「みことばを実行する人になりなさい。」
ヤコブの手紙1章21節から25節
牧師 小林智彦

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。
みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」ヤコブの手紙1章21節から25節

今年の船橋エクレシアの目標聖句はヤコブの手紙1章22節です。

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」ヤコブ1章22節

みことばとは神の言葉のこと、即ち聖書の教えを指しています。
なぜみことばを実行しなければならないのでしょうか?

否定的な理由になりますが、ヤコブも言っているように、ただ聖書を読んで終わるならば、「自分を欺いて」いるからです。
ヘブル人への手紙に書かれているように、神の言葉は両刃の剣よりも鋭いのです。
善悪の基準をハッキリ示し、私たちが守るべき善悪の基準についてハッキリと示します。

つまり聖書を読んでも生き方が変わらないとしたら、聖書を「神の言葉」として受け入れていないか、自分は完璧だと偽っているかのどちらかになるのだと言うのです。
これは否定的な理由ですが、肯定的な理由も書かれています。

それは、みことばを実行する人は「その行いによって祝福され」るからです。
神の祝福がどれほど素晴らしいのか?旧約聖書を読めば良く分かります。
またユダヤ民族の歴史を学ぶのならば、神の祝福と呪いについて見ることが出来ます。

この驚くべき祝福を天の父なる神はイエス・キリストを通して私たちにも与えたいと願っているのです。

呪いはイエス・キリストの十字架によって過ぎ去りました。
祝福はイエス・キリストを救い主として信じ受け入れ、イエスの言葉である聖書の教えを実行する時に豊かに与えられるのです!

日本のクリスチャンはこの「行ないによる祝福」を理解も体験もしていません!
それが日本のリバイバルを妨げている一番の原因です。

「行いによる救い」と「行いによる祝福」については混同しないで下さい!
「救い」は行いによらないのです!それは神さまからの一方的なプレゼントです。
どんな罪人も極悪人も、良い行いが全くなくてもイエス・キリストを救い主として信じるだけで救われるのです!イエス・キリストの十字架の死は私の罪のためであったことを信じ受け入れ、キリストが三日目に罪と死を滅ぼして復活したことを信じる者は誰でも、救われます。イエスを信じる者は誰でも神の子供です!

しかし、祝福は行いによるのです!神の言葉を守る者が祝福を受けるのです。
ただ分かって欲しいことがあります!これが重要なポイントです。

(重要ポイント@)それは私が行いだけを強調しているのではない!と言うことです。
私が強調したいのは、行いを通して神が皆さんに注ごうとしている祝福です!
私はイエスを信じる神の子すべてが神の祝福を豊かに受けて欲しいのです。
神の祝福を受けて、クリスチャンが、皆さんが日本のリーダーになって欲しいのです!
真の神を信じる神の子ども達が自分の祝福だけでなく、日本を変えていって欲しいのです。アブラハムのようにクリスチャンが日本で祝福の基になって欲しいのです!
神はアブラハムに言われました。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と、同じように「日本のすべての人がイエスを信じるクリスチャンによって祝福される」のです。これは私の願いだけでなく、天の父もイエスさまも願っていることなのです。

しかし!残念ながら日本のクリスチャンは少数派です。本当に極小です!
確かに小さくても良いのです。大きさは神が決められます。
しかし、今の日本のクリスチャンは日本にとって祝福を及ぼしているでしょうか?
神の国の影響力を発揮しているのでしょうか? 残念ながら不十分です!

救われるクリスチャンが少ないのでしょうか?そうではありません。
去っていく人があまりにも多いのです。
何が問題でしょうか?救いは確かに受けているはずです。救い主はイエスさまです。

何が問題なのでしょうか? 行いを通して受け取る祝福を受けていないからです!
神の祝福を熱心に求めましょう。

「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」箴言10章22節

私たちを本当に豊かにするのは主の祝福です。
そして、その祝福はみことばを実行する者に約束されているのです。

(重要ポイントA)重要ポイントのAがあります。それはみことばを実行すること、また祝福される行いとは「愛」であることです。宗教的な活動に熱心になることではありません。みことばを行うことはイエス・キリストの生き方に従うことです。
みことばが自分の生き方になる時、私たちはイエス・キリストに似た者に変えられます。

イエス・キリストのように生きるクリスチャンを日本は必要としています!
うわべだけの愛や、口先だけの愛ではなく、キリストの愛が必要なのです。
優しさだけの共依存的な愛は日本に溢れています。しかしキリストの愛がありません。
キリストの愛とは真理と共存する愛です。また人を自立させる愛です。

このポイントをしっかりと理解して、みことばを実行するなら、その人は約束されているように、神の祝福を受けます。自分自身を、自分の家庭を、自分の職場を、自分の地域を神の愛で満たす祝福の拠点になります。あなたを通して、人はイエス・キリストを見るようになります!

【みことばを実行する人になるために】

みことばを実行するために三つのポイントをポイントを分かち合いたいと思います。

@まず、イエス・キリストの救いを受ける。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(21)

「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあるように、神の言葉を実行するためには、まず神の救いを受けていなければなりません。
救いはイエス・キリストを罪と死から救いだして下さる救い主として信じることです。
キリストは私を罪と死から救い出すために十字架で死んで下さり、三日目に復活されたことを信じることです。このことを受け入れ、信じるなら救われます。
そして救われた者は神の子供に変えられるのです。
神の子供は神の性質を帯びます。その性質とは愛です。神は愛だからです。
神の愛を受けなければ、神のみことばを実行することは出来ないのです。
しかし救いを受け、霊と心の糧である聖書のことばによって養われるなら、神の子供として豊かに成長します。そして自然と神のみことばを実行出来るように整えられるのです。

まず救いを受けましょう! そして霊と心の糧である聖書のみことばによって養われましょう。そうするならば、みことばを実行する者に整えられていきます。

Aキリストを見つめ続ける(人生の模範にする)

完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。(25)

完全な律法、自由の律法とはイエス・キリストのことを指しています。
なぜならイエス・キリストは生涯、一度も罪を犯さず、神の御心を完全に行ったからです。キリストの人生そのものが神の愛を表していました。

聖書の教え、戒めだけを読む時、私たちは自分の人生にどのように当てはめたらよいのかが分かりません。しかしイエスの生涯は私たちがどのように生きるのか答えを与えます。聖書の教えを学び、イエスの生き方を見習うなら、私たちも自分の生活の中でどのようにみことばを実行するのかが分かってきます。

またイエスの霊である聖霊が私たちがみことばをどのように実行するべきか教えて下さり、助けて下さるのです。聖霊が私たちを助けるのはイエスの約束です!

みことばを実行することを通して、私たち自身がイエスに似た者に変えられていきます。

B古い価値観と悪習慣を捨て、新しい価値観と良い習慣に置き換えていく。

(このポイントは月曜日の新年礼拝では分かち合いませんでした。)
「古い価値観と悪習慣を捨て、新しい価値観と良い習慣に置き換えていく」、これが自分の十字架を背負って、イエスに従うことの実践です。

みことばを実行するには、神とそのみことばに反する価値観を捨てなければなりません!
特に捨てなければならないのは自分のセルフ・イメージです。

民数記13章はモーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエル人達が残念なことに、約束の地にたどり着く前に荒野で死ななければならなくなった理由が書かれてあります。

イスラエル人達はエジプトで400年間も奴隷でした。しかし神はイスラエル人の先祖にカナンの地を与えると言う約束を実現するためにモーセーを遣わし、イスラエル民族約60万人をエジプトから脱出させます。神はモーセーを通して偉大な奇跡を行いました。
ナイルの川を血に変えたり、家畜を滅ぼし、エジプト人の長子を罰し、紅海を二つに分けてその真ん中を通らせました。驚くべき奇跡を通してイスラエル人を脱出させたのです。

しかし、この驚くべき奇跡を目にしたイスラエルの60万人はたった二人を除いて、約束の地にはたどり着けなかったのです。

神はイスラエル人すべてに約束の地を踏ませたかったのです。
神はエジプトを脱出したイスラエル人の12部族の代表を、前もって約束の地を偵察するために遣わしました。彼らが帰ってきてカナンの地がどんなに素晴らしいのか、その報告をしたのです。

確かに神が約束されたように、カナンの地は地上で最高の土地だった!と報告しました。ここまでは良かったのですが、カナンの地に住む住人は皆背が高く、もの凄く強うそうだったと報告したのです。そこには巨人族までもいると付け加えました。
この報告を聞いて、イスラエル人達はたいへん動揺したのです!
「そんな巨人達が住んでいるカナンの地にどうして私たちが進んで行けるのだろうか?」

ここでイスラエル人達の意見は真っ二つに分かれてしまいます。
「必ず私たちはカナンの地に入っていける!神がともにおられるから巨人達にも必ず勝てる!」という意見。これは少数意見でした。カレブとヨシュアの二人だけの意見でした。
その残りの意見は「私たちはカナンの地には入れない!巨人達には勝てない」という意見でした。

偵察に行った12人はイスラエルの部族を代表する人物でした。
彼らはこのように言いました。

「彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
民数記13章32.33節

「私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

約束の地にたどり着けなかったイスラエル人達は、自分が敵の前にイナゴのように見えたと言っています。つまり彼らのセルフ・イメージはイナゴだったのです。

これが重要ポイントです!
つまり神が奇跡を体験させ、エジプト軍を目の前で粉砕し、天からパンを降らせ、肉が食いたいと言えば空から肉を降らせる奇跡を行っても、そしてそれを体験しても、また約束の地から歩いて僅か数時間の距離にいたとしても、自分のことをイナゴと思い込んでいるイスラエル人にとってはなんの意味も無かったと言うことです。

イナゴです!自分なんて価値がない、自分なんて何をやっても無駄だ!そう思い込んでいるのなら、神がどんな奇跡を起こしてもなんの意味も無いのです。

これは私たちに対する大きな教訓です。
実行すれば必ず祝福される神のみことばを前にして、「自分には出来ません!私は価値がない、弱い者です」と思い込んでいる人は、いつまで経ってもみことばを実行する者にはなれません。

イスラエル人が自分をイナゴと思い込んだのには理由がありました。
彼らは人生の大半をエジプト人の奴隷として過ごしてきたのです。
その過去の思い出が神によって解放された後も変わっていなかったのです。
神によってエジプトから解放され、神の民となったにもかかわらず以前として自分は奴隷だと思い込んでいたのです。その古い自分の価値が変わらず神の民を束縛していました。

イエスは言われました。誰でも罪を犯している者は罪の奴隷だと。
私たちはみな、以前は罪の奴隷でした。しかし、イエス・キリストを信じる信仰によって罪から救われたのです!今はイエスによって神の子供です!これが私たちの身分です。
神の子ども達が、神のように愛を行うことはなんの不思議もないのです!

しかし、多くのクリスチャンが救われてもなお罪の奴隷のように生きているのは何故でしょうか?どれのままの価値観に束縛されているのです!
自分はイナゴだ!みことばを実行することなんか出来ない!と思い込んでいるのです。

ニュースで読みましたが、今年成人を迎える新成人の半分がイジメを体験しているそうです。このうち3割が自殺を考えるほど深刻なイジメだったそうです。
また同じく3割は「仲間に誘われたら断れない」と答えているそうです。

罪の奴隷と言ってもピンと来ないかもしれませんが、日本人のほとんどは他人の目の奴隷です。回りからどう見られるか?集団への恐れ、他人の目が恐いのです。

日本では神を恐れるよりも、人の目を恐れるのです。
真理に従うよりも、回りの意見に従うのです。
他の人と違うことをすることを恐れるのです。何故ならイジメにあうからです。

もし私たちの内なる人が神よりも、回りの人を恐れているのなら、奴隷のままです!
真理に従うよりも、回りの意見に従っているのなら奴隷のままです。

私たちの内なる人、霊が以前として奴隷である価値観を手放さないなら、神がどんな奇跡を起こし、驚くべき恵を与えても、なんの意味もなくなるのです。

イエスにあって救われている人は自分の霊に強く語りかけなくてはなりません!
「私はもう奴隷じゃない!人の目を恐れる奴隷じゃない!イエスにあって神の子だ!」と。

皆さん、クリスチャンになって大多数の日本人と違う意見を持ち、違う行動しても大丈夫です!虐められることはありません。もし虐められても大丈夫です!
何故なら神があなたとともにおられるからです!
神があなたとともにいて、あなたを守られるからです!

イエスにあって私達は神の子供にされました。神の子に相応しく歩みましょう。
救われても、自分は奴隷であると思い込んでいたイスラエル人は約束の地に入れませんでした。奴隷から解放されたのに、奴隷よりも惨めに荒野で死んだのです。
ヨシュアとカレブだけが奴隷の価値を捨てました。神が奴隷の立場から解放して下さったことを心から受け取り、神の民として彼らは歩んだのです。彼らは神が解放した神の民です。そのように歩み、神の民に用意してあったカナンの地に入ったのです。

自分の古い価値を捨てられるか、そこに私達の歩みは懸かっているのです!
私達のためにキリストが十字架の上で死なれたように、私達も過去と過去の辛い体験によって作られた自分の奴隷の価値観に死にましょう!

イエスが三日目に復活されたように、私達もイエスにある新しい姿、神の子供として歩みましょう!神の子供に約束されている素晴らしい祝福のなかに歩みましょう。