「御霊によって歩みなさい!」
ガラテヤ人への手紙5章
牧師 小林智彦

今週は先週のガラテヤ5章に続いて6章を分かち合いたいと思います。
ガラテヤ6章は教会におけるクリスチャンの実際的な働きに付いて教えています。
ガラテヤ人への手紙はとても分かりやすい書き方になっています。とても明解です。
先ずガラテヤ教会の問題、それに対する福音における解決。そして恵を思い起こさせ、御霊に満たされることを強調し、生活における適用をもって書き終えているのです。

ですからパウロ流の考え方をすると、恵の福音(イエス・キリストの十字架の死と復活を通して与えられた救い。信じるだけで与えられる)から離れると問題は起こるのです。
教会が正しい福音に対する理解を持つ時、問題は解決し健全な教会になるのです。

これは個人においても全く同じことだと言えるでしょう。

ヘブル人の手紙に書かれているように、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離(してはならないのです)」ヘブル12章2節
イエスが十字架の死と復活をもって成し遂げた救い。ただ悔い改めと信仰によって救われる恵! ここから目を離してはならないのです!

教会の問題を解決するのも、個人の問題を解決するのも同じです。
悔い改めと神のことばへの単純な信仰です! これが根本的な解決をもたらすのです。
そして実際的な解決は御霊に満たされ、御霊によって歩む時にもたらされます。
この二段階の解決が実際の教会とクリスチャンの生活の中に必要なのです。

恵の福音に対する理解は家を建てることに例えるなら、土台の部分です。
律法を行うことによる自力の救いは、砂の上に土台を据えるようなものです。
やがては嵐が来て、風が吹き雨が降ると、土台ごと流されてしまうのです。

しかし、恵の福音の上に土台を据えるなら嵐が来ても、洪水が来ても大丈夫です。
キリストの死と復活という動かされることがない岩に土台が据えられているからです。
恵の福音は堅固な岩、動かされることがない土台です!キリストが据えてくださるのです。

しかし実際に住むには、土台だけでは住めません。その土台の上に家を建てるのです。
この家を建てる部分が福音の真理を生活に適用する部分です。
そして、それぞれの家を助け主である聖霊様と一緒に建て上げなさいと言われるのです。

ガラテヤ人への手紙の1章から5章の前半までは土台についてパウロが論じています。
砂の上に家を建てないで、イエスの恵の福音という堅固な岩を土台にしろと言ってます。
そして、そのあとは実際の生活をどのように生きるべきなのか、適用が書かれています。

土台の上に家を建てる部分です。土台はイエスさまが既に造り上げてくださいました。
私たちはその土台を選ぶだけで良いのです!
しかし、家を建てるのは私たちの実際の生活の中で行われることなのです。
これは土台を選ぶだけで、自動的に付いてくるのではないのです。

実際の生活がイエスに似た生き方を現すかは、私たちが真理を生活に適用しているかに懸かってくるのです。これはある意味、自力の部分です。私たちが行う部分です。

信仰生活には神が一方的に成し遂げてくださる領域と、私たちがやる部分があるのです。
土台にあたる救いの部分はイエスさまが成し遂げてくださいました!
だからイエスを信じる、この土台を選ぶだけで私たちは救われ、この救いの土台が崩れたり、救いを失うようなことは決してないのです!なぜならイエスが完成させたからです。

しかし、この救い、この土台の上にどのような家を建てるのかは私たちの責任です。

ある人は救われた後、イエスに従うことをやめてしまう人がいます。
そのような人は土台は永遠に残り救われていますが、家は建てられなかったのです。
もちろんこれは喩えです。天でどのような結果になるかは具体的には分かりません。
しかし、土台だけのところに住むことを考えたら、やはり惨めだと思います。
だからパウロは救われた後も、つまり土台が据えられた後も、「恐れおののいて自分の救いを達成してください」(ピリピ2章12節)と私たちに懇願しています。

もちろん永遠の世界に残る土台を得ただけでも驚くべき恵なのです。永遠に失われない救いです。しかし、その上に豊かな家を建てることが許され、神も願われているのですから、私たちは永遠を惨めに過ごさないためにも、豊かな家を建て上げましょう。

そしてこの家にあたる部分は具体的に言うならば私たちの人格の部分です!

私たちの人格がイエス・キリストに似たものに変えられ、成長し、成熟することが私たちの家の部分の完成なのです!イエス似た者に変えられることです。

どうすれば私たちはイエスに似る者に変えられるのでしょうか?
そしてこれは福音の真理を実際の生活に適用することと、同じことを意味しています。

難しいですよね!イエスに似るように自分の人格を変えるなんて!
実際の生活に聖書をどう当てはめていくのか?聖書自体、難しくて理解出来ないんだから。

だからパウロは実生活における適用の部分であるガラテヤ6章を書く前に、先ず聖霊に満たされること!聖霊に導かれて生きることを強調しているのです!

聖霊に導かれて生きることなしに、イエス・キリストの人格に似た者に変えられることはあり得ません!聖霊に満たさないで、福音の真理を生活に適用することは出来ません!

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」:ガラテヤ5章16節

皆さん、御霊(助け主である聖霊)によって歩んでいますか?
皆さん、御霊によって歩むとは具体的にどのようなことなのか分かってますか?

御霊によって歩むとは具体的にどういうことなのでしょうか?
皆さんはパラリンピックと言うのをご存じでしょうか?身体に障害を持った方のオリンピックです。私が驚いたのは視覚に障害を持った方もフル・マラソンを走り抜くことです。どうやって目の見えない人が42,195キロも走れるのか? 伴走者がいるんですよ!
一緒に42,195キロを走ってくれる伴走者がいるのです。
細いロープを手と手に持って、伴走者が一緒になって走るのです。
伴走者はロープを引っ張ることによって正しい進路を教え、また時にはフォームのチェックもしてくれるそうです。励ましを与え、また勝負のポイントもアドバイスするそうです。

私はパラリンピックの視覚障害を持ったランナーが伴走者と走る姿を見た時に、聖霊様と一緒に走るクリスチャンの姿が重なりました。

私たちは罪の結果、いまだ霊の目が完全に開かれていない、霊的な視覚障害者です。
この救いのレースを完走するには伴走者が不可欠なのです。
どちらが神の願われる道か分からない。聖書の教えをどのように生活に当てはめて良いのか分からない。分からないことだらけです。また信仰生活に伴う迫害や孤独の問題もあります。1人で走ることは不可能です!天の父なる神もイエスさまもそれをご存じです。
だからイエスさまは私たちに伴走者である聖霊様、助け主を一人ひとりに与えて下さっているのです。この聖霊の助けなしに、私たちの人格はキリストの似姿へと成長することはあり得ないのです。

皆さん!御霊に満たされ、御霊にあって歩みましょう。

日々、謙って聖霊に求めることです!一日を始める時に、今日も導いて下さいと祈ってから始めて下さい。聖書を読む時も、聖書が分かるように、示されたことを行えるように助けて下さいと謙って祈ることです。

伴走者である聖霊様は必ず、皆さんの手を引っ張って真理に導き、またそれを生活に適用するために手を引いて下さいます。

でも、皆さん!走るのはあなた自身です。聖霊様は導いて下さいますが、あなたの代わりに御言葉を行っては下さいません。行うのはあなたです!
聖霊様に満たされることを願っても、伴に歩むことを願わない人には聖霊様は何も助けることが出来なくなります。イエスの似姿に変えられたいと先ず自ら願うことが大切です。
そして謙って聖霊を求め、満たされ、その導きに従うのです!

先週お話ししましたが、聖霊様に満たされているか日々チェックすることは大切です。

「御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」ガラテヤ5:18

「クリスチャンだったら××しちゃダメ!」、これが律法の下にいるレベルです。
自分の努力・頑張りで、自力でイヤイヤながら聖書を守っているレベルです。
これは聖霊様に満たされていません!喜びが無いし、自発的でないからです。奴隷です。

しかし、御霊に満たされると同じことをしながらも、内面が全く異なります。
「進んで○○したくなる!」もしくは「ちっとも×罪×したくない」に変わります。
これは律法の上を行くレベルなのです!進んで律法に書いてある以上のことを行いたくなる!これが神の子供のレベル、イエスさまと同じ心になるのです。
これは聖霊様の助けが必要です!聖霊様に私たちの霊が励まされ、手に手を取って歩んでいると自力ではイヤイヤながら行っていたこと、また守れなかったことも出来るようになるのです。

だから!聖霊に満たされましょう。聖霊を求めましょう。謙って祈りましょう。
聖霊に満たされることは神さまの願いであり、約束です。
聖霊を心に歓迎し、聖霊の導きに従う祈りを捧げたら、後は感じても感じなくても御言葉を行うことです!これが大切です。

聖霊に満たされることは不思議な霊体験をすることとは同じではありません!
それらが伴うこともありますが、全く何も感じないで御霊に満たされていることもあります。大切なのはキリストに似る者になりたいと願う心と、聖霊に助けを求めながら歩む謙った心です。聖霊は必ず助けて下さると確信して歩む信仰が大切です。

【御霊に満たされているのか、もう一つのチェック・リスト】

ガラテヤの6章に進みたいと思いましたが、時間の関係上、来週にします。
ガラテヤ5章にある、もう一つの御霊に満たされているかチェック・リストを見ましょう。

パウロは明解な真理を私たちに分かち合っています。つまり、御霊に満たされていなかったら程度の差はあれ、肉欲に満たされているのです。御霊に満たされていなかったら、誰でも程度の差はあれ、肉の欲を満たすために生きているのです。

中間は無い!と言うことです。滅ぼされるための肉の欲望を満たさないためには、御霊に満たされ、御霊に導かれて歩む以外は無いのです。

パウロは肉の欲望のリストを書いてくれました。

「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」
:ガラテヤ5章19節から21節

この中で「不品行」と出てきますが、これは結婚しない男女の性的な関係のことです。
聖書は婚前交渉を「不品行」と言う罪であると指摘しています。
既に結婚している男生と女性が他の異性と性的関係を結ぶ場合は「姦淫」になります。

「汚れ」の定義も難しいのですが、考えられのは正常ではない性的な関係です。
同性愛は聖書的に考えると「汚れ」になります。

「好色」も詳しい定義は難しいのですが、「放縦」とも訳されている箇所があり、不特定多数の人と性的な関係を持つこと、またポルノやその他の情欲(性欲ではなく)を満足させるものを求めることを指していると考えられます。

私はクリスチャンがこれらの罪を犯していても、驚きもしなければ、責めるつもりもありません!牧師がいくら皆さんに、「罪を離れなさい!それでもクリスチャンですか!」と叱りつけ、頑張りで罪を犯さないようにしても根本的な解決にはならないのです。

御霊に満たされ、御霊に導かれていないクリスチャンは余程の忍耐力が無ければ、これらの罪のリストを自然と満たす生き方になるのです!これが私たちの古い性質の姿です。
そして自分の忍耐力で罪を犯さないように頑張っているクリスチャンは我慢することだけで人生が終わってしまいます。聖霊の実は結べません。我慢の実しか結べないのです。
どちらも喜びも無ければ平安も無いのです!

だから!覚えて欲しいことは、御霊に満たされ、導かれないのなら、肉の欲、古い性質に導かれて、肉欲リストを満たす人生しか送れないのです。

聖霊に満たされることを願いましょう!「イエスさま、助け主である聖霊を今日も歓迎します。聖霊様、今日も私を助け、満たし、導いて下さいますようにお願いします!」
このように心から願い、祈るだけで良いのです!

そして聖霊が私たちに語る時の言葉である聖書を良く読み、み言葉を心に蓄えることです。聖霊はほとんどの場合、心に蓄えられた聖書のみ言葉を通して、私たちを導きます。
そして私たちが置かれた状況でどのようにみ言葉を適用するのか知恵を与えます。

私たちが謙った心を持って聖霊を歓迎し、聖霊に導かれて歩むなら、私たちの心はキリストの人格に似た者となります。そして聖霊の実を豊かに結ぶのです。
聖霊の実とは私たちのうちに結ばれたキリストの人格なのです!
キリストの救いの土台の上に建て上げられた、私たちの永遠の家なのです!

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」:ガラテヤ5章22.23節
御霊の実を結ぶことは、私たちの人生の究極的な目的です!
私たちにはそれぞれ働きがあります。家庭もあります。才能もお金もあるでしょう。
でもそれらは永遠の世界には持っていくことが出来ません。
私たちが永遠の世界に持っていくことが出来るのは私たちの内に結ばれたキリストの人格だけです。聖霊に満たされ、導かれて歩みましょう!