「きよい心は神を見る」
マルコ9章2節から4節
牧師 小林智彦

【神を見る心の態度】

「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。」マルコ9章2から4節

今日は私たちの心の態度がどれくらい大切なのか、聖書から学びましょう。

イエスさまも山上の垂訓(説教)の中で、心のきよい者は幸いであると教えられました。
心のきよい者は神を見るとイエスさまは言われました。

旧約聖書の中にも心の態度が大切であると教えている箇所が幾つもあります。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」箴言4:23

私たちの心の態度が私たちをいのちにも死にも導くと教えています。

確かに物事には良い面も悪い面もあります。そして物事を肯定的に受け止めることが出来る人は否定的に考える人よりも健康で、問題を乗り越える力に溢れています。

また私たちの心の態度は神さまとの関係さえも大きく変えてしまうのです。

「あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。」詩編18章25.26節 (口語訳聖書より)

私たちの心の態度が私たちの信仰、そして神さまの御姿にまで影響を及ぼすのです。
聖書は神をどのように見るかで、私たちの心が分かると教えているのです。

神が意地悪で当てにならない神と思うなら、本当は神が意地悪で当てにならないのではなく、そう思っている人の心が意地悪で当てにならないのです。
神はひがんだ者には、ひがんだ者となられるのです!

私たちの心には神さまはどのようなお方として見えますか?
神の霊である聖霊様に、心の中を探ってもらいましょう。
自分の心の態度について、神さまに取り扱ってもらいましょう。

神さまを恐いと思ったり、信じられなかったり、神について全く関心がない。
神が見えない、分からないなど神さまに対してはさまざまな思いがあるでしょう。
神に対する否定的な思いは何処から来るのでしょうか?

まず考えられるのは、心が汚れていることです。
自ら進んで汚れている人もいるでしょうし、汚されてしまっている人もいます。

「また言われた。『人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』」マルコ7章20から23節

世の中には汚れたものが氾濫しています。驚くべき内容の書物があります。
「自殺マニュアル」と言う本がベスト・セラーになりました。また逸脱した性に関する本や情報が頼みもしないのにEメールに次から次へと送られてきます。
テレビも映画も音楽も、汚れた思想、映像で満ちあふれています。

「汚れている!」ということば自体、それを口にしている人の方が可笑しく思われる時代です。「心の清さ」を求める方がバカにされるような時代です。

私たちは自分の心の中に入れるものを選ばなくてはなりません!
イエスさまが言われるように、これらの悪や汚れたものを楽しみ、喜び、肯定するなら、心は大きな害を受けます。心が汚れます。
きよい心は神を見ますが、汚れた心は一体何を見るのですか?

ヘビ・メタの中には直接サタンや悪霊の頭ルシファーを賛美するものがあります。
占いが罪なのは、それは神ではなく悪霊に将来を委ねるからです。
これらの悪は心と霊を汚し、進んで悪霊の虜になるようなものです。

私たちは自分の心の中に入れるものを選ばなくてはなりません!
神が何を喜ばれ、何を憎まれるのかを聖書によって知り、神の喜ばれるものを選択するのです。これは霊的な戦いです!

この認識を持って下さい!神が喜ばれるものを選び、神が憎まれるものを拒絶することが霊的な戦いなのです!

何故ならパソコンのお陰で私たちの人生を間違わせる有害な情報が溢れています!
先ほども言ったように、頼みもしないのに有害なメールが山のように送られてきます。
子ども達が持っている携帯にも、有害な情報が同じように送られています。
たったワンクリックで、私たちは悪魔の虜にされてしまう危険もあるのです。

見ざる!聞かざる!言わざる!になって下さいとは言いません。
この汚れた世から離れて、テレビもパソコンも携帯も一切禁止の人里離れた修道院に行きましょうと言っているのではありません。(そう言うのも時には必要かもしれませんが)
イエスさまは私たちが世から取り去られることを願いませんでした。そうではなく、信仰を保って世に勝つことを願われました。

何を心の中に入れるのか?これが霊的な戦いの最前線です!
神の喜ばれるものを多いに心の中に取り込み、神の憎まれるものを拒否しましょう。
私たちは弱いものです、また間違いやすいものです。もし私たちが神が喜ばれないものを心の中に取り込んでしまったなら、心が汚される前に告白とともに捨て去りましょう!

いまお話ししたのは、自らの選択によって汚れたものを選び取って心が汚れることについてですが、自ら選ばないにもかかわらず、心が汚されてしまうこともあります。
自らが選ばないのに汚されてしまうことを、傷つけられるとも言います。
汚された心、傷つけられた心もともに神を見ることが困難になります。

これは特に親との関係や学校の先生、権威ある人との関係の中から起こります。
子ども英会話教室では必ずバイブル・タイムを持っています。だんだんと生徒の中から聖書や神さまに興味が起こされてきます。そして子どもは素直ですから親に聞きます。
そうすると親が「そんなの嘘だよ!」と致命的な一撃を子どもの柔らかな心に与えます。永遠の命へと至る小さな芽が摘み取られてしまうのです!

特に小さい子どもは親のことばを選択することが出来ません。良いも悪いも全て心の中に吸収します。学校の先生の教えもそうです。間違っていても受け入れてしまいます。

このように自分で選んだのではないのに、心が汚され、傷つけられることがあるのです。しかしイエスの名は天と地の一切の権威が与えられた名です!
私たちはイエスの名によって心の中に埋め込まれた否定的なことば、傷、全てを追い出すことが出来るのです!

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」詩編139編23.24節

神さまに心を探ってもらいましょう!神への否定的な思い、不信仰、怒りがあるのなら、なぜそのような思いを持っているのか?自分が選んだためなのか?それとも誰かに傷つけられたのか?それを私たちが神に告白し、キリストの御名の権威によって捨て去れなければ心はきよまりません。そしてキリストの十字架の血潮を求めることです。
キリストの流された血潮が私たちの罪を赦し、心をきよめるからです。

【真理を告白することによる心のきよめ】

さて、ここまでは汚れからのきよめですが、積極的に心をきよめることも大切です。
マルコ9章に戻りますが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人は弟子を代表して、イエスの本来の姿、神としての御姿を見る栄誉が与えられました。彼らはハッキリと神を見たのです!
イエスはなぜ弟子たちに、神を見ることを許されたのでしょうか?

「するとイエスは彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたはキリストです。』」マルコ8章29節

イエスは十二弟子達がイエスに対して正しい告白をされたのを受け取られました。
マタイでは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白しています。
ペテロを始め、他の弟子たちもイエスは神であり、キリストであると告白したのです。
この告白を受けてイエスは、弟子を代表するペテロ、ヤコブ、ヨハネに神としての姿を現されたのです。

真理を告白することによって、私たちの心はきよめられるのです!
神さまへの正しい告白は心をきよめ、神をハッキリと見ることが出来るようにします!

礼拝式を賛美で始めるにはこのような理由があるのです。
賛美は神への正しい告白です!神は愛であることを告白し、イエスが救い主であることを告白しています。イエスが復活の主であり、生ける神であることを宣言しています。
私たちが心から賛美の歌詞を理解し、同意して賛美しているのならそれは正しい告白です。
賛美は私たちの心をきよめ、心の目にハッキリと神を映し出すのです!

【赦すことによって心がきよめられる】

「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」
マルコ11章25節

赦せない心は神の御顔を見えなくさせます。
罪を犯した相手が謝ったら、赦してやっても良いではないのです。
相手が謝っても謝らなくても、赦すことです。

憎しみと恨みは神を見えなくさせます。
神の御顔が見えないなら、私たちの祈りは聞かれることがありません!
また憎しみ、恨み、怒りは私たちを滅ぼしてしまいます。

赦しを選択することです!赦す力は神から来ます。私たちは赦すことを選択するのです。
神の前に赦しますと宣言し、赦す力を求めるのです。

赦しを選択しましょう!