「イエス・キリストの十字架の意味」
牧師 小林智彦

いよいよ来週、4月8日(日)はイエス・キリストの復活を記念する復活祭です。
そして今日はイエス・キリストがエルサレムに入城を記念する「棕櫚の主日」になります。今日から来週の日曜日までが、イエスさまの十字架の苦しみを覚える受難週です。

私たちの信仰の中心はイエス・キリストの十字架の死と復活にあります!

しかし十字架と復活を単なる歴史の驚くべき出来事と信じるだけでは、何の意味も力もありません。キリストの十字架の死と復活は自分の罪のためであると信じ、受け入れる者のみにキリストの十字架の死と復活は力と変化をもたらすのです!

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」第一コリント1章18節

キリストの十字架の死と復活が私たちを救う神の力となるには、私たちが十字架の意味を理解する必要があります。その意味を理解した上で信じ受け入れるのです。

今日から受難週が始まりますが、キリストが十字架を背負われたのは簡単なことではありませんでした。キリストが背負われた十字架をリアルに理解するために、今日はご一緒に映画「パッション」を見たいと思います。

キリストは十字架を背負う前、鞭打たれます。それも偶然ではありませんでした。
預言されていました。そしてそれは神の計画だったのです。
なぜ罪のないイエスが鞭打たれる必要があったのか?
なぜそれを神は計画されたのか?

なぜキリストは十字架を実際に背負わなければならなかったのか?
なぜ一番残忍な方法で、強盗達と一緒に処刑されなければならなかったのか?

単なる歴史的な出来事として認識するだけならば、可哀想な人の話にしか過ぎません。
正しく愛に生きたのに、誤解され、残忍な方法で殺された可哀想な人の話です。
これには私たちを救う力も、変える力もありません!

キリストの受難は全て預言されていました。神が計画されていたから預言できるのです。キリストの十字架と復活によらなければ出来ないことがあるのです!
キリストは私たちのために鞭打たれ、十字架に付けられました。
イエスは十字架の上で、私たちのために大いなることを為し遂げられたのです!

今日はイエスが十字架の上で私たちのために成し遂げられたこと、そのことを聖書から分かちあいたいと思います。


【神の約束を受け取るマリヤの信仰】ルカ1章35から38節

先ずキリストが十字架の上で成し遂げられた大いなる救いを私たちが確かに受け取る方法について聖書から分かちあいます。

私たちの救い主イエスはその誕生から奇跡でした。

「御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。』」ルカ1章35節

御使いがマリヤに告げた内容は驚くべきことでした。男性によらずマリヤは妊娠すること。そしてそれは神の聖霊によるものであり、宿す子どもは神の子供であるのです。
私たちの常識と理解を超えた神の約束でした。

しかし、この神の約束をマリヤに伝えた御使いは言っています。
「神にとって不可能なことは一つもありません。」ルカ1章37節
「神の全てのことばに不可能はないからです」(小林とも訳)

「神のことば、神の約束は必ず実現する!不可能はない!」、神の御使いが告げた信仰は私たちが持つべき信仰です。私たちも信じましょう。
人間的には常識を越え、理解を超えた約束であっても、神が語られ、神が約束されたなら必ず実現します!これが私たちの信仰です。

さて、ではこの約束をしっかりと受け入れるにはどうすればよいのでしょうか?

「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように』こうして御使いは彼女から去って行った。」ルカ1章38節

私たちも神の約束に対してマリヤのように言うのです。
「私は主の僕(しもべ)です。どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように!」

神のことばが自分に実現するように!と願い、告白することです。
神の約束は心で信じて、告白する時、私たちの上に成就し始めるのです!
これが霊の法則です!

そして、信じ続けることです!
祈りについて学んだ時も分かちあいましたね。祈りが叶えられた時には、神は心に平安のサインを送って下さいます。実際に祈りの答えを手にする前に、神は平安を心に与えて下さるのです。この平安が来るまで、私たちは信じ続け、告白の祈りを捧げるのです。
神からの平安のサインが心に来たなら、あとは神の時に成就するまで賛美して待つのです。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」ルカ1章45節

幸いな人とは、神のことば、約束が必ず実現すると信じきった人です!
それではイエスが実際に十字架を背負い、死なれたほどに、十字架の上で私たちのために成し遂げられたこと、また約束は一体なんでしょうか?それを分かちあいましょう。

【イザヤ書53章】

イザヤ書の53章を朗読します。
そして、文中に出て来る「彼」とは、イエス・キリストを指し示していますので、「彼」をイエスと読み替えて朗読します。

− イザヤ書53章を朗読 −

イエス・キリストの十字架刑を克明に預言しているイザヤは、700年も前から救い主の十字架における救いを預言していたのです。
これは神のご計画であり、必ず実現することを示すため、またその約束を信じる者にも同じように約束が必ず実現することを示すためでした。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった(4節)」

イエスが十字架として背負われたのは、イエスの病ではなく、私たちの病、私の病です!
イエスは私たちの痛み、また私の痛みを十字架で背負われたのです!

キリストは私たちの病と痛み、そして私の病と痛みを背負われました!

この十字架の上で成し遂げられた病と痛みの解放を私たちと結びつけるものは信仰です。
「キリストは確かに十字架の上で私の病を背負われ、病を滅ぼされた!」と心に信じ、口で告白することです。そうするならば必ず神の時に、信仰の結果を受けます。

もしいま病気で苦しんでいる方がいるなら、イエスがあなたの病気を背負われたことを信じましょう!そして十字架の上であなたの病を滅ぼされたことを信じましょう!

(※現在治療中の人は医者に行くこと、薬を服用することを止めないで下さい。その方は神が医師を通して癒しを告げるまでは治療を受け続けて下さい。神の下さる約束の成就としての平安、また確信や印は自分だけに与えられる者ではなく、愛を持って自分に関わってくれる信仰の兄弟や家族、医師やカウンセラーにも与えられるものです)

「しかし彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし彼の打ち傷によって私たちはいやされた。(5節)

彼(イエス・キリスト)が十字架に釘で刺し通されたのは、私の罪のためでした。
しかしイエスが私の罪のために十字架で刺し通されたこと、私の咎のために砕かれたことを信じ受け入れるなら、完全な罪の赦しが与えられるのです!
平安と癒しが私たちの心に注がれるのです!これが救いと癒しの約束です。

「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。(10節)」

私たちはキリストが私たちに代わって私たちの罪を十字架の上で背負われたことを信じるのなら、イエス・キリストによって神の子とされるのです!キリストが復活されたように、私たちも復活して神とともに永遠を生きるのです!

これがイエスが十字架の上で成し遂げたことです!
私たちの罪を私たちに代わって背負うには、罪の処罰の象徴である十字架を神の御子自らが背負わなければならなかったのです。正しい人が十字架を背負っても、私たちの身代わりにはなりません。なぜなら、どんなに正しい人でも人間ならば、いつかは自分の罪のために死ぬからです。罪が全く無い人、それが神の御子が人間になられたイエスです。
イエスだからこそ、私たちの罪を変わって背負うことが出来たのです!

私たちはキリストの受難を覚えましょう!それはその苦しみを受けても、私たちを救いたい!罪から病から痛みから解放したいとの神の愛の現れです!十字架の苦しみの中に、神の愛はまさしく示されているのです。