「きょう、救いがこの家に来ました。」
ルカによる福音書19章1節から10節
牧師 小林智彦

【取税人の頭(かしら)ザアカイ】

「それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」1節から4節

ザアカイという人がいました。彼はイエスさまに大変な関心を持っていました。
いい年であっただろうと思われますが、イエスさまを見たいために木登りまでしました。ザアカイがどんな人物で、なぜイエスさまに感心を持ったか見ていきましょう。

ザアカイは「取税人のかしらで、金持ち」。また「背が低かった」とあります。
取税人というのは新約聖書に度々出て来る人たちです。彼らはローマの国に治めるための税金をユダヤ人から取り立てる人たちでした。ユダヤ人はローマの国の支配下に置かれていることが民族的プライドのゆえに赦せませんでした。
そして、その手先となって税金を集める取税人をとても憎んでいました。

また取税人もローマが定めている以上の税金を取り立てて私服を肥やしていました。
彼らは今で言うならば、サラ金の取り立て屋のような存在でした。

ザアカイが取税人になった本当の理由は分かりませんが、憎まれることを知っていながら取税人になったのですから、お金を愛していたからだと考えられます。
お金を愛する理由は、お金をたくさん持っていれば人から認められる、人から愛されると思ったからかもしれません。

ザアカイは「背が低かった」とあります。これが彼のコンプレックスになっていたかはハッキリとは分かりませんが、ザアカイはお金持ちになることで自分のコンプレックスを乗り越えようとしたのかもしれません。

誰でも人と比べて見劣りする点は必ずあるでしょう。
ある人は自分の外見に劣等感を持つ人もいます。学歴に劣等感を持つ人、収入に劣等感を持つ人、またある人には長所と思えることを嘆いている人もいます。
欠点がないところが欠点と嘆く羨ましい人もいるかもしれません。

皆さんは自分の劣等感をどのように克服していますか?

ザアカイはお金を人よりたくさん持つことによって克服しようとしました。
彼はある意味、成功したのです!取税人の頭(かしら)になったのです。
国税庁の長官になったのです!巨万の富と社会的な地位を手にしたのです。

ザアカイは自分の劣等感をお金と社会的な地位によって克服できたのでしょうか?
答えはNO!でした。なぜなら彼はイエスさまを見るために我を忘れて木登りまでしているからです。お金と手に入れた地位で完全に満たされているならザアカイはこんなことはしなかったでしょう。

私たちはザアカイの生き方から教訓を得ることが出来るでしょう。
私たちの中にある満たされない部分、それはお金や地位、学歴や良いルックスを得ることによっては満たされないのです。人が羨むようなものを手に入れても、心が満たされるのはほんの一瞬です。また空しさ、寂しさ、情けなさが私たちの心を埋めてしまうのです。

先日、テレビを見ていたら新宿のホストクラブについて取り上げていました。
なんと女子高生や女子中学生がホストクラブに通っているのです!
もちろん彼女たちには使えるお金は限られています、そのため彼女たちは売春までしてホストクラブに通い続けているそうです。なぜ彼女たちはそうまでしてホストクラブに通い続けるのか?彼女たちにとってはホストクラブが唯一、愛を得られる場所、自分が受け入れられ、認められている場所だからだそうです。
彼女たちは愛を求めて傷つき、体も心もボロボロです。

私たち大人も同じです。仕事中毒、アルコール中毒、薬物依存、セックス中毒、買い物中毒、ゲーム中毒、みんな愛と居場所を求めてため、またそれらを忘れるために何かの中毒になっている。自分の心も体も傷つけることを知っているのに止められなくなっている。

私たちは飲み水がなくなると、泥水でも飲むようになります。
泥水だと分かっていても、きれいな水がなければ泥水を飲むしかないのです。
本当の飲み水を手に入れるまでは、泥水を飲むのを止めることが出来ません。

ザアカイはお金や地位には既に失望しました。そしてやっとイエスに希望を見いだすことが出来たのです。イエスさまはザアカイの心を満たす本当の飲み水だったのでしょうか?

【マタイの証し:マタイの変えられた生涯】

ところで、ザアカイはなぜイエスさまに希望を見いだすことが出来たのでしょう?
ザアカイが走って、木に登るほどイエスを見たい!と思わせたのはなぜでしょうか?
マタイの存在が大きかったと考えられます。マタイもザアカイと同じく取税人でした。

しかしマタイはイエスさまと出会い、彼の人生は180度変えられたのです。
マタイもザアカイと同じ理由で取税人になったのかもしれません、しかしマタイは取税人の職業もお金も家も捨てて、イエスさまに従う人生を歩み始めました。

ザアカイは取税人の頭(かしら)ですから、救われる前のマタイを知っていたと思われます。そのマタイが変えられ、そしてマタイの顔から喜びが溢れ出ているのを知って、ザアカイはイエスさまに希望を持ったのではないでしょうか。

私たちの変えられた人生は、イエスさまを人に伝えるための優れた手段です。
神によって変えられた人生は誰も否定することが出来ません!
私たちの変えられた人生こそ、今も生きて働いておられる神を証明するのです。

そして証は人に希望を与えます。同じような問題で苦しんでいる人は少なくないはずです。しかしその問題がイエスによって解決された!これは大きな希望を与えるのです。

ザアカイがイエスに希望を持ったのはマタイや、他の既に救われた取税人達の証があったからだと思われます。

【ザアカイの友となられたイエスさま】

「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、『あの方は罪人のところに行って客となられた。』と言ってつぶやいた。」5節から7節

イエスさまはザアカイの心の渇きを真の愛で満たすことが出来たのでしょうか?
答えはYES!です。なぜならザアカイの心には喜びが生まれたからです。
「そして大喜びでイエスを迎えた。(6節後半)」

ザアカイの心を喜びに変えたイエスさまの愛はどのような愛だったのでしょうか。

@神の方から呼びかけてくださる愛!

ザアカイはビックリ仰天したに違いありません!まさか自分の名前を呼んで下さり、また家に泊まられるとは考えもしなかったでしょう。

ザアカイもイエスさまに感心と希望をもって近づいていきましたが、イエスさまはそれ以上にザアカイに近づいて下さいました。ザアカイがイエスさまを求める以上にイエスさまはザアカイに関心を持たれ、ザアカイの救いを求めていたのです。

イエスさまは神の愛を九十九匹の羊と迷い出た一匹の羊で譬えられましたが、譬え話で終わられただけではなく、自らがその愛をザアカイに示されたのです。
そして神はザアカイだけではなく、私たち一人ひとりを同じ愛で愛しておられるのです!

なぜザアカイの名前を知っていたのか?人間には不思議ですが神ならば可能です。
イエスさまは私たちの名前も知っているのでしょうか?当然知っておられます!

聖書にはこう書いてあります。エペソ1章4.5節
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」

「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」詩編139編16節

神は天地が造られる前から私たちを既に選んで下さっているのです!
私たちが母の胎に受胎した時から、神は私たちをご覧になっているのです!
神は神を求める全ての人に目を留め、神の方からその人に近づいて下さるのです。

あなたもザアカイに注がれた同じ愛で愛されているのです!

Aイエスはザアカイの罪を責められなかった。

イエスさまはザアカイをご自分の友とされました。
『あの方は罪人のところに行って客となられた。』と言ってつぶやいた。」(7節)
誰かの家に入って食事をし、その家に泊まることは、当時のユダヤの文化では親しい友達に限られることでした。つまりイエスさまはザアカイをご自分の友として選ばれたのです。

イエスさまはザアカイの名前を知っているぐらいですから、彼が犯してきた数々の罪も知っていたでしょう。しかしイエスさまはザアカイの友になられたのです。
それは神はザアカイの罪を既に赦していることの表れでした。

イエスさまは私たちの罪を裁くために来られたのではありません!
私たちを赦し、私たちを罪から解放するために来られたのです。

神は私たちが生まれながらの罪人であることを良くご存じです。
飲み水がなくて仕方がなくて泥水を飲む人を、叱りつける人がいるでしょうか?

同じように神から離れ、真の愛を見失った私たちが偽りの愛で心を満たそうとすることを神は裁かれないのです。偽りの愛で傷つき、ボロボロになった私たちを赦し、愛し、受け入れて下さるのです。そしてイエスは真の愛で私たちを愛して下さいます!

イエスの愛を体験することなしに、私たちは罪からの解放はありません。

イエスはザアカイを愛した同じ愛で、今も変わらずに私たちを愛して下るのです!

【きょう、救いがこの家に来ました。】

「ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。』イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。』」8.9節

ザアカイは救われました!しかしザアカイが救われたのは財産の半分を施すと決意したから救われたのではありません。だまし取ったお金を返すと決めたから救われたのでもありません。ただイエスの愛を受け入れたからです!イエスを救い主として家に迎え入れ、イエスの友となり、赦しを受けたから救われたのです。

ザアカイは何もしなかったのです!イエスが差し出した救いを受け取っただけなのです。

何かをしなければ救われないのではありません!
何もしなくて良いのです!神が与える愛と赦しをそのまま受け入れることが救いです!

しかし、神の救いが私たちを大きく変えていくのです。

私たちは愛されて初めて愛を知り、愛された愛で人を愛するように変えられます。
私たちは赦されて初めて赦しを知り、人を赦せるように変えられるのです。

ザアカイは神の愛と赦しをただ受けました!
ザアカイは人を愛せる愛などなかったのです。彼自身が乾いていました。
しかし先ず神の愛と赦しを受けた時、彼の乾きは癒されました。
彼の心は神の愛と赦しで満ちていったのです。
イエスが自分を責めない!イエスが友となって一緒に食事をして下さる。イエスが自分の心の苦しみ、悲しみを理解してくれている。ザアカイは初めて真の愛を知ったのです!

神の愛に満たされたザアカイは、自分の心から溢れ出た愛を回りに与えようと自然に思ったのです。貧しい人に財産の半分を分かちあうこと、だまし取った金を四倍にすることはザアカイにとっては自然で自発的な行為でした。

これがイエスさまが私たちに下さる救いなのです!
ただイエスの愛と赦しを受けるだけです。そしてキリストの愛と赦しが心に満ちると、私たちはイエスの愛と赦しを行うものに自然に帰られていくのです。これが救いです!

この救いを受けるには、そして受け続けるにはイエスの愛と赦しを日々体験することです。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」黙示録3章20節

イエスはザアカイに呼びかけたように、私たち一人ひとりにも呼びかけてくださっています。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから!」
あなたはこの呼びかけに応じて心の扉を開けてイエスさまを歓迎しますか?
私たちが心からイエスさまに、「どうぞお入り下さい!私たちの一番の必要、愛と赦しを今日も満たして下さい!」と願うなら、イエスはいつでも私たちの心を満たすことが出来るのです。私たちを変える力、それはただただイエスから来る愛と赦しです。