「十字架の死の準備」
マルコ14章3節から11節
牧師 小林智彦

今年の復活祭は4月8日(日)になります。その前の日曜日、4月1日(日)はパーム・サンデー、棕櫚の主日と呼ばれ、イエスさまがエルサレムに入城したことを覚えます。
そしてパームサンデーから復活祭までが受難週と呼ばれ、イエスさまの十字架の苦難を覚える週になります。

クリスマスもとてもお目出度いのですが、復活祭も同じくお目出度いのです!
世間ではクリスマスを祝いますが、復活祭は祝いません。
最近はハロウィンを祝うようにもなって来ましたが復活祭は祝いませんね!

とても残念ですが、意味があると思います。
復活は十字架の死が無ければ、あり得ないからです。
そしてキリストは決して十字架に掛けられたための出血多量で死んだのではないのです。
キリストの死因は罪を滅ぼし尽くす、神の刑罰の死を私たちに代わって受けて下さった!これがキリストの死因なのです。

キリストの死は罪の力を完全に滅ぼす神の力です!
それ故、その死のあとに復活が続くのです。
復活も単なる蘇生ではありません。蘇生しても、人はやがて死にます。
しかしキリストはやがて死ぬような肉のいのちに蘇ったのではなく、永遠の命に蘇ったのです。これがキリストの復活です。
そしてキリストを自らの救い主として信じ受け入れる者に与えられるのが、十字架の死の力とキリストの永遠の命への復活の力なのです。これが福音です!

福音はただ天国に行けることが福音ではありません。
永遠に生きられる、これが福音なのでもありません!
罪を滅ぼす十字架の死があるからこそ福音なのです!

皆さん、私たち神の聖徒はしっかりと聖書を読みましょう。
黙示録を読むならば、終わりの日には神を信じ救われた人だけが蘇るとは書いていません。
善人も悪人もともに復活するのです。ともに永遠を過ごすために復活するのです!
だから、単に永遠を過ごしたいだけならイエスを信じる必要はありません。
誰もが終わりの日に復活するからです。

しかしイエスを受け入れなかった者は罪の代価を自分で永遠に払わなくてはなりません。
イエスが代わりに罪の代価を払ってくれたにもかかわらず、それを拒絶したからです。
彼らにはキリストの身代わりの死がありません!彼らは自らが拒絶したのです。
だから彼らは永遠に罪に生き続けることになるのです。

世の中が復活祭を祝わないのはこのような理由です。
罪の中に留まりたい!と願っている人はキリストの死を受け入れることが出来ません!
罪を喜んでいる人たちは、罪を滅ぼすキリストの十字架を喜べないのです。

【イエスの死を理解していたマリヤ】

さてマルコ14章に話しを移します。イエスさまが十字架に付けられる数日前の出来事が記されています。マリヤが高価なナルドの香油をイエスさまに注いだ記事です。
ナルドの香油とはその当時でもインドから輸出された最高級の香油だそうです。
弟子たちが正しければ300デナリ以上、つまり今日の金額にすると300万円です。
それをマリヤは惜しげもなくイエスさまに注いだのです!

なぜマリヤはこのような高価な香油をイエスに注いだのでしょうか。
弟子たちや回りの人たちも驚きました。そして尋ねています「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。」と。


マリヤがイエスに高価な香油を注いだのは、マリヤはイエスの死が近いことを知っており、またイエスの死なれる理由をしっかりと信仰によって受け止めていたからです。

他の弟子たちはイエスの死を否定していました。拒絶していました。
イエスがなぜ死ななければならないのか?その理由が全く分かっていなかったのです。

弟子たちはイエスに死んで欲しくなかったのです。
なぜならイエスが死んだら、イエスがイスラエルの王で、自分たちは大臣になるという夢が実現されないからです。イエスには死んでもらいたくなかった!自分の欲のために。

ちょっとずる賢いイスカリオテのユダは、イエスの死が避けられないことをこの出来事によって悟りました。彼もイエスがイスラエルの王になると思い込んで、今まで付いてきたのです。しかし、その夢が叶わないことを知った時、イエスを敵に売り飛ばしたのです。

マリヤだけがイエスの死を受け止め、イエスの死の意味を理解していたのです!

聖書にマリヤという名の女性はたくさん登場します。マリヤはギリシャ語読みで、ヘブル語ではミリヤムです。モーセの姉の名がミリヤムでした。だから当時のイスラエルでは多くの人が自分の娘に信仰の女性ミリヤムの名を付けたのだと思われます。

そしてこのマリヤはマルタの姉妹マリヤです。イエスが死から蘇らせたラザロの姉妹です。
彼らはベタニヤに住んでいました。マルタとマリヤに関しては聖書は比較的、多くのことを教えています。特にマリヤの信仰についてはルカもヨハネも取り上げています。

彼女はどのような信仰を持っていたのでしょうか。

「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
ルカ10章38から42節

マリヤはイエスのことばに聞き入る信仰を持っていました。
イエスの弟子たちも一緒でしたから、彼らの宿泊の準備や夕食の支度などやるべきことは沢山あったようです。マルタもマリヤも立派な女性ですから、直ぐに準備を始めたのでしょう。しかし、忙しい中でもイエスの教えが始まった時、マリヤは手を休め、そしてイエスのそばに座ってしっかりとそのことばを聞いていたのです。

回りからは気が利かないとか、忙しいのに何をやっている!などと非難されても、マリヤは決して回りに流されませんでした。そして一番大切なものを一番にする人でした。
イエスのことばをしっかりと聞き、それをしっかりと守ることの出来る人でした。
この単純なこと!しかし、これが本当の信仰なのです。神が喜ばれる信仰です。

だからマリヤは死を直前したイエスに出会った時、すぐにイエスの死が近いことを悟ったのでした。そして何のために死なれるのかも良く理解していました。

イエスさまはハッキリと何度もご自分がエルサレムで受ける苦しみと死について弟子たちに語っていました。

「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」マルコ10章32節から34節

しかし、弟子たちはこれほどハッキリとイエスがエルサレムで王様になるのではなく、全ての人から捨てられ、殺されると言っているにもかかわらず、理解していません。
なぜならその直後に、「さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」マルコ10章35から37節

イエスがエルサレムでの死を分かちあった直後に、自分の愛弟子が他の弟子たちを退けて左大臣、右大臣のポストを私たちに与えて下さい!と直訴しているのです。

これほど理解力のない弟子たちもスゴイですね。
しかし、これは私たちの姿を現してもいるのです!

弟子たちはイエスに付き従っていましたが、本当に仕えていたのは神の御子にではなく、自分の欲望に仕えていたのです。政治的な野心をもってイエスに付き従っていたのです。その欲望、野心がイエスのことば、イエスの為さろうとしていること、イエスご自身を見え無くさせ、その教えを理解できないようにさせていたのです!

しかし、マリヤは違いました。もちろんマリヤにも罪があり、欲も有ったでしょう。
しかし、マリヤはイエスが語られる時はしっかりと聞く耳を持っていたのです。
そして自分の願望をイエスに叶えてもらうためにイエスに仕えていたのではなく、ただイエスを愛し、イエスを信じ、イエスの願いを行いたいとの信仰が彼女にはあったのです。

マリヤだけがイエスの死の準備を整えました。これこそ礼拝です。

マリヤはナルドの香油を注ぐことで、イエスの死の準備を整えたのです。
ナルドの香油は嫁入り道具の一つだったと考えられます。大切な結婚式のために女性が積み立てをして高価な油を整えたのです。その油を自分の花婿に注ぐためでした。
その大切な香油、それはマリヤ自身のイエスに対する心からの献身を現していました。

十字架の死、それは私たちを罪と罪がもたらす永遠の滅びから救い出すための神の解決です。私たちを救うために神の御子がご自分の命を私たちに与えられたのです!
十字架の死、これこそ神の愛の現れでした。

マリヤはこの十字架の死と神の愛を受け止め、自分もイエスに対する最大限の愛の表現としてナルドの香油をイエスに注いだのです。そして、これこそが礼拝なのです!

【復活祭を前にして、私たちもイエスの十字架の死と復活を受け止めよう】

4月8日(日)が復活祭です。キリストの十字架の死と復活を覚えるのが礼拝の目的ですが、この復活祭を前にして私たちは更にキリストの十字架を見上げていきたいと思います。

私たちの心はマリヤのようでしょうか?イエスの足もとに跪き、イエスの十字架の死をしっかりと私の救いのためと受け入れ、心からの礼拝を捧げているでしょうか?

それとも弟子たちのように、この世の欲や罪が神の愛を見え無くさせているでしょうか?

この週は受難週を前にして、私たちの心の態度を聖霊様に探って頂きましょう。
何よりも皆さんにお願いしたいのは、私たちの心が、私たちの心の奥深い霊の部分がイエスの十字架の死を受け入れているか?その意味を知っているか?自分の心に霊に聞いてみて下さい。十字架の死は罪を断ち切り、滅ぼす神の力です!これを私たちは体験しているでしょうか?

自分の中に十字架に死を喜べない部分はないでしょうか?
キリストの十字架に死を受け入れず、自分の欲と罪を必死に守っている部分はないでしょうか?聖霊様に探って頂きましょう。

来週は棕櫚の主日、受難週の始まりです。来週の礼拝ではキリストの十字架の死と復活がもたらした救いと解放についてもう一度メッセージし、礼拝後には解放と赦しを受けるミニストリータイムを持ちたいと思います。