「大事なのは愛によって働く信仰」
ガラテヤ人への手紙5章
牧師 小林智彦

【神に認められたいのか、人に認められたいのか?】

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。」:ガラテヤ5章4.5節

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは」とパウロは言っていますが、ガラテヤのクリスチャンたちは律法を心から守って神に喜ばれようと願っていたのではありませんでした。

彼らが願っていたのは割礼を受けることによって、外見的に律法を守っていることを示したかったのです。また割礼を受けることによって、当時の教会に於いて影響力を持っていた「割礼派」の人々に受け入れられたいと願っていただけなのです。

ガラテヤのクリスチャンたちの問題はキリストに認められることよりも、影響力をもったグループ、「割礼派」の人々に受け入れられたいと願っていたことにあるのです。

私たちにも同じ弱さがあると思います。目に見えない神よりも、目に見える影響力を持ったグループや力のある人々に受け入れられたい、認められたいと願う弱さです。

しかし、私たちの目がイエスから離れて人に向けられると、簡単に神の恵みから落ちてしまいます。信じるだけで受け入れられ、赦され、愛されている平安を失います。

人に受け入れられたい、認められたいと願う思いは私たちを再び人の奴隷にします。
誰かに認められたい!と願う時、私たちの心はキリストから離れて人の奴隷になるのです。
人から認められることによって得られる平安は不安定なものです。
人から与えられた平安は努力や頑張りによって支えられているので不安定なのです。
努力や頑張りは必ず疲れます!また人から認められなくなる不安がいつもあります。
結局は人に認められることで心の平安を得られることはないのです。

人に認められることよりも、まず神に受け入れられていることを喜びましょう!
神が私たちをキリストにあって赦し、受け入れて下さっていることを覚えましょう!
このことが私たちの平安の土台なのです!

神のことばに留まることよりも、目に見える賞賛に心引かれるなら、アダムとエバがサタンの偽りのことばによって善悪の知識の実を盗み食いしたのと同じことになります。
その木の実は「食べるのに良く、目に慕わしく、いかにも好ましかった」とあります。
人からの賞賛、人から受け入れられ認められる誘惑も同じです。しかし、それを選んだ瞬間にアダムとエバが真の平安を失ったように、私たちも同じことが起きるのです。

神のことばを忠実に守っていても、正しい人からは受け入れられ、認められ、賞賛されます。その人たちは本当の友、永遠をともに過ごす信仰の友になります。
人からの賞賛や認められることを一切拒絶しなさいと言っているのではありません。
正しい人々から認められ、受け入れられることは、結果であって目的ではありません。

神よりも人に認められたいと願う時、私たちはキリストの恵と平安から落ちるのです。
ただ神に受け入れられ、神に喜ばれましょう!
その時、平安とともに正しい人たちからも認められ受け入れられていくのです。

【大事なのは愛によって働く信仰】
「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。(6節)兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。(13.14節)」:ガラテヤ5章6節&13.14節

大事なのは愛によって働く信仰だけです!
キリストによって私たちが本当に自由になると、私たちは律法を守れるようになります。本当の自由とは罪からの自由であり、また自己中心からの自由でもあるからです。
私たちは自分の力では罪から自由になれないので、嫌でも罪を犯さざるを得ないのです。
罪の力は私たちを地球に縛り付ける目に見えない重力のようなものです。
自分を自分で持ち上げるられないように、罪の力からも自分の力では抜けられないのです。
イエス・キリストだけが十字架の死によって私たちを罪の力から切り離せるのです!
また滅びに向かう様々な悪い欲望からも、私たちを自由にすることが出来るのです!

私たちが罪から解放されて自由になるのなら、本来の人生の目的に向かって進むことが出来ます。私たちの人生の目的はイエスに似た者になること、つまり愛に生きることです!

「クリスチャンになってからの方が、人生が生き辛くなった!不自由になった!楽しくなくなった!」と言う不満の声を良く耳にします。それはとても悲しいことです。

キリストは私たちに自由を与えるために来られたのに、キリストを知るものがその自由を体験していないのは何故なのでしょうか?

その理由の一つは、キリストが私たちのために成し遂げた十字架と復活を良く理解していないことにあるかもしれません。
イエスが言われたのは「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と言われました。ヨハネ福音書8章32節
キリストが私たちのために成し遂げて下さった真理を知らなくては自由は来ないのです!
イエスを救い主として信じることが救いの条件です。
しかし、ただ意味も分からずイエスを救い主として信じます!と告白し、祈っても、確かに天においては救われているかもしれませんが、救いの力を体験することは無いでしょう。

キリストが私の罪のために十字架で死に、三日目に罪と死を滅ぼして復活された!私のために! 「私のためなんだ!」とキリストの十字架と復活を個人的に自分と結びつけることが何よりも大切です。イエスが私の主!私の救い主!であること、これが真理を知ることです。自分がどれほど罪深く、イエスが十字架に架かられなければ到底赦されることが無いほどの罪人であることを知ることも真理を知ることです。
しかし、キリストの復活によって私は完全に罪が赦されたんだ!これが真理です。
これが私たちを自由にするための真理です!

キリストが私のために何をされたのか?個人的に知ってください!
その真理があなたを本当に自由にし、救いの喜びで満たします。

キリストの十字架と復活が個人的なこととして受け入れられていない人は、天の父に祈って下さい。先ず自分がどれほど罪深いかを示して下さるように祈って下さい。

自分の罪深さを知らない人は、キリストとは何の関係も築けません。
キリストは先ず私たちを罪から救うために来られたからです。

次に再び私たちがキリストにある自由を失う時があります。
それは私たちが自由を得ても、愛の目標を見失ってしまう時です。
ガラテヤのクリスチャンたちがそうでした。彼らは福音を聞いて信じた時に喜びで満たされました。彼らはイエスの救いを受けて罪から自由にされたのです。
しかし、割礼派の人々によって愛を行うための自由が、宗教的な自己満足の目標にすり替えられてしまった。その時彼らは喜びを失い、恵から落ちてしまったのです。

キリストの十字架の死と復活によって自由を得た私たちは、その自由で神と隣人を愛しましょう!私たちは自分の自由をもって、自由に愛のために生きましょう!

愛を行うための自由を奪い取ろうとする全ての偽りに警戒しなければなりません。
今の教会では「割礼」は何の魅力もないでしょう。
しかし、新たな「割礼」には気を付けなくてはなりません。
牧師にとっての誘惑は学歴という「割礼」もありますし、教会堂の大きさと言う「割礼」もあるのです。一見正しそうですが、それらを得ようと不必要な努力をしているうちに、神の愛を行うこと、御言葉を伝えること、祈ることから離れていってしまいます。

愛を行うことから目をそらせる一切の誘惑を、私たちは自分の自由を持って捨てましょう。

【御霊によって歩みなさい】

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(16節)しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。(18節)」:ガラテヤ5章16&18節

「クリスチャンになってからの方が、人生が生き辛くなった!不自由になった!楽しくなくなった!」 皆さんはどうですか?

御霊によって歩むことをしなければ、クリスチャン人生は本当に辛くなります。
聖書は何回も私たちに命じています。御霊に満たされなさい!と。

御霊に満たされないクリスチャン・ライフはガソリンが切れた車を自力で押すようなものです。それは大変疲れます。
御霊に満たされたクリスチャンはハイオク・ガソリン満タンの自動車のようなものです。それは楽ですし、力に満ちています。

御霊に満たされ、私たちの歩みが御霊に導かれる時、私たちは自由で、楽しいのです。
御霊に満たされることを願い求めましょう!

御霊に満たされ、導かれるとクリスチャン・ライフに対する姿勢が根本的に変わります。

それは律法、聖書の戒めに対する姿勢が変わるのです!

たとえば十戒の中に「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」とあります。
つまり、「嘘をついたらいけない」という戒めですね。
御霊に満たされていないと、「嘘をついたらいけない!この戒めを守らなければ良いクリスチャンじゃなくなる!」こういう動機でこの戒めを守ります。一応は守っています。
でも、これじゃ、クリスチャン・ライフは「○○しちゃダメ!○○しちゃダメ!」で一杯になります。これじゃ疲れる・つまらない・堅苦しいクリスチャンになりますね。

しかし、御霊に満たされると全く違ってきます。「嘘をついたらいけない」じゃなくて、「嘘をつきたくない」に変わります。もっと満たされると「進んで真実を明らかにしたい」に変わってくるのです!
私は神に選ばれ、愛されている神の子だ!進んで神の栄光を現したい!動機が180度変わってくるんです。同じ戒めを守るにしても、大きな違いなのです。

私たちのクリスチャンライフが「○○しちゃダメ!○○しちゃダメ!」だけだったら、ホント疲れるし、続きません。でもこれが人間の限界です。
だから助け主、聖霊様の助けが必要なんです!

「○○しちゃダメ!」から「喜んで○○したくなくなる!」もしくは「したくなる!」に変わるのです。この変化は聖霊様が与えて下さるのです。

もしクリスチャンライフに疲れを覚えているのなら、あなたの努力が不足しているのではありません。努力しすぎで疲れてるんです。そして、聖霊様に助けてもらうことを忘れているんです。

どうしたら私たちは聖霊に満たされ、また聖霊によって歩めるんでしょうか?
一歩いっぽ謙って聖霊様に助けを願うんです。
聖霊様は私たちが願わなかったら、私たちを助けることが出来ないんです。
しかし、私たちがキリストの栄光を現すこと、愛を行うことを願っているのなら、聖霊に助けを求めるだけで、聖霊は私たちを満たし、助けて下さるのです。これは約束です!

単純です!真理は単純なのです。
一日の始めを先ず自らを神の栄光を現すため、即ちキリストの愛を行うために捧げる祈りから初めてみて下さい。そして自分の力ではなく、聖霊様が助け、導いて下さるように謙って聖霊様を求めるのです。後は感じても感じなくても、御言葉を守るのです。
そうすれば必ず御霊に導かれ、満たされた生活を送ることが出来ます。

祈りましょう!この週の新しい朝、先ず自らを神の栄光のために捧げる決心の祈りを各自が自分のことばで祈って下さい。キリストの愛を行い、御言葉を宣べ伝えるために自らをキリストに捧げる決心をしましょう。

そして、自分の弱さを告白して、聖霊様の助けを求めましょう!聖霊様の満たしを求めましょう。