「幸いな人生への8つステップ」@
マタイによる福音書5章
牧師 小林智彦

【地の塩・世の光としてのクリスチャン】

2月から聖書通読を始めることにしました。今週はマタイの1から7章までの箇所です。
本日のメッセージ箇所は山上の垂訓(説教)で有名なマタイの5章からです。
先ず5章の後半を見ましょう!ここにはクリスチャンのあるべき姿が描かれています。

クリスチャンとしてのあるべき姿とは「地の塩・世の光」としての姿です。

「あなたがたは、地の塩です。(13節)・・あなたがたは、世界の光です。(14節)・・このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(16節)」

「あなたがた」とは誰のことですか?これは私たちイエスを信じるクリスチャンです。
イエスさまは私たちが「地の塩・世の光」として生きること、また私たちの存在自体が輝いて、天の父なる神さまの子どもとして相応しく生きることを求めています。

「地の塩」とは世の中の腐敗を妨げる存在、神の国の価値観を保っている生き方です。
「世の光」とは神の愛を実践する生き方、救いの希望をもって人々を励ます生き方です。
これは理想ではなく、このように生きるべきとイエスは私たちに求めているのです。
なぜならイエスが私たちが「地の塩・世の光」として生きられる道を開かれたからです。

また5章には私たちの本来の生き方が20節に書かれています。
「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」

更に48節 「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

どうですか皆さん!これが本来の私たちの姿です。決して理想の姿ではありません。
今、神さまの御前で自分を吟味してみましょう!
自分は「地の塩・世の光」として生きているだろうか?
偽善な宗教家のような生き方ではなく、神の愛を実践する生き方をしているだろうか?
天の父が完全なように、自分は完全な生き方をしているだろうか?

もし私たちがイエスが求めている生き方にほど遠い生き方をしているのなら、何かが間違っていると正直に認めてください。
そしてどうしたら、イエスが求める神の子としての生き方が出来るのか求めてください。

イエスの救いを受けた私たちは本来、ヘリウムガスが充満した風船のようなものなのです。
放っておいても、自然に空高く上昇し続ける存在なのです。
無理したり、頑張らなくてもイエスにあって神の子供ならば自然に愛に生きる存在です。

それが神の愛に生きていない、神の素晴らしさを生き方で現していないなら、何かが間違っているのです!風船を縛り付けている重荷があるのです。それが罪なのです!
私たちが神の子供として生きられないのは、罪が私たちを束縛しているからなのです!

罪の束縛から自由にされるのなら!私たちは風船が自然に上昇するように、自然に隣人を愛し、神の栄光を現す生き方へと進んで行くのです。

【山上の垂訓(説教)は罪から解放されるための重要なステップ】

イエスは私たちを救うために来られました!何から救うのでしょうか?罪からです!
罪と罪のもたらす滅びである死から私たちを救い出すために来られたのです。
マタイ福音書に記載されているイエスの教えの中心は、この山上の垂訓(説教)です。
この山上の垂訓(説教)は、罪から私たちが解放されるための重要なステップだからです。

私たちが本来の神の子供として生きるために、「地の塩・世の光」として生きるために、この大切なステップを学び、理解し、実践していきましょう!
【心の貧しい人は幸いです】

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(3節)

罪から解放されるための第一ステップは「心の貧しい人」です。
「心が貧しい」とは神の御前に謙ることです。神の御前に謙遜であることです。
しかし、罪は私たちを高ぶらせます!
善悪の知識の木の実を盗み食いした私たちの先祖のせいで、私たちは生まれながら自分を神か、それ以上の存在であると思い込んでいます。これが罪です。
自分の上にある存在を認めたくないのが私たちの本性なのです。

リック・ウォーレンはこの箇所から、先ず私たちは自分が神ではないことを認めなくてはならないと言っています。そうです!私たちの心の中には一つの王座があります。
この王座から降りて、イエスさまに座ってもらうことが天の御国に入る入り口です。
私たちの中心に神が居られ、一番重要な心の王座にイエスさまに座って頂くこと。
これが救いの始まりであり、神さまとの正しい関係の回復なのです!

私たちが自分の心の王座から降りないと、どうなるでしょうか?
私たちは自分が神のように振る舞います。
自分も他人も全て、完璧に支配したい、コントロールしたいと思うようになります。
しかし私たちは自分を完璧にコントロールすることは出来ません。

たとえば私は太りすぎです。今は主にあって自分の体型を愛しています。
これは凄く重要なことです。 しかし、以前はそうではありませんでした。
太っていることは醜いと、この世の価値観に従って生きていたので、無理なダイエットをしてはリバウンドを繰り返していました。
ただ私は主を信じていたので、中毒的な症状からは幸いにも守られました。

若い男性でも見られますが、この太っていることは醜いのこの世の価値観に完全に従って、食べては吐き、食べては吐くの繰り返しをする人が少なくありません。
何とか理想的な体重と体型に自分をコントロールしたい!
自分は努力と頑張りでトップ・モデルのような体型になれる!なぜなら私は神だから!

しかし、やがて誰でもが体重ことでも、それ以外のことでも自分の思い通りにならないことが分かってきます。どうなるでしょうか?神が無能であってはならないのです!
それを隠し、忘れるために私たちは他の中毒に走るようになります。
薬物中毒、アルコール中毒のように、酔っている間は不完全な自分が忘れられます。
仕事中毒、買い物中毒のように忙しくしたり、自分の思い通りになることに夢中になって不完全な自分を見ないように、忘れるように生きます。

またある人は不完全な自分を隠すために家族をコントロールする人もいます。
夫が会社で出世するように夫をコントロールする。子どもが一流大学に入学することで自分の価値を引き上げようとする。妻の体型を必要以上に気にする。妻の行動を監視する。
会社の部下が思い通りにならないと怒り狂う上司。
自分の不完全さを隠すために家族や部下に代理戦争をさせているのです。
それは自分が心の王座から降りたくないためなのです。自分が神のままでありたいと願うからなのです。自分の弱さを認めたくない、不完全さを認めたくない罪なのです!

しかし神でもない人間が神を演じ続けるなら、必ず大きな代償を払わなくてはなりません。中毒を続けるうちに私たちの体はボロボロになります。
家族をコントロールするうちにやがては家庭内暴力、離婚、そして家庭破壊です。
そしてやがては完全な滅びである死が来ます。罪から来る報酬は死だからです!

この罪があるなら自分も家族も、まわりの人も滅ぼしてしまいます。
解決は自分は神ではないことを認めることです!自分ではなくイエスこそ神と認めることです。自分の不完全を正直に認め受け入れることです。なぜなら天の父が不完全な私たちをありのままで受け入れ、認め、愛してくださっているからです。

幸いな人の第一のステップは、心の王座から自分が降りること。イエスこそ神であることを認めることです。自分の弱さ、不完全さを神が受け入れて下さったように、自分も受け入れることです。これが神の国の入り口です。罪からの一つ目の解放です。

【罪を悲しむ者は幸いです】

「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。(4節)」

悲しむ者とは、自分の罪を悲しむ人です!
私たちは自分がどうしようもない罪人であることを認めざるを得ない時、悲しみが溢れてきます。そして自分では自分の罪を取り除くことが出来ないこと、自分は罪に対しては全くの無力であることを知る時、絶望と悲しみに襲われるのです。
しかし、罪を悲しむ者には慰めがあります!なぜなら自分には出来ないがイエスは出来るからです。イエスはその十字架の死と復活の命をもって、私たちの罪を取り除き、新しい罪に負けない性質を私たちの中に与えることが出来るのです!

宗教や道徳によって、自分の力で罪に対して勝利しようとしても出来ないのです。
自分は罪に対しては無力であることを認めることです!
その人だけが罪から私たちを解放して下さる救い主イエスを信じることが出来るのです。
そして悲しみは慰められます!イエスを信じる者は神の子としての性質を宿すからです。

この二つのステップは神と私たちの関係を修復するステップなのです。
一番大切なのは神さまとの関係が回復されることです!
神との関係が修復されないで、自分と自分、そして自分と隣人の関係が修復されることはありません。

私たちは日々、自分の罪を見つけるたびにイエスを求めているでしょうか?
イエスの十字架に自分の罪が貼り付けられて滅ぼされるように願っていますか?
罪に対して悲しむ者だけが、イエスの十字架と復活の解決を受けるのです。