「わたしもあなたを罪に定めない」
ヨハネによる福音書8章1節から11節
牧師 小林智彦

【パリサイ人・律法学者の信仰】

「すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。」(ヨハネ8章3節から6節前半)

パリサイ人・律法学者は新約聖書の中に度々、登場してきます。
今回の場面では特に彼らの残忍さ、冷酷さ、意地悪さが表れています。

まず「姦淫の場で捕えられたひとりの女」とありますが、その相手の男性はどうしたのか?
という疑問が生まれます。また「真中に置いてから」とあるように、人格のある人間として接していない彼らの傲慢さが表れています。

そして「モーセは律法の中で・・・」と切り出し、純粋に律法の問題を論じているように見せかけながら、本当の理由は「イエスを告発する理由を得るためであった。」のです。

パリサイ人たちはイエスを告発する理由を得るために、一人の女性を利用しました。
相手の男性は逃がし、当時では社会的な弱者であり、自分を守れない女を利用したのです。
またイエスを訴えるために、彼らは神の言葉である聖書も利用しました。

パリサイ人・律法学者は宗教にとても熱心でありながら、的外れの熱心さでした。
神と神の言葉に熱心でありながら、社会的な弱者を蔑み、利用する傲慢さ。自分と意見の合わない人物には、正しい人であっても言いがかりを付けて消し去ろうとしています。

私たちはパリサイ人・律法学者の罪を指摘するのは簡単です。
しかし、イエスさまも教えておられるように、裁くものは裁かれるのです。
私たちはパリサイ人・律法学者をただ単に裁くだけならば、同じ罪に陥る危険があります。

パリサイ人・律法学者がなぜ神と聖書に熱心でありながら、その罪深い人間性が変えられなかったのか?その理由を知り、謙虚に自分に当てはめなければなりません。
私たちクリスチャンも簡単にパリサイ人・律法学者と同じ過ちを犯しやすいのです。

キリスト教の歴史を学ぶなら、教会が犯してきた様々な犯罪を目にすることが出来ます。
良く知られている十字軍、魔女裁判、ユダヤ人の迫害もみなクリスチャンによってされました。私たちもただ熱心なだけなら簡単にあやまちに陥ります。
パリサイ人・律法学者をただ責め、裁くだけなら、やがて私たちも同じ罪を犯します。
ですから教訓を学びましょう。

【パリサイ人・律法学者の過ち】

なぜパリサイ人・律法学者は聖書を暗記するほど覚え、神には命を捧げても惜しくないほどの熱心さを持ちながら、真の神であるイエスを告発するようなあやまちに陥ったのでしょうか?

それはイエスさまが的確な言葉で指摘しています。

「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。」マタイ23章23.24節

パリサイ人・律法学者は人に見られるうわべの部分は熱心に体裁を整え、細かな規則を守ることは熱心でした。しかし最も大切なこと「正義もあわれみも誠実もおろそかにしてい」たのです。「正義」「あわれみ」「せいじつ」は一言で言うならば愛です!

イエスさまは聖書で最も大切なことをハッキリと教えておられます。
「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです』」。
マタイ22章37から39節

聖書で最も大切なこと、それは神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することなのです。なぜなら神は愛だからです!神は私たちが愛と正義に生きることを願われているのです!

しかしパリサイ人・律法学者はこの聖書のことばを知りながらも、ズレてしまいました。神とその言葉に熱心でありながら、人には冷酷で残忍、そして真の神を十字架につけてしまいました。

私たちもパリサイ人・律法学者と同じように簡単にこの愛の目標から離れやすいのです。なぜ私たちは愛が一番大切!と知りながら、愛に生きられないのでしょうか?

このことに関して後半でお話ししたいと思います。

【罪ではなく神を見上げよう】

「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。(6節後半)」

イエスは一体、地面に何を書いておられたのか?とても不思議ですね。
イエスさまが何を書いておられたのか、それは誰にも分かりません。
何を書いていたのかが大切なのではなく、イエスさまの態度こそ大切だと思います。

パリサイ人・律法学者はイエスさまがYESと言ってもNOと答えても、告発できる難問をもってやって来たのです。「姦淫を犯した女性を律法に書いてあるように石打にしなさい」と答えれば、処刑の権限を唯一持つローマ政府に逆らうことになり、イエスをローマに告発することが出来る。また「石打は止めて、赦してやりなさい」と答えれば、律法に逆らい、間違ったことを教えているとして訴えることが出来たのです。
パリサイ人・律法学者は悪知恵だけはあったようです。

私たちはこのようなピンチが訪れたら、一体どのように答えたらいいのでしょうか?
このようなピンチには、答えはないと私は思います。
何を答えるか?よりもどのような態度でいるか?の方が大切なようです。

イエスさまは身をかがめ、地面に書いておられました。全く自分の世界に入っていました。
イエスさまはどんな危機的な状況でも、天の父の平安の中に居られたのです。

パウロもエペソの6章で言っているように、私たちの戦いは血肉の戦いでありません。
霊的な戦いです。人間的な知恵、力でピンチを切り抜けようとするなら、却って敵の罠にはまってしまうのです。まず天の父の愛の中に、平安の中に自分を置くことが大切です。

平安の中にこそ、天の父の語りかけを私たちは聞くことが出来るのです。

【罪ではなく、神に注目する】

イエスさまはなぜ、身をかがめて地面に書いておられたのでしょうか?

ある人は姦淫の場で捕らえられた女性に向けられた視線をご自身の方に移すためだと解釈する方がいます。姦淫の場で捕らえられ、引きずられてきた女性です。
当然、着る物もしっかりしてなかったでしょう、男性たちからは好奇な視線で見られ、女性たちからは蔑み、裁く視線に曝されていたでしょう。

イエスさまはこの女性に向けられた厳しい視線をご自分に向けることで、この女性を守られたとする解釈です。とても美しい、イエスさまの愛が良く理解できる解釈ですね。
私もそうだったのではないかと思います。そして、ここから教訓を得ることが出来ます。

実際、教会の中でも様々な問題が起きます。それは避けられません。
みんな育った背景が違い、辿ってきた人生が違います。
誰もが罪を犯したいとは考えませんし、罪を願いません。しかし弱さや、悪習慣に負け、私たちは罪を犯してしまうことが何度もあります。教会員に迷惑を及ぼす罪もあるでしょう。その時、私たちはどうするべきでしょうか?

その人の罪だけを見、その人の罪に敗北した姿だけを見るならば、私たちの中からは裁く思い、また同情しすぎて罪と妥協する思い、ただのうわさ話しか出てこないかもしれません。私たちはなるべく早くに、罪から神に視線を移すべきです!
教会に起きる問題だけを見るのではなく、そこから神に視線を転じるべきなのです。

罪の中からは解決は生まれません!ただ罪を背負い、罪を滅ぼして復活されたイエスにこそ、希望と解決があるのです。私たちもいつも目をイエスに向けて進みましょう。

【私たちはみな罪人、誰も人の罪を裁くことは出来ない】

「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』(7節)」

私たちは人の罪を見ると、当然のように裁きたくなる弱さがあります。
テレビのワイド・ショーは人の罪を取り上げ、責め、裁き、噂することで成り立ってます。

しかしイエスさまは裁いてはならないと教えておられます。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」
マタイ7章1.2節

私たちはみな生まれながらの罪人だからです! 罪人が罪人を裁くことは出来ません。
裁くことが出来る人は、唯一、罪のないお方だけです。

私たちがもし、姦淫の場で捕らえられた女性と同じ境遇に生きていたなら、私たちも同じような罪を犯してしまったのではないかと思われます。
同じように私たちもパリサイ人・律法学者と同じ境遇に生まれ、そのような教育を受けていたら、やはり同じように彼らと同じ過ちを犯していたと思われるのです。

私たちは人の罪を裁く時、自分はそのような罪は犯さないとする高ぶりが生まれます。
すると何と自分が裁いた罪の誘惑に気が付かなくなるのです。そして気付いた時には自分も同じ罪を犯してしまうのです。私たちは生まれながらの罪人だからです。

パウロでさえ自分の中にある性質、善を知ってもそれを行えない、罪と知っていても止められない自分の性質に嘆いているのです。

罪は裁くことでは救いになりません!罪は責めても治らないのです。

罪は赦されることしか解決がないのです!罪は誰かが自分の代わりに罪の代価を支払って、罪から解放してくれない限り、本当の解決、救いはあり得ないのです。

イエスは私たちが生まれながらの罪人であり、何をしても罪には勝てない弱い物であることを知っておられ、その上で愛し、受け入れて下さいました。
イエスは私たちを赦して下さっているのです!
イエスの赦しを知り、イエスのもとに来る者の全ての罪をイエスは十字架で背負われました。ご自身の血を代価として、私たちを罪の奴隷から神の子供へと買い戻して下さったのです。罪の奴隷としての性質を十字架の死で滅ぼして下さいました。
そして復活により、神の子供としての性質、罪に負けない性質を私たちの中に与えて下さったのです!これが救いであり、これが罪の解決なのです。

そしてこの救いは私たちの努力によってもたらされたのではなく、一方的にイエスから与えられたもの、恵による救いなのです!

だから恵によって救われた私たちも、罪を裁く裁きに歩むことを止めましょう!

自分が赦されていることを知り、罪に打ちひしがれている隣人に罪の赦しとイエスの救いを伝える者になりましょう!

【わたしもあなたを罪に定めない】

「イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』(10.11節)」

「わたしもあなたを罪に定めない」これはイエスさまの赦しの宣言です!
この赦しを受け入れるなら、誰でも神の御前に赦されているのです。

イエスさまは唯一、人の罪を裁くことが出来るお方です。
しかしイエスさまがこの世に来られた目的は、罪人を裁くためではありませんでした。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
ヨハネ3章16.17節

イエスが来られた目的は、私たちが神に愛されていること、赦されていること、救いへの道であるご自身を示すためでした。

姦淫の場で捕らえられた女性にだけ、罪の赦しを宣言されたのではありません。
私たち全てにイエスさまはいまも語られています。「わたしもあなたを罪に定めない」と。

あなたの全ての罪はイエスにあって完全に赦されているのです!

【赦しが神さまとの関係の始まり】

イエスさまは続けて女性に語られました。
「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」

「行きなさい」これはイエスさまの愛と赦しの中を進みなさいとの命令です。
この女性はイエスの罪の赦しと解放の宣言を受けたのです。
イエスの赦しと罪からの解放により、この女性はまったく新しい神の子供としての人生を歩み出すことが出来るようになったのです!

赦しを先ず受けることこそ、神との新しい人生の始まりなのです!

「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンも赦しを受けることから新しい人生が始まりました。彼は小さな盗みのために19年間も監獄に入れられ、人格は完全に歪み、誰も信じられない人間になっていました。しかしそんな彼を変えたのは教会の司祭でした。彼は司祭から銀の食器を盗んだのにもかかわらず、その盗みが赦された上に銀の燭台までも与えられたのです。この赦される経験が彼の人生を全く変えました。

赦されることは私たちの人生を変えます!赦しこそ神との関係の始まりなのです。
赦された者は人を赦します!赦された者は愛を体験します。なぜなら赦しは愛だからです。

パリサイ人・律法学者は神と聖書に熱心でありながらなぜ人を赦し、愛せなかったのでしょうか?彼らは神の赦しを受け取らなかったからです。自分の罪を良い行いで塗り隠して、神からの無条件の赦しを拒んでしまったのです。

私たちもパリサイ人・律法学者と同じ過ちに陥ってはなりません。
先ず私たちも天の父なる神の赦し、イエス・キリストの十字架の赦しをそのまま受け入れるべきなのです。赦しから新しい人生は始まるのです!