「義人は信仰によって生きる」
牧師 小林智彦

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」ローマ1章16.17節

福音、それはイエス・キリストが与える救いのことです。
イエス・キリストの救いは信じる全ての人に、確かな救いを与えます。
ここが!キリストの救い、即ち福音と他の宗教とを明確に分けます。

すべての宗教は救いがゴールであり、目標です。しかし福音は救いが始まりなのです。
全ての宗教は自分が救われるために修行に励み、善行を行います。

しかし福音では、誰でもイエスを救い主として信じ、受け入れた時に救われるのです!
救いが始まりなのです。

宗教は救いが目標ですから、救われることが完成なのでしょう。
しかし福音は救いがスタートであり、そこから神さまとの関係が始まるのです。

神さまとの親しい関係、私たちはイエス・キリストにあって神の子とされ、神は私たちの父になられたのです。そして神の子とされることが「義」と認められることです。
唯一真の神との正しい関係が「義」であり、その正しい関係にある人が義人なのです。

私たちが天のお父さんとの関係を始める原点は、イエスを救い主、神として信じ、心に受け入れた時から始まります。イエスを救い主として信じた者が「義」と認められ、神さまとの親子関係に入るのです。

今日、分かちあいたいことは「信仰」です!
私たちが「義」と認められ、天のお父さんと深い交わりが始まった出発点は信仰です。
「その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」とあるように、神さまとの更に深い関係に入って行くのに必要なのもまた信仰なのです!

「義人は信仰によって生き(ます)」

正しい信仰は、私たちを生かすのです!なぜなら信仰は生ける真の神との関係を更に深めるからです。信仰こそ、私たちを神に近づけます!

私たちが神に近づくなら、私たちの内には神の命と愛が溢れ流れてきます。
なぜなら神はいのちであり、愛そのものだからです!

皆さんに尋ねます!あなたは信仰によって生きていますか?
あなたの信仰は、神の命にあなたを近づけていますか?
そのしるしとして、あなたの中に命と愛が流れてきていますか?

今日は皆さんと神の命に近づく信仰、「義人は信仰によって生きる」その信仰とは何かについてローマ書から学びましょう。

【ギリシャ人の信仰】

私たちを神に近づけ、更に神との深い関係に私たちを招き入れる信仰は、命ある信仰と言えるでしょう。しかし、同じ信仰と言われるものでも命のない信仰もあるのです。

ローマ人の手紙1章18節から3章20節まで、私たちを真の神に導くことが出来ない信仰、命のない信仰について書いてあります。その命のない信仰の代表がギリシャ人の信仰と律法しか知らないユダヤ人の信仰です。

ギリシャ人の信仰は創造の神を退け、被造物を代わりに神とする信仰です。

「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。」ローマ1章25節

つまり、目に見える物しか信じない信仰です。また彼らの信仰の対象は、彼らの欲望です。ギリシャ人は自分の欲望を目に見える偶像に置き換えて、それを拝んだのです。
これは信仰ではあっても、唯一の真の神とは何の関係もない信仰です。

目に見える物しか信じられない心、自分の欲望にのみ跪いて仕える心は、私たちの心に命ではなく死と滅びをもたらします。

ギリシャの偶像宗教はシルクロードを通って、日本の仏教に大きな影響を与えています。仏像はギリシャ彫刻から生まれたのです。仏像の巻き髪はギリシャ人の髪型をそのまま写していますし、パルテノン神殿の柱のエンタシスも、法隆寺やその他の仏教寺院に影響を与えていると言われています。

つまり、ギリシャ人の目に見える物しか信じない信仰心。
自分の欲望を神として拝む宗教心は、日本人の宗教心にも大きな影響を与えているのです。

私たちが聖書を通して信仰とは何かを学び直す必要があるのはこのためです!
私たちはただ神を信じる信仰によって、生ける真の神との関係を始めながらも、命に導く信仰ではなく、死と滅びに導くギリシャ・仏教的な信仰によって神さまとの関係を継続しようとしてしまう。そうなると、始めの救われた喜びがだんだんと消え去り、神さまとの関係が苦痛になり、喜びが失ってくるのです。

「義人は信仰によって生きる」のです。私たちは意識的に命をもたらす信仰に立たなければ、簡単に古い信仰、死と滅びをもたらす信仰に押し流されてしまいます。

目に見える物だけを信じる信仰は真の信仰でありません!自分の欲望を神とし、自分の欲望を実現するために、信仰心を利用するのは滅びをもたらす信仰なのです。

【律法しか知らないユダヤ人の信仰】

次にパウロが命のない信仰として取り上げているのが律法しか知らないユダヤ教です。
ユダヤ人には神から与えられた律法があります。だからユダヤ人はギリシャ人を裁くことすら出来るのです。しかし、ここに落とし穴があります。
ユダヤ人は律法を知り、真理を知りながら、自分にはそれを守り行う力がないのです。
ユダヤ人の宗教は真理を知り、それを自力で守ることでした。限界があるのです。

「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」ローマ3章20節

パウロは真剣に律法に取り組みました。その結果、真理を知っていても、それを行えない自分の罪深さに目が開かれたのです。
しかし、多くのユダヤ人は罪の意識を偽善や宗教的なプライドで覆い隠しました。
自分の弱さ、罪深さが示されても、神の助けを求めないで覆い隠したのです。

私たちも決してユダヤ人を裁くことは出来ません。
ユダヤ人が犯した過ちを、クリスチャンも犯しやすいのです。
とくに私たち日本人の男性はこの過ちを犯しやすいと思います。

神さまとの関係を深めたい!その動機は正しいのですが、ただ聖書の知識や神学を学ぶことによっては、いのち溢れる信仰には結びつかない時があるのです。
真理を知っていることと、それを守り、行う力があることとは別なのです。

しかし、多くの男性が真理を知っていることと、それを守り行うことを同であると勘違いしています。当然、先ほどのパウロと同じように、真理を知るだけでは罪の意識が生じるわけですが、自分を弁護するために議論という手段を取る男性が少なくありません。

だから私たち男性は分かち合いの時に、議論にならないように気を付けるべきです。
何が真理なのか?誰がより深く聖書を理解しているか?
それと、いのち溢れる信仰に生きているとは別だと言うことに気付かなくてはなりません。
聖書に関する議論だけに関心が捕らわれていると、それは命のない、実を結ばない信仰へと私たちを導いてしまいます。

【命ある信仰の模範、アブラハム】

それでは私たちを信仰から信仰に進ませ、神の命に満ちあふれる、生きた信仰とは一体どのような信仰なのでしょうか?

それがローマ人の4章に取り上げられているアブラハムの信仰なのです!

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」ローマ4章19から22節

アブラハムこそ、神さまから最初にその信仰が義と見なされた人です。
彼こそ信仰者の模範であり、彼の信仰こそ、信仰から信仰に進ませる命ある信仰です。

アブラハムの信仰をまとめてみましょう。

@まず彼は目に見えるもの、目に見える状況を信じませんでした。
 彼が信じたのは「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方(ローマ4章17節)」を神として信じたのです。

アブラハムは目に見える状況、目に見える物ではなく、無から有を創造される方を信じたのです。だからアブラハムはどんな時でも、目に見える否定的な状況には左右されませんでした。神にはどんな否定的な状況も変える力があることを信じていたからです。

Aアブラハムは無から有を造り出す神の約束を堅く信じた。

「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」ローマ4章21節

彼は神の約束を疑いませんでした。
彼は神の約束を疑うどころか、ますます信仰が強くなって、神の約束に基づいて行動しました。だからイサクが誕生したのです。これがアブラハムの信仰です。

このアブラハムの信仰から学べる信仰とは一体なんでしょうか?
「義人は信仰によって生きる」とある義人の代表がアブラハムです。彼の信仰をどのように自分の信仰に適用することが出来るでしょうか?

@私たちも目に見える状況を信じるのではなく、無から有を造り出す神を信じるべきです。
目に見える現実を無視するのではありません。しかし、目に見える現実だけに振り回されるなら、私たちは命のある信仰を持っているとは言えません。

目に見える現実が否定的であっても、神はそれを変えることが出来る!と信じることです。
目に見える現実が否定的であっても、私たちはいつも神に感謝し、信頼し、神を賛美するべきなのです。

目に見える現実が否定的であっても、無から有を造り出す生ける真の神への信頼が揺るがないのなら、私たちの心には平安が訪れます!喜びが溢れてきます。

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」
ローマ5章1.2節

無から有を創造する神、目に見える現実は永遠ではなく、目に見えない神こそ永遠であり、唯一信頼できるお方であると信じるなら、私たちの心にはいつも平安と喜びが溢れます。

Aアブラハムが神の約束を信じたように、私たちも神が約束して下さっている約束を覚え、約束の実現を待ち望みます。

神の私たちに対する約束を知ることが、私たちの信仰を命と希望で満たしてくれます。

私も目に見える現実が否定的な時は、確かにへこみます。打ちのめされる時があります。しかし、神の約束を思い出す時に、立ち上がる力を得るのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8章28節

このみ言葉はいつも私を励まし、立ち上がる力を与えてくれる神の言葉です。
目に見える状況、自分の体験した出来事、しかし、神はどんな否定的な出来事も益と変えることが出来ると言うのです。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」第一コリント10章13節

この神の言葉も絶えず私を励まし、希望を与えてきました。
そして、いつも、このみ言葉の約束の通りに試練を乗り切ることが出来ました。
神は真実であられるので、聖書の約束をことごとく守ってくださるのです。

新約・旧約聖書の約は約束の約です。聖書には神の約束で満ちあふれています。
私たちが聖書を神の約束の書として受け入れ、その約束を疑わないで信じる時、私たちはアブラハムの信仰を受け継いでいます。神さまとの関係が、約束が実現するたびに深まり、神に近づくのです。神に近づけば近づくほど、私たちの中には神の命と愛が流れてきます。

「義人は信仰によって生きる」、私たちはこのアブラハムの信仰から学び、神の命の中に信仰から信仰へと進んでいきましょう。