「十字架以外に誇るものはありません!」
聖書箇所:ガラテヤ6章11から18節
牧師 小林智彦

「ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。」
ガラテヤ6章11.12節

「私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています」
パウロはこの手紙の中でも触れているように、目の病による不自由さを抱えていました。手紙の大部分は口述を筆記してもらっていましたが、ここからはパウロ自信の手書きです。手紙の最後にもう一度伝えたい内容を繰り返して、強調している部分なのです。

パウロは最後に割礼派の人々の偽善に気を付けなさいと忠告しています。
割礼を強調するグループは、自分自身が律法を守っていないのに割礼を強調しています。
割礼派が割礼を強調するのはユダヤ人としての伝統や文化を押しつけたい動機からです。
福音の本質よりも自分たちの文化・習慣・伝統を重んじる人たちが割礼派の人たちです。

初代教会の時代にはユダヤ人クリスチャンの方が圧倒的に数が多かったのです。
その中でも「割礼派」と呼ばれる人たちは大きな影響力をもつグループでした。
救われたばかりの少数派であるユダヤ人以外のクリスチャンは、この「割礼派」から割礼を受けることを押しつけられていたのです。

異邦人(非ユダヤ人)クリスチャンが割礼を受けるとどんな利益があったでしょうか。
先ずは当時影響力を持っていた「割礼派」から受け入れられることです。
どんな時代でも影響力を持った多数派から受け入れられることは大きな魅力です。

今日でも同じような問題があります。船橋エクレシアは日本では単立教会というカテゴリーに入れられます。ルーテル教団とか長老派、などの教団・教派に一切属していません。
「船橋エクレシア教会はプロテスタントの何派ですか?」と良く聞かれます。
「何派にも属してません。単立教会です。」と答えると、がっかりする人がいます。
ブランド志向の高い日本では、やっぱり何かブランドが付いていた方が受けが良いのです。

当時のガラテヤ教会のクリスチャン達も「割礼派」の仲間に受け入れてもらえることは大きな誘惑だったようです。


割礼を受けることのもう一つの利益は、ローマの公認宗教として認められることでした。
ローマはローマ皇帝を礼拝することを義務づけていました。
しかしユダヤ教だけはローマ皇帝礼拝の義務から免れる特権を得ていたのでした。
ユダヤ教徒の印は割礼でした。割礼を受けるなら皇帝への礼拝が公に免除されたのです
しかし、割礼を受けないで皇帝を礼拝しないのなら投獄される危険がありました。

割礼を受けることは大きなメリットがあったのです。
しかし、割礼を受けるデメリットはキリストの福音、その恵を捨てることでした。

律法を守ることによって救われるなら、キリストの十字架の死は無意味なのです。
割礼を受けるとはキリストの救いを拒否して、自力で救いを達成することを意味しました。

割礼を受け入れるなら、多数派からは歓迎され、ローマからも迫害される心配は無くなります。しかし、それは神の恵み、キリストの救いを拒絶することを意味しました。

【神に受け入れられたいのか?それとも人(この世)に受け入れられたいのか?】

神に受け入れられたいのか?それとも人(この世)に受け入れられたいのか?

これはガラテヤのクリスチャン、初代教会のクリスチャンだけが通った試練ではありません。キリストに従うクリスチャンが必ず通らされる試練なのです!
多数派から受け入れられたい!
これは神ではなく、人から受け入れられたい誘惑です。

大きな教会堂、立派なステンドグラス、素晴らしいパイプオルガン!座り心地の良いイス。
理想的な教会堂に思えるかもしれません。それはそれで決して悪い物ではありません。

しかし先週の献金の使い道で話しましたが、大宣教命令や開拓中の教会を支えることをしないで自分の教会、それも自分たちが居心地の良い空間を築くため、自分の教会を立派にすることだけに心が奪われていたら、私たちはこの誘惑に陥っています。

また牧師もこのような誘惑にいつも曝されています。
ルーテル教会、長老教会、またイギリスの国教会である聖公会などは世界的な規模の教会です。でも、これら伝統的な教団・教会の半分は自由主義神学、エキュメニカルの影響を受けています。自由主義神学と言うのは聖書が誤り無い神の言葉であることを否定する立場の人たちです。またエキュメニカルと言うのは、救いはキリスト以外にもあると考える人たちです。大きな教団、教派に属すると言うことは、その影響も当然受けるのです。
2000年が経っても「割礼派」は存在するのです。

単立教会というのは人間的な支えやブランドは無くても、一番純粋な形で信仰を守ることが出来るのです。神とその言葉こそが私たちの支え、私たちの誇りなのです!
人ではなく、神に受け入れられることを願いましょう!

また迫害を受けたくないために割礼を受ける。これも今日でもある誘惑、試練です。

これから年末・年始に向かって日本の様々な伝統行事があります。
初詣に神社や寺に参拝することも誘惑であり、試練になります。
まだクリスチャンでない家族や友人に誘われて、つい断れない!
皆さん、胸を張って「初詣は私は教会に行きます!」と言ってください。

また葬式や法事もクリスチャンにとっては試練・誘惑になる場合があります。
「親せきや家族の手前、どうしても手を合わさないわけにはいかない!」
焼香や、死者に手を合わせるのは偶像礼拝になります。どうぞ気を付けてください。

葬式や法事で焼香や手を合わせなくても立派に遺族に愛と慰めを表すことは出来ます。
これに関しては直接、牧師に質問してください。

私たち日本人は、人と違うことをすることに大きな恐怖を感じる人が大勢います。
初詣や焼香の問題もあるクリスチャンは、「これは偶像礼拝ではなく、日本の文化だ」と言います。しかし私たちは偶像礼拝を文化と言う言葉で隠してはいけません!

人に受け入れられるよりも、神に受け入れられましょう!
また、このような危機的な状況、迫害を受ける時こそ宣教のチャンス、証のチャンスです。

自分の頑張りに頼らず、聖霊様に祈り、導きを求めながら神に従っていきましょう。

【私たちは人(この世)に対しては死に、神に対しては生きている者!】

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」:ガラテヤ人への手紙6章14.15節

この箇所はとても大切なことを教えています!
これが私たちとこの世、私たちと神との関係を言い表しているのです!

私たちの前には二つの世界しか存在しないのです!
それは神中心の神の国と神ならざる者が中心の「この世」です。
私たちがイエスを知らない時には誰もが皆、「この世」に属していました。
「この世」の中心は自分自身であり、また悪魔を中心に生きている人もいます。
全て「この世」は滅びに向かって進んでいるのです。

エデンの園で私たちの人類の代表者、アダムとエバが神の言葉を拒否して、サタンの言葉に聞き従い楽園を追放されてから人類は皆、「この世」に生きることになりました。
「この世」は自分中心、また神よりも偉くなりたいと言う欲望が渦巻く世界です。
「この世」で結ばれる実は全て罪と滅びの実です。
「この世」に属する全ての物は神の裁きを受けて滅ぼされる定めにあるのです。
私たちは好むと好まざるとを問わず誰もが「この世」に閉じこめられていたのです。

しかし、私たちを救うためにイエスが「この世」に来られたのです。
そしてイエスが私たちに示した救いの道が十字架の道なのです!
私たちが「この世」の価値観、つまり自分中心の生き方、自分の快楽、欲望だけを追い求めた生き方にキリストの十字架の死の力で死ぬならば、「神の国」に生きるのです。

「この世」を抜けて「神の国」に入るには、キリストの十字架にともに付けられ死ななくてはならないのです!死んだ部分が「神の国」の命を受けるのです!

聖霊に導かれる時、聖霊は私たちのどの部分が「この世」に属し、まだ死んでいないかを教えてくれます。祈りとみ言葉に満たされ、聖霊様を心に歓迎しているのなら、私たちが「この世」の価値観に生きている時、直ぐにみ言葉を通して語られます。

私たちの家庭、仕事、学び、お金、時間、趣味。「この世」の価値観に属していますか?
それとも自分中心の価値観に死んで、キリストの復活の命に属していますか?

「この世」に属する古い人が皆さんの家庭を治めていますか?
そうなるとストレスでいっぱいになり、争いと不和で満ちてしまいます。
自分の中にある「この世」の価値観、自己中心にキリストの死を招くべきです。
そうしなければ、皆さんの大切な家庭が滅び行く「この世」と同じになります。

しかし、皆さんの家庭がキリストの価値観、神中心の価値観で治められるなら、皆さんの家庭は神の国の雰囲気に満たされ、愛と喜び、平安に満ちた場所に変わります。

私たちの世に対する誇りはキリストの十字架です!私たちが死んだ場所です。
「この世」に対して、私たちは既に死んでいるのです。
「この世」の価値観に生きて、滅びの実を刈り取ることは止めましょう。
キリストにある復活の命、これこそが私たちの人生を新しく創造するのです。