「幸いな人生への8つのステップ」A
マタイによる福音書5章
牧師 小林智彦

【柔和なものは幸い】

「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」マタイ5章5節

「柔和な人」とは日本語の意味では「優しい人」、「穏やかな人」の意味でしょう。
しかし聖書の「柔和」には更に深い意味があります。

「 ■にゅうわ 柔和 柔和は,聖書の中において,しばしば推奨されている.「柔和」を表すヘブル語アーナーウの本来の意味は,卑しい,抑圧された奴隷状態にあることを示し,そこから転じて,自分を神の貧しいしもべと見なし,神の意志に完全に服従し,それゆえ,隣人に対しても怒りや傲慢な思いを抱かない状態を指して用いられるようになった(詩25:9,34:2,37:11,147:6,149:4等の「貧しい」).むしろ,そうした観点から見れば,真の謙遜と同義語的に用いられていると言ってよい.」
いのちのことば社刊 新聖書辞典より引用

「柔和な人」とは「神の意志(神のみことば)に完全に服従」している人なのです。
ですから、マタイ5章5節をこのように読み替えることも可能です。

「神のみことばに謙遜に従う人は幸いです。その人は地を相続するからです」と。

みことばに謙遜に従う人が「地を相続する」とはどういう意味でしょうか?
同じ内容の祝福と約束が詩編の1編にもあります。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」詩編1編2.3節

神のみことばを愛し、口ずさみ、そして謙遜な心で行う人、その人は時が来ると実を結び、行き詰まることなく、何をしても成功するのだとイエスさまは約束しているのです。

神さまの語られたみ言葉に謙遜に従いましょう!そうすれば私たちは実を結びます!
謙遜です!謙ってみ言葉に従うことが秘訣です。奴隷のようにです!
ちょっと言いすぎですか?
しかし私たちは神のことばに真剣に取り組みましょう!昼も夜も口ずさみましょう。

クリスチャンであっても、実を結ばない人、挫折する人、成功しない人はみ言葉を批判する人たちです。適当な言い訳を考えて実行しない人、「自分には無理だ」と諦めてしまう人、「これは別の意味がある」、「解釈が違う」と知的な言い逃れをする人。
聖書のみことばを知っていても実生活に適用しなければ、実は結べません。

謙り、みことばを正しいとし、自分はそれを守り行う者とすることです。
このように神のことばに取り組む者は必ず実を結び、挫折することなく、成功します!

日々聖書を読みましょう!そして心に示されたみことばを実行しましょう。
それが幸いな人です!それが実を結ばない空しい人生からの解放をもたらします。

【義に飢え乾いている者は幸い】
「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」マタイ5章6節

「義に飢え乾く」とても格好いい言葉ですが、具体的にはどうすることですか?
「神のみこころに熱心に生きることを願う人は幸いです」と言う訳もあります。
こちらの方が分かり易いですね。それでは「神のみこころ」とは一体何でしょうか?
「神のみこころ」は私たちが愛に生きることです。
「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」、これが神のみこころです!
イエスさまはマタイ22章37節から40節で、これこそが完全な律法だと教えています。

神を愛し、自分自身を愛し、隣人を愛することに熱心な人、愛することに飢え乾いている人!その人は幸せなのです。愛に生きる人は満ち足りるからです。

皆さん、読み間違えないようにしましょうね。愛されることに飢え乾いている人が幸せではないのです!愛することに熱心な人が幸せなのです。
愛されたい!と願う人はたくさんいます。でも、その人は幸せではありません。
神を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛する人が幸せな人です。

確かに愛は愛されないと分かりません。私たちは愛された分だけ、人を愛することが出来ます。私たちは過去を振り返れば親に充分に愛された実感が無い人もいるかもしれません。
自分を愛してくれる友人や異性に出会ったことが無い人もいるかもしれません。
誰もが自分の過去を振り返るなら、自分は愛されたことがない!と叫びたくなるでしょう。

それならば私たちは愛に生きられないのでしょうか?このみことばを行えないのでしょうか?神は私たちに無理なことを要求しているのでしょうか?

私たちは神に期待しましょう!神に答えを求めましょう。
ヨハネは私たちに真理を分かち合っています。

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」第一ヨハネ4章7節

ヨハネは愛は神から出ている、そして神から生まれた者は愛に生きることを教えています。
そうです!神から生まれる者は愛に生きるのです!
そして私たちこそ神から生まれた者です!

「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」
第一ヨハネ5章1節

「私は愛されたことがないから愛せない!」、皆さん私たちの救いは過去にはありません。
イエスはキリスト、救い主!この信仰の中にあるのです。
天の父は私たちを罪と死の滅びから救うために、先ずご自分の御子イエスを私たちに与えられたのです!イエスを信じるとは、この天の父の愛を受け入れることです。
天の父の愛を受け入れた時、私たちはイエスにあって神の子供として生まれたのです。
私たちの滅び行く肉体は愛を体験したことがないかもしれない、しかし永遠を生きる私たちの霊と魂は天の父の愛の中に誕生し、イエス・キリストの十字架の死と復活という生みの苦しみを経て、キリストの愛によって産み出されたのです!
この神の愛の中に立ち、神の愛を熱心に行う者は幸いなのです!

愛を分かち合う者は更に愛が増し加えられていきます。これは神の約束であり真理です。

「癒しを受ける信仰」
聖書箇所:マタイ8章から14章(聖書通読箇所から)

今週の通読箇所から「癒しを受ける信仰」について分かち合いたいと思います。
5章から7章までイエスは真理を解き明かしました。権威ある教えを分かち合いました。
8章から14章までは癒しの奇跡、また悪霊を追い出し、大暴風雨を静め、死人を生き返らせ、5つのパンと2匹の魚で5千人を養い、湖の上を歩くなど驚くべき業が書かれています。イエスは言葉と行いをもってご自身が救い主キリストであることを示されたのです。

今日はその癒しの箇所から学びましょう。癒された人々の信仰から学びましょう。

出エジプト記15章26節に「わたしは主、あなたをいやす者である。」とあるように、癒しを行う者は神の使わされた者のしるしと考えられていました。
群衆はイエスに癒しを期待し、イエスさまもご自身がキリストであることを証しするために人々を癒されました。しかしイエスさまの癒しは単にご自身がキリストであることを示す以上のものでした。

「すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。』イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。」
マタイ8章2.3節

イエスは触れなくてもこのらい病に苦しむ人を癒すことが出来ました。
しかし、イエスは敢えてこのらい病人に手を伸ばし、触れて、癒しを行われました。
この当時のらい病人には、一番良く分かる愛の表現としてイエスは愛を現されました。

当時のイスラエルではらい病人は家族から隔離され、町はずれに住まなくてはならなかったのです。そして人が近くに通る時には「私は汚れています」と叫んで、健康な人が間違って触れないようにしなければなりませんでした。
彼らは汚れた者として扱われ、病気以外の人とは一切の接触が禁じられていたのです。
そのらい病人にイエスは敢えて手を伸ばし、そして触って下さり癒されたのです。

神は私たちを愛し、どんなに汚れた過去でも、心の思いでも触れて癒したいと願っているのです。神は私たちが神の愛と癒しを受けることを願っています。

「わたしは主、あなたをいやす者である。」この言葉は今日においても変わりません!

【癒された者の信仰】

マタイ福音書で癒された人々の記事を読むと、彼らが信仰を持ってイエスに願ったことが分かります。どんな信仰をもってイエスに癒しを願ったのでしょうか?

「すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。』」マタイ8章2節

「しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」マタイ8章8節

「イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。『私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。』」マタイ9章18節

「すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と心のうちで考えていたからである。」マタイ9章20.21節

これらはマタイに登場する四人の癒された人々のイエスに対する信仰が書かれた箇所です。イエスさまは彼らの信仰に対してこう答えています。

「それから、イエスは百人隊長に言われた。『さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」マタイ8章13節

イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。『娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。』すると、女はその時から全く直った。」マタイ9章22節

「そこで、イエスは彼らの目にさわって、『あなたがたの信仰のとおりになれ。』と言われた。すると、彼らの目があいた。」マタイ9章29.30節

癒しの力はイエスにあります!なぜならイエスは神であり癒し主だからです。
しかしその癒しの力を受ける器、もしくはその力を流す管は信仰にあると分かります。
信仰がなければ、この人達はイエスの癒しを受け取ることは出来なかったのです。

それでは一体どのような信仰が癒しを受け取る信仰なのでしょうか?
この癒された4名に共通する信仰の特徴は一体なんでしょうか?
それを見事に言い表しているイエスさまのみ言葉があります。

「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」マルコによる福音書11章24節

この癒された4人の人々は「イエスなら必ず癒せる!」と既に!既に!信じていたのです。
「すでに受けた」と信じることが神さまから祈りの答えを受ける秘訣なのです。
そして「すでに受けた」と信じることが信仰なのです。

自分がどのように神さまに祈り求めていたか、「すでに受けた」と信じる信仰で神さまに祈っていたか考えてみて下さい。

私たちは「神さま、癒して下さい!○○を解決して下さい!」と祈ります。
このように願うことは当然でしょう!しかし、この祈りを繰り返しているだけなら信仰とは言えません。

なぜなら神が問題を解決するまで、癒すまで願い続けるのなら、祈りの答えを手にしてから神さまは癒して下さったと信仰を持つからです。そしてこれは信仰ではありません。
見ているものをどうしてそれ以上信じる必要があるでしょうか?

パウロは言ってます。「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」ローマ8章24.25節

目に見えているものは信じる必要はありません!だから癒されてから始めて神が癒されたと分かるようなら、それは信仰ではないのです。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
ヘブル11章1節

この癒された4人に共通するのはイエスなら必ず癒して下さる!と言う確信に満ちた信仰であり、それは「すでに受けた」信仰なのです。

イエスもマルコ11章24節で教えられているように、私たちが神から祈りの答えを受け取ることが出来るのは「すでに受けた」信仰に対してなのです。

確かに私たちは「神さま癒して下さい!○○して下さい!」と願い始めます。
しかし、それは「すでに受けた」信仰を得るまでの間です。
祈りの答えは神が定めた最善の時に最善の方法でかなえられます。
私たちが指定することは出来ません。
しかし、神は私たちの祈りと願いを聞いたと言う知らせを私たちの霊に与えます。
それが祈りが聞かれた「確信と平安」です。この「確信と平安」が来るまで祈り続けます。そして神が私たちの心に「確信と平安」を与えたなら、後は賛美して待つだけです。
私たちは祈りの答えをまだ見なくても、神の下さった「確信と平安」によって「すでに受けた」ことが分かるのです。祈りの答えは必ず神の最善の時に必ず来ます!

皆さんの祈りは何ですか?また癒しを願っている人はいませんか?
まず神に祈り願いましょう!「すでに受けた」と神からの「確信と平安」が来るまで祈り続けましょう。