「愛を持って真理を語る」
ガラテヤ2章11節から21節
牧師 小林智彦

「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。」:ガラテヤ2章11節

初代教会ではユダヤ人と異邦人の救いに関して、誤解している人がたくさんいました。
このガラテヤ人への手紙が書かれた時は、ユダヤ人クリスチャンの方が異邦人クリスチャンよりも多かったのです。

人間の弱さとして、他国の文化や習慣を無視して、自分の文化や習慣を優先したい、押しつけたい弱さがあります。初代教会でも同じ問題が起きていました。

数で勝るユダヤ人クリスチャンが異邦人クリスチャンに対して、ユダヤ教の伝統や習慣、そしてユダヤ人を特徴づける割礼をも受けなければ救われないと教えていたのです。
つまりイエスを救い主として信じるだけでは不十分で、ユダヤ人にならなくては救われないとする間違ったグループ、「割礼派」と呼ばれるグループが存在していたのです。
この「割礼派」と呼ばれるグループは当時かなりの影響力を持っていたようです。

パウロは異邦人の使徒としての使命が与えられ、また福音に対しては神さまからの確かな啓示を受けていたので、「割礼派」がどれほどの影響力を持っていたとしても恐れませんでした。パウロは福音の真理が保たれるために決して彼らの教えに妥協しませんでした。

そして、使徒ペテロ(ケパはアラム語で「岩」、ペテロも同じ意味。)が「割礼派」に妥協し同調した行動を取った時、面と向かってペテロに抗議しました。

それは福音の真理が歪められる心配があったからです。
もしパウロがペテロに対してハッキリと抗議しなかったら、私たちも洗礼と一緒に割礼をも受けることになっていたでしょう。それほど重要な抗議だったのです。
だからパウロは皆の面前でペテロに抗議しました。
誤解やゴシップが流れないためです。ハッキリと間違いを指摘する必要がありました。
これは聖書的な原則から言えば例外です。原則はまず一対一で話し合うことです。

今日、皆さんにお勧めしたいことは「対面する」ことです。
もしくは「愛を持って真理を語る」ことです。

私を含めて船橋のメンバーは優しい人が多いと思います。船橋はとても受容的な、包容力のある人が多いと思います。積極的に人の罪を指摘する人はいませんね。
とても居心地の良い教会だと思います。

しかし私はこのエクレシアの姿勢を変えていかなければならない、と思っています。

もちろん、隣の人の罪をたくさん指摘してあげましょう!と言うのではありません。
バランスが大切なのです! 「愛と真理のバランス」が大切なのです。

愛と優しさ、配慮、思いやり、丁寧な言葉はとても大切です。心が癒されます。
しかし、それが救いをもたらすとは限らないのです。
救いは自分の罪を認め、悔い改めるところに救いはあるのです。

イエスは全ての人を無条件に愛し、全ての人のために十字架に架かって死なれました。
これは事実ですが、それならば全ての人は救われましたか? 救われていません!
ただ「イエスが死なれたのは自分の罪のためだった、自分が救われるには罪の無いイエスの血が必要だった」と自分の罪を認め、悔い改める者だけが救われるのです。

誰もが生まれながらの罪人です。私たちは犯したくないのに罪を犯す存在です。
良いことが何か分かっていながら、良いことが出来ず、悪いと分かっていながら、悪を止められない!これが私たち罪人の姿です。
だから誰も罪を責めることは出来ません!罪人を責めることは罪人には出来ません。

真理を語ることは罪を責めることではないのです。

私たちは愛と配慮を持って、罪を犯さざるを得なかった弱さ、心情を理解します。
共感します。「イエスはそれでもあなたを愛している」とイエスの愛を語ります。
でも、これで終わったなら私たちは大切なことを伝えていないのです。

罪を犯している人は、理解され、愛されていると言われて、心は大いに慰められます。
しかし、以前として罪の中に留まるのです!何の解決もないのです。

この世の短い人生では理解と共感を受けて救われたように思っても、罪を抱えたままならば悪魔と一緒に永遠を地獄の炎のなかで焼き尽くされながら過ごすのです!

私たちは愛と慰めとともに、真理を語らなければならないのです!

これはイエスさまも同じです。イエスさまはヨハネ8章で姦淫の現場で捕らえられた女性に対して一言も彼女の罪を責めませんでした。しかし、「そのままで良いんだよ!」とは言われませんでした。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われたのです。

イエスは私たちの罪を責められません!しかし、私たちが罪の中で滅ぶことを決して願わないお方です。なぜならイエスこそ人を生かす愛を知っておられるからです。
愛は人を生かします。偽りの愛は上辺だけで、本当には人を生かしません。

本当の愛は真理が含まれます!偽りの愛は真理を語りません。

パウロの愛は本物でした!ペテロの中に間違いがあり、そしてその間違いはペテロばかりか教会に大きなダメージを与えることが分かった時、直接、対決したのです!

パウロの愛と真理のバランスが取れた指摘によって、ペテロも後の教会、即ち私たちも間違った教理から救われたのです!

しかし、パウロが和の精神を重んじる日本人だったら、イエスの本当の教えは伝わらなかったでしょうし、キリスト教会は初代教会で既に崩壊していたでしょう!

私たちが上辺だけの親しさ、和やかさを大切にするなら、本当の交わり、救いは訪れないのです。罪を犯している人を理解し、共感することは大切ですが、それとともに悔い改めを勧めなければ、本当の意味では救いは訪れないのです!

私たちが実を結ぶ信仰生活を送るには、いつも神の国から考えなければなりません。
私たちのこの世の人生は長くて90年です。しかし、それで終わりではありません。
永遠の人生が私たちを待っているのです。イエスとともに永遠を過ごすか?
それとも永遠を悪魔とともに滅びの中に生きるのか?
それを決定するのが、今の世の短い人生です!今の人生が全てではありません。
今の人生は次の人生の為の備えの時です!
このことを意識するなら、自分自身の生き方と人に対する接し方が変わります。

本当に隣人を愛するなら、今の一時の感情を大切にするよりも、隣人が永遠を何処で過ごすかが一番大事な問題になるはずです!

パウロが指摘しなかったら、ペテロは使徒でありながら異端の教えを教会に持ち込んだ人物としていつまでも汚名を引きずる人になったでしょう。しかし、ペテロ自身は気が付いていなかったかもしれない。パウロだけが啓示が与えられていたから、その間違いに気付いていた。天国に帰ったらパウロは恨まれますよ。「なぜ教えてくれなかったんだ!」と。そこでパウロがペテロに「気まずくなるのが恐かったんだ!」と言ったらどうなるでしょうか?「いつか真理に気付くと思って」、そんな言い訳は通じませんよね。

罪に気付いているのに、相手の間違いに気付いているのに、それを指摘しないなら、その罪を手助けしているのと同じです!
罪はそのままにしておけば自然に止むものではありません。
罪はそのままに放置しておけば、炎のようにその人だけではなく他にも燃え広がるのです。
キリストの十字架の死の力を受け入れること、悔い改めなければ罪は死なないのです!

エクレシアの中では互いに愛をもって真理を語りましょう!
あの時、あなたが指摘してくれて本当に助かりました!と天国で喜ぶものになりましょう。
教会の中が今は楽しく、居心地が良くても、天国に行ったら真理に歩んでいない、ただ罪を覆い隠す偽りの関係だったと嘆かないようにしましょう。

聖霊に満たされて、互いに愛をもって真理を語りましょう!