頑張りでは得られません。キリストを信じる信仰によって得られる知恵です。それは神と出会いによって得られる知恵です。
神の知恵はBeingの世界です。それは揺るがない存在、命そのものの知恵なのです。

私たちにはDoing(行い・物)とBeing(存在・命)に生きています。
キリストを知る前、つまりこの世と呼ばれる一般社会はDoing(行い)を評価します。
Being(存在・命)の部分はほとんど評価されません。人が良いだけでは出世出来ません。
「売り上げが上がった!良い製品を作り出した!」このような頑張りや努力で伸びる部分が評価される、比較を通して優れたものが評価される、これが一般社会です。
即ちDoingの世界の知恵は競争や比較によって得られる知恵なのです。
日本は競争と比較を繰り返すことによって、優れた工業製品を作り出してきたのです。
資源も土地も少ない日本が世界の中でも富む国の一つに成れたのは、このDoingの知恵に満ちていたからなのです。


しかし、Being(存在・命)の世界にはDoing(行い・物)の競争と比較による知恵では、何の益にもならないのです。

先々週、私は頑張りや努力では私たちは良い人には成長しないと言うことを話しました。
心は物質ではないからです。そして頑張って良い人になろうとすればするほど、二重人格になることを話しました。日本で「良い人」と言うのは回りに気に入られる人のことです。
頑張って回りの人に気に入られようとして、本当の自分とは違う人格を演じているのです。
そうなると本当の自分Being(存在・命)は押し殺され、抑圧されます。
人といると疲れる、肩がこる、頭が痛くなる。それは本当の自分Being(存在・命)が悲鳴を上げている証拠なのです。それが更に進むと、命のない抜け殻だけの存在になります。

だから、絶対に皆さんは頑張ってクリスチャン生活を送らないで下さい!
人に受け入れられるように自分を押し殺すクリスチャンライフを送らないで下さい。

神との出会いによって、私たちの存在Being(存在・命)がありのまま受け入れられた私たちが、Doing(行い・物)の世界の知恵である競争や比較で成長してはならないのです。

先々週も話したように、私たちが本当の意味で良い人(真理に従う)になるには、必要なのは出会いです!優れた人格との出会い、それが私たちの心を成長させるのです。

レ・ミゼラブルのジャンバルジャンが変えられたのは、司祭の愛と赦しの心に出会ったからです。この祭司はキリストを象徴していると私は確信しています。
私たちの存在Being(存在・命)は比較や競争によって命を受けるのではなく、ありのまま受け入れてもらう時、命を受けるのです。罪を赦してもらう時、命を受けるのです。

私たちのBeing(存在・命)は、ありのまま受け入れられ赦される時に命と力を受けます。
ありのまま受け入れられること、赦されること、これが愛なのです!

神の愛、私たちのBeing(存在・命)に命を注ぐその知恵は、イエス・キリストの十字架の上で完全にあらわされました!

イエス・キリストは神に敵対し、罪のなかを歩んでいた私たちを赦し、受け入れるために十字架を背負われたのです。イエスの十字架、それは私たちとイエスを結ぶ愛の絆です。

神の知恵とはキリストにある完全な愛と赦しに基づく知恵なのです。
神の知恵は私たちのBeing(存在・命)を励まし、慰め、命と力を与えるのです。

コリントのクリスチャンたちは人間的には大人でした。年寄りも若い人もいたでしょう。
しかし彼らは皆霊的な幼子、つまり神の知恵が分からず、人間的な知恵で生きていました。パウロがコリントの教会を創立したのですが、パウロが伝道旅行に出掛けている間、教会の運営を任されていたコリントのクリスチャンたちは神の知恵ではなく、人間の知恵で教会を運営しました。その結果、教会の中に大きな混乱が生じたのです。

コリントのクリスチャンはDoing(行い・物)の世界は良く知っていました。
Doing(行い・物)の知恵は豊かだったのでしょう。その知恵を用いて教会を運営したのです。その結果どうなったでしょうか?

「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。ある人が、『私はパウロにつく。』と言えば、別の人は、『私はアポロに。』と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。」第一コリント3章3.4節

コリントのクリスチャンたちはこの世の知恵で教会を運営しようと考えました。
彼らは教会の中に比較と競争というこの世の知恵、Doing(行い・物)の知恵を持ち込んだのです。コリント教会の基礎を築いたパウロや、伝道者のアポロ、また使徒ペテロたちを比較して、教会の中に分派を作り、お互いに優劣を議論し競い合ったのです。
勝手にパウロを頭とする分派はコリント教会を始めたのはパウロだから、自分たちのグループこそがコリント教会における正統なグループだと主張し始めると、他の人たちは伝道者アポロを頭とするグループを勝手に形成し、パウロよりもアポロ先生の方が説教が上手だからアポロ先生を頭とする私たちのグループこそがコリント教会を導くべきだと主張し始めたのです。そのような勝手なグループが四つもあったと書いてあります。

もちろんこれらのグループはパウロやアポロの指導によって作られた物ではありません。
コリントの人たちが教会の中で主導権を握りたいために、勢力争いのために勝手に作ったのです。このようにして教会の中が権力争いの場に変わってしまったのです。

だからパウロはコリントの人々を霊的な幼子と呼んでいるのです。
神の知恵ではなく、まったくこの世の中と変わらない方法で教会を導こうとして、ねたみと争い満ちた場所に変えてしまったと非難しているのです。

【私たちは神の知恵に生きているか?】

コリント教会の問題が聖書に書かれているのは、私たちへの注意のためです。
2千年経っても、私たち人間は霊的にはあまり進歩していません。
コリント教会で起きた問題は、私たちの教会でも起きうることなのです。

私たちの教会には競争や比較と言ったこの世の知恵によって悪影響を受けている部分はないでしょうか?また皆さんの信仰生活も、人間的な比較や競争の原理によって動かされてはいないでしょうか?

牧師を他の教会の牧師と比較して批判したり、裁いたりしていませんか?
礼拝や、教会の活動を他の教会と比べ、指導している人々を批判してはいませんか?
また自分を他のクリスチャンと比較して高慢になったり、落ち込んだりしていませんか?これらが霊的な幼子、肉に属するクリスチャンの特徴です。

自分の中に何か当てはまると気が付いたら、正直に神の前に認めることが大切です。
良い悪いの問題ではありません。また責めることでは治りません。
解決はキリストにあって成長することです。神の知恵を得ることが解決なのです。

まず自分の中に、他のクリスチャンを比較し批判していることを見つけたら、神の前で認めましょう。そして、それが決して教会の為にならないことを認めましょう。
また自分を他のクリスチャンと比較して高慢になったり、落ち込んでいるなら、その比較や競争は自分の為にならないことを神の前で認めましょう。

そして神の知恵に生かされることを祈り求めましょう。

神の知恵とはキリストにある完全な愛と赦しに基づく知恵なのです。
神の知恵は私たちのBeing(存在・命)を励まし、慰め、命と力を与えるのです。

皆さん!神の知恵は愛と赦しの中にこそあるのです。

他のクリスチャンと自分を比較し、競争してしまうなら、他人を見るのを止めてイエスさまを見上げましょう!自分を愛し、赦し、そのまま受け入れて下さる神の愛を見上げるのです。毎日毎日、神の心に触れて下さい。私たちの人格は出会いと交わりによって成長するのです。神の愛と赦しを覚えること、受け入れること、その中に留まることです。

神が私たちをありのままで受け入れて下さっているなら、人と比較する必要はありません!神の無条件の愛を受け入れる時、私たちは他人と自分を比較することから解放されるのです。

比較・競争はBeing(存在・命)を成長させません。
Doing(行い・物)の世界では比較・競争は優れた結果を生み出すでしょう。
しかし神の家である教会の中に比較・競争を持ち込むなら、命が奪われてしまうのです。

私たちは神の知恵に生きましょう。私たちをありのまま受け入れ、愛して下さる神さまと毎日出会いましょう。そうするなら私たちも神の家族をありのまま受け入れることが出来ます。神の心に触れて、私たちのBeing(存在・命)が成長するなら、神の知恵に生きることが出来るのです。神の家族を比較せず、ありのまま受け入れ、相手の存在を感謝し、喜ぶことが出来るように変えられていくのです。

また教会だけではなく、皆さんの家庭も同じです。家庭の中にも競争と比較が入り込むなら、やがてその家庭は崩壊します。お兄さんと弟の学力を比べたり、よその子どもと比較することを始めると、子どもの心は直ぐに元気を失います。そこは心が栄養をもらえる場所ではなく、塾や学校と変わらなくなるからです。

私たちの家庭にも神の知恵が必要です。神の愛と赦しが必要なのです。

私たちは霊的に成長しましょう!
それは自分の存在を神に感謝し、ありのままを受け入れて下さる神と日々出会うことです。
そして神の愛と赦しに育まれて、神の家族を同じように赦し、愛し、受け入れることです。
その存在を感謝し、喜びましょう。その時、神の命が私たちの中に豊かに流れるのです。

【自分との競争・比較】

それでは競争と比較はまったくすべきではないのでしょうか?
確かに自分を他人と比較し、競争することは心の成長には益になりません。
また、教会の中でも、家庭の中でも、それはマイナスの影響をもたらします。

しかし、自分を過去の自分と比較すること、自分の古い性質に負けないように、自分の古い性質と御霊によって養われている新しい性質を比較し、競争させることは良いことです。

9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

パウロは自分の霊的な成長のために、また罪深い性質に負けないように、古い性質と闘ったのです。古い性質に負けることがないように、自分の中で比較し競争しました。

私たちはキリストにあって成長することを自分で認めて喜びましょう。
昨日よりも今日、キリストにあって更に優れた愛の人に成長していることを喜びましょう。
日々、神の愛に触れるなら、私たちは昨日よりも、今日、今日よりも明日、必ず成長するのです。成長が留まる時は、自分の古い性質を打ちたたき、頑張りではなく神の愛とことばに自らを向かわせましょう!