「互いの重荷を負い合い、キリストの律法を全うしなさい」
聖書箇所:ガラテヤ6章1節から10節
牧師 小林智彦

【御霊の人であるあなたがたは・・・】

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」
ガラテヤ6章1.2節

「御霊の人であるあなたがたは(1節)」とあるように、この6章は聖霊に満たされ、聖霊に導かれているクリスチャンに向けて書かれています。
聖霊に満たされたクリスチャンだけが、キリストの律法を全うすることが出来るのです。

キリストの律法とはキリストの愛の実践であり、互いに愛し合うことです。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」ヨハネ15章12節

キリストの愛を私たちが自分の努力や頑張りで行うことは出来ません!
なぜなら私たちの生まれながらの性質とは反することだからです。

「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」ガラテヤ5章26節

私たちの生まれつきの性質がよく現されています。互いに愛し合うのではなく、互いにいどみ合い、そねみ合い、互いに嘘の自慢に生きるのが私たちの生まれつきの性質です。

パウロは1節で「自分自身も誘惑に陥らないように気を付けなさい」と忠告しています。私たちクリスチャンも日々、聖霊に満たされ導かれないならば、直ぐに古い性質に戻ってしまうからなのです。

クリスチャンにとっての最大の誘惑は高ぶりです。キリストの復活の命に生きること、聖霊に頼ることを忘れて、自分で頑張ろうとすることです。

「自分は既にキリストと一緒に十字架の上で死んだ!いま生きているのはキリストの栄光を現し、神の御心を行うためである!」この決心を日々神に祈り、捧げることです。
復活の命は聖霊が与えます。自分の頑張りではなく、聖霊に満たされた確信で行動するのです。聖霊の助けをいつも求める謙虚な人は御霊の実を結び、誘惑からも守られるのです。

【柔和な心でその人を正してあげなさい】

「御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。・・・互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」

互いに愛し合うと言うキリストの愛の律法を全うするために、パウロが先ず勧めていることは「柔和な心でその人を正してあげなさい」との勧めです。

私たちは本当に弱い者で、簡単にキリストを知らない古い生き方に戻ってしまいます。
キリストにある新しい生き方の方が慣れていないのです!
だれでもキリストにある新しい生き方を意識的に選ばなければならないのです!
これは訓練です。神の前に謙遜になるための必要な訓練なのです。

しかし私たちは不完全で弱い者ですから、気付かぬうちに古い性質のまま歩んでいることがあります。身だしなみを整えるのに鏡が必要なように、私たちがキリストにある新しい生き方を身につけるためには、私たちの歩みを指摘してくれる神の家族が必要です。

聖霊は私たちが罪に歩まないように、耐えず私たちに注意と警告を与えてくれます。
聖霊は聖書のことばを通して私たちを導き、また御霊に満ちた神の家族を通しても導いてくれるのです。

もし私たちの中に教会の必要性を疑い、自分自身で御霊に満たされた信仰生活が送れると思っている人がいるなら(そんな人はいないと確信していますが)、その人は根本的な思い違いをした、大変に高ぶっている人だと言えます。

私たちの健全な信仰の成長のためには、柔和な心で正してくれる神の家族が不可欠です。
また神の家族が与えるアドバイスや指摘を素直に受け止める謙虚さが必要なのです。

「柔和」と言うのは、日本語の意味では「優しさ」を表すかもしれませんが、聖書的な意味では「謙遜」を意味し、神と人に仕える「僕の心」を意味します。
「柔和」は聖霊の実の一つでもあります。それは「謙遜」と「僕の心」を意味しています。

旧約聖書の中ではモーセが謙遜な人物として知られています。
「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」:民12:3

モーセは柔和であり、僕の心を持っていたのです。彼はイスラエルを支配し、自分の思いに従わせたいと言う動機からではなく、イスラエルの人々に仕える心、謙った心でイスラエルの罪を指摘しました。ある時は怒り、ある時は責めました。
それはイスラエルが神の民として相応しく、建て上げられるために必要だったのです。

私たちは日本的な「柔和:優しさ」で兄弟・姉妹の罪を見過ごしてはいけません!
聖書的な「柔和:謙遜で仕える心」を持って問題を正していくことが求められています。

表面的な優しさは、人を立て上げるためには何の役にも立ちません!
本当の友になるには、本当の人間関係を建て上げるには、その人の問題に直面することなしにはあり得ないのです!

しかし、その方法が大切ですね!
多くの人は自分の問題、弱さ、罪に対して隠します。話したくありません。
なぜなら弱さを見せたら利用されるのではないか?罪に付いて話したら、責められたり、裁かれたり、そして関係が切れてしまうのではないか?と恐れるからです。

だからこそ!御霊に満たされた人が「柔和:謙遜で仕える心」をもって正していくことが大切なのです。 そこには「裁き」や「押しつけ」はありません。

モーセがなぜ謙遜な人物だったのでしょうか?彼は自分が人殺しで、クーデターに失敗して神の前からも人の前からも逃げだしたことを忘れていなかったからです。
自分で出来る最高のことは、罪を犯すことぐらいだと分かっていたのです。
しかしそんなモーセを愛し、受け入れ、満たして下さる神に出会って彼は変えられました。

御霊に満たされたクリスチャンも同じですね!
生まれつきの自分の力で出来ることは罪を犯すことぐらいです!だから十字架でイエスとともに死んだのです!自分に絶望し、キリストに希望を置いた者だけが聖霊に満たされるのです。聖霊に満たされたクリスチャンは罪人を責めません、罪は責めますが、罪人は責めません。なぜなら生まれつきの自分も罪の奴隷だったことを良く知っているからです。

私たちは罪人を責めるためではなく、罪から離れ、キリストにあって成長するために仕え合うのです。これが「柔和な心でその人を正してあげなさい」の実践なのです。
私たちはこのパウロの勧めを実践しましょう!
なぜなら、「柔和な心でその人を正(すこと)」がキリストの律法を全うするのです。

神の家族が罪を犯している、信仰の道から離れてることを知りながら、見てみないふりをするのは「キリストの律法(互いに愛し合う)」を行ってはいません!
また、裁くために、傷つけるために兄弟の罪を指摘する人もキリストの律法を行っていません!

神の家族がさらにキリストに似た者として成長するために、触れたくないところ、弱いところを助け、問題に仕えるために自らを僕にする人がキリストの律法を行っているのです。

自分の問題を指摘されて怒り出す人、自己弁護に夢中になる人がいます。
また自分には人の助けなど必要ないと思っている人もいます。
確かに、それでもクリスチャン・ライフを送れるかもしれませんが、実は乏しいです。

野生の葡萄ももちろん沢山の実を結びますが、その実は小さく、甘さも乏しいです。
しかし、人が枝を剪定し、手を加えた葡萄は豊かに実を結び、とても甘くなります。

天の父は私たちの実を結ばない枝を剪定すると聖書の中に書かれています。
父が私たちを剪定する時、神の言葉である聖書、置かれている状況など色々なハサミを用いられます。その一つに神の家族の助言もあるのです。

問題を正すほうも、正される方もともに謙遜さが求められます。
謙遜に互いに仕え合う時、神の体は豊かに成長し、実を結んでいくのです。
私たちは謙って神の家族の助けを求め、助けを受けていきましょう!

【みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい】

「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」ガラテヤ6章6節から10節

「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」(6節)

この「教える人」とはガラテヤの教会で福音を伝え、教える働きに携わっていた人たちのことを指しています。牧師、または伝道者、教会学校の専属教師のような人たちです。
ガラテヤのクリスチャン達は教会での働きをしていた人たちを物質的、また経済的に充分に支えていなかったようです。「良いものを分け合いなさい」との勧めは、福音に仕える人たちを物質的・経済的に支えなさいと言う勧めなのです。

パウロは「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい(2節)」と勧めました。福音に仕える者、教会で働く者は信徒の霊的な面での必要を満たし、福音に仕える者の経済的・物質的な必要はその教会に属する者たちが支えなさい、そのように互いの重荷を分かち合い、キリストの律法を全うしなさいとパウロは勧めているのです。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。(7節)」

パウロは福音に仕える者たちへの経済的な支援を怠っている信徒達にとても厳しい言葉で迫っています。パウロは福音に仕える働き人は神が立てておられるので、その人々の必要を満たさないで、働き人が満足に福音に仕えられなくなるなら、それは神を侮る行為だと言っているのです。

この教会の経済については何時の時代においても問題があったと思います。
献金に関して人間的なルールを課すと、それは律法になり、重荷になり、結果として御霊の自由さを失ってしまう危険があります。

多くの教会は献金袋に名前を書いて、毎月の献金額を記入して捧げるようにしています。
また礼拝中に必ず献金入れを回して、献金を勧めています。
確かに、それぐらいしないと物価の高いに日本で教会堂を維持し、牧師や教師に給料を払うのは難しいのです。しかし、そうすると献金するように強制されていると感じる人たちの声を良く聞くのです。

私たちの船橋エクレシアも経済面ではとても苦しいのが現状です。
この2年近く、毎月赤字状態が続いています。確かにこのまま行くと、教会堂を閉鎖して、自宅か公園で礼拝するようになるでしょう。

多くの教会が行っているように献金袋を回すことや、メンバーに月定献金の袋を回すことも考えました。しかしそうなると、進んで自発的に捧げる信仰の応答としての捧げ物では無くなってしまうのです!それは会費と変わらなくなります。
また強制されていると感じ、不満を持つ人が現ることも予想出来ます。
なぜならそれは律法の下に置かれるからです。律法と規則の奴隷になるからです。

私たちの教会は赤字ですが、イスラエルの開拓中の教会を支えようと献金の十分の一をイスラエルの霊的な回復のために捧げています。また聖書がまだ翻訳されていない言葉に聖書を翻訳して宣教する働き、ウイクリフで働く宣教師シュライ夫妻をサポートしています。

私は赤字のため、これらのサポートを止めようかとも考えました。
しかし、そうなると私たちの船橋エクレシアは自分たちの教会を支えるためだけの教会になってしまいます。自分たちだけを支える教会!それは何と惨めな教会の姿でしょう。
私は赤字が続いても他教会をサポートし、宣教の働きに仕えることだけは止めないことに決めました!

なぜならエクレシアが自分たちの教会の必要だけを考えるなら、教会として「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と言う神の言葉を守っていないからです!

日本は驚くほど他国に比べて経済的に豊かです。日本が世界の教会に対して重荷を負える部分は本来は経済的な重荷のはずなのです!
インドネシアだったら月2万円で宣教師を一ヶ月はサポート出来るのです。
たった2万円です。中国では10万円で一つの教会堂を建て上げることが出来ます。
私はもっともっと世界の教会に仕えたいと願っています!

教会の経済の問題は人間的なルール作りで解決しようとは今は考えていません!
皆さんが神の声を聞けない、もしくは神を侮る人たちならば別なのですが、献金袋に献金額を記入してもらって、牧師か会計係がチェックするような解決だけはしたくありません。

パウロはこのエペソ6章でこのように書き始めていますね。「御霊の人であるあなたがたは(1節)」と。そうです!教会の経済の問題、またその他の全ての問題も、みなが聖霊に満たされ、聖霊に導かれる時に必ず解決するのです!
聖霊に満たされ、導かれないなら、どんな人間的な解決も本当の解決にはなりません。

私たちの時間、お金、能力、それらをどのように使うのか?
それらを全部自分の物だから、自分の欲望・願望に何をしたいのかを聞くのか?
それともそれらは全て神からの借り物として、聖霊にベストな使い方は何ですか?と謙って神の御心を求めるのか?

パウロはハッキリと言ってます。「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」

これは変わることのない原則です!霊的な法則です。
どうぞこの言葉を律法として捉えないで下さい。それは自分を窮屈にします。
そうではなく、あなたを本当の意味で豊かにするための大原則として理解して下さい!

私が大学生の頃、パチンコ好きの友人がいました。学校をサボって朝からパチンコです。学生なのに一日で何万円も損するような生活を送っていました。
その時2万円をパチンコに使ったとします。何が残るでしょうか?
物理的には何も残りません。しかし現実は何も残らないのではなくて、空しさが残るのです。またパチンコで取り返そうと滅びから滅びに向かわせるのです。

でも、その時彼が私がプレゼントした聖書を読んで、インドネシアに2万円を送っていたら!宣教師をサポートしていたら、何が残るでしょうか!答えは永遠を刈り取るのです。

宣教が最も難しい国、日本でも、先月PDLの学びのためにチラシを4千枚配り、友人、知人に声を掛けたら、8人ものまだイエスさまを知らない人が集まりました。
霊的に開かれている国なら、もっと大勢の魂が集まり救われたでしょう。
1人でも、もし悔い改めて救われるなら、それは永遠の収穫なのです!

この教会では誰がいくら捧げているかは誰も知りません。もちろん私も知りません!
献金袋が無いからです。今まで一回も献金したことが無い人もいるかもしれません。
それも知りません! 私は誰がどれだけ献金しているか、感心はありません。
ある教会は献金額で牧師からの待遇が違うそうですが、私はそのようなことは憎みます。だから一千万円献金しても、牧師からの誉め言葉は期待しないで下さいね。
また献金するお金がいま全くないんですと言う人も心配しないで教会に来て下さい。

皆さんのお金、時間、能力をどのように使うのか?聖霊様とよく話し合って用いて下さい。神さまがあなたの選択と決断を祝福して下さいます!
御霊に満たされ、導かれて決めて下さい。

しかし、神の願われることは「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」です。