「人生の目的を探る旅(1)」
マタイによる福音書25章14節から30節
牧師 小林智彦

【明確な目的のある人生と目的のない人生】

11月4日(土)からパーパス・ドリブン・ライフ(人生を導く5つの目的)を用いた、勉強会を始めました。アメリカでは3000万部も売れている大ベスト・セラーです。

自分の人生を責任を持って生きようとするのなら、必ず人生の目的について考えます。

明確な目的の無い人生は、無責任で問題のある人生と言えるでしょう。
なぜなら人生には様々な問題が起きますが、明確な目的の無い人は、問題の処理だけに追われて人生を過ごします。人生の責任を回りのせいにして、被害者意識を持って生きます。
「私の人生がこうなったのは、あいつらのせいだ!」
もしくはたとえ成功したとしても「私の人生は幸運に恵まれていた。ラッキーだった」。
これは他人任せ、偶然に大切な人生を任せた無責任で問題のある人生です。

このような生き方には人間的な成長や成熟は望めません!
他人中心、状況中心の生き方で、自分が生きているのではなく振り回されているだけです。

明確な目的のある人生は、主体的で問題の無い人生、満ち足りた人生と言えるでしょう。
もちろん明確な目的を持った人にも同じく人生には問題が起こります。
問題の無い人生などはあり得ないからです。
しかし、明確な目的を持って人生を歩む人は、問題から学ぶことが出来る人です。
失敗に関しても、ついてなかった!とか不幸だった!で済ませずに、次に成功するための大切な教訓とすることが出来るのです。
このように目的を持って生きる人は問題に振り回されず、それを成長の糧にします。
明確な目的を持って生きる人には人間的な成長と成熟があります。
そして自分の人生を確かに生きている!という充実感、充足感があります。

人生には明確な目的が必要です!
目的地を知らないのに旅をする人はいません。それは旅ではなく放浪です。
目的地が明確だからこそ、たどり着くまでの道のりに意味があり、辛さも報われるのです。
人生の明確な目的を持ちましょう!

【人生の真の目的は神の中にある】

パーパス・ドリブン・ライフ(人生を導く5つの目的)の一番最初の言葉は印象的です。そして一番大切です。この言葉を受け入れるか受け入れないかで人生は大きく変わります。
何と書いてあるのか?こう書いてあります。

「人生はあなたが中心ではありません」

自己中心は良くないと私たち日本人は考えていると思います。
それじゃ自己中心じゃなかったら何中心なのでしょうか?他人中心ですね。
もしくは会社中心、グループ中心が日本人の考え方です。

強いグループ中心、会社中心の考え方はイジメを産み出す考え方です。
ここでは個性が認められず、個人の責任が重視されない無責任な生き方になります。

それならばやはり個人主義のアメリカのように、自分中心に生きるのが良いのか?
これは私の考えですが、他人中心に生きるよりも自己中心に生きた方が良いです。
これは比較ですが、自己中心の方が責任の所在がハッキリしているので成長があります。しかし自己中心の生き方には孤立化すること、独善に陥るなどの問題もあります。

自己中心よりも他人中心よりも優れた生き方があるのです!「神中心の生き方」です。
神を中心にする生き方こそ、最も優れた生き方です!

ただ、この神とは偶像の神ではありません。
人間が自分の手で造り上げた偶像には何の意味も目的もありません。いのちがないのです。こんな愚かな偶像を中心にしたら、最も無意味な人生で終わってしまうでしょう。

私たちが中心にする神は、私たちを造られた神!天と地とそれに満ちる全ての物をお造りになった創造主なる唯一の神です。

創造主なる神は私たち人間を確かな計画と目的をもって造られたのです。
私たち人間は自分自身で発生し、進化したのではありません。神の被造物なのです!
だから私たち人間の生きる真の目的は私たちの中にあるのではなく、造られた神の中にこそあるのです!

ここに一両の電車があるとします。私たちは電車が何に使うのかその目的を知っています。
しかし、初めて電車の車両を見る人はビックリするでしょう。大きな家かと思うかもしれません。そして住みにくい家だなと思うでしょう。下に車輪が付いている意味が分かりません。中にたくさんのイスがある理由も分かりません。

造られた物というのは、それを見ているだけでは何のために使うのか分からない物もあります。それを造った人が、その目的を明らかにしなければ分からない物もあるのです。
そして造られた物は、造った人がその目的に従って使用する時、一番効率の良い働きをするのです。

電車を家として住んでも、あまりよい使い方ではありません。道路の上を走らせても、動きません。電車は大勢の人を乗せて、線路の上を走る時一番良い働きをするのです。

私たち人間も被造物なのです!私たちの一番良い生き方は、私たち自身をよく観察したり、考えても最善の目的は分からないのです。

ある人は私たちの優れた脳を、つまらない知識で満たすことだけを目的としています。
また私たちの体をつまらない争い、間違った快楽のために使います。
ある人は自分の優れた心を人を憎んだり、恨んだりするために使っています。

創造主なる神は私たちを目的を持って造られました!
私たち人間の生きる目的は、創造主なる神の中にあるのです。
聖書は神の定めた目的から外れた目的に向かって生きる人生、的はずれの人生を罪と呼んでいます。罪とは神の目的を知らず、もしくは目的に背いている生き方なのです。

聖書の罪はハマルティアー(ギ)です。アーチェリーの競技で、矢が的からどの位離れているかを表すことばがハマルティアーです。そしてそれが罪を表すことばとして用いられたのです。

聖書は神の言葉です。人間を創造された神は聖書の中に人間の目的を書き記して下さいました。私たちは聖書の中に人間の真の目的を見いだすことが出来るのです。

【神が定めた目的に生きる人生は満ち足りて安全】

自分の人生の目的を自分で決められないことに対して抵抗を覚えるかもしれません。
しかし、それは私たちを造られた神の御性質を知るのならばその抵抗は無くなります。
神の性質は義と愛です。完全に正しい神が愛を持って私たちを目的を持って造られました。そして神は私たちが神の目的に従うか従わないかの選択が出来るように自由な意志を与えられました。神は確かな目的を持って私たちを造られましたが、従うか従わないかは私たちの選択なのです。

神の目的に生きることは私たちに安全を保証します。
鳥のようになりたいと目標を持つことは勝手ですが、崖から飛び降りた瞬間に私たちはそれに伴う責任を刈り取ることになります。
神の目的は私たちを滅ぼしたり、惨めにさせたり、空しく生きることではありません。

イエスさまは言われました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネによる福音書10章10節

神の目的を目指して生きる人生は満ち足りた安全な人生を保証します!
欠けたところのない、充ち満ちた生涯、永遠に続く生涯を保証するのです!

砂利道の上や泥沼の上を進む電車を考えて下さい。何かが間違っていますね。
堅い線路の上を軽快に進む電車を考えて下さい。これが神の目的に従って生きることです。

【神が私たちに与えた人生の目的】

それでは神が定めた人生の目的とは一体何と聖書は私たちに教えているでしょうか。

「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」:創世記1章26節

神が人間を創造された目的は、人が神に似た者になること。
そして神が造られた被造物を管理(支配)することです。

私たち人間の生きる目的は、パウロの言うように「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現しなさい」(:第一コリント10章31節)です。
私たちの生き方が神の性質を帯びること、何をするにも神に似ることです。
その神とは人となって来られたイエス・キリストです。

イエスは目に見える神、私たちの人生の模範として地上で私たちと同じように生きられました。イエスこそが私たちの神であり、彼に似ることこそ人生の目的なのです!

一番最初に朗読したマタイ25章の箇所を思い出して下さい。
私たちは目を覚ます必要があります。これはイエスさまも良く注意している言葉です。
私たち人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっています。(ヘブル人への手紙9章27節)

イエスを救い主、主と信じ告白する者は永遠のいのちを受けるのかそれとも永遠の滅びに進むのかの裁きではありません。イエスの十字架の死と復活を明確に信じる者には、この裁きはありません。なぜならイエスの十字架の死と復活を受け入れることが既に神の裁きを受けたことと同じだからです。私たちの古き人は既に滅ぼされたのです。

途中で主イエスへ信仰を捨てたので無ければ、永遠の滅びにクリスチャンが定められることは決してありません。これは神の御子のいのちを持って結んで下さった約束です!

しかしクリスチャンに対しても私たちがどのように人生を歩んだのか、神からの評価を受けることが定められています。これは私たちが真剣に向き合わなくてはならないことです。

何が評価されるのか?それは神が私たちに定められた目的に従って評価されます。
私たちの人格と品性がどの位、イエス・キリストに似た者となったか?
どれほど、私たちの心がイエスさまのように成長し、成熟したか?です。
私たちの人格がキリストに似ることが実を結ぶことなのです!
その人格の実を天の父なる神は何よりも喜んで下さるのです。

何を成し遂げたか?ではありません。それをするにあたっての心の態度の方が天の父には大切なのです!神に喜ばれ、用いられた聖書に出て来る人物も人間的に偉大なことを為し遂げた人はそれ程多くはありません。預言者エレミヤは偉大な預言書を残しましたが、人間的に見るならば、彼は当時の王様や民衆からは憎まれ、迫害されていました。
しかし、エレミヤの生き方、心の態度こそ、今の私たちに影響を与え、天の父も喜んでおられるのです。私たちの人格がイエスに似た者になるのか?それが評価されるのです。

私たちが大教会を建て、大会社を造り、社会的に大事業を行っても、それら人の手による物はやがて天と地と共に滅びて無くなるのです。
いつまでも無くならないものは御言葉によってイエスの人格へと変えられた私たちの魂なのです!天の父は世の終わりの日に、私たちの霊を実として刈り取られるのです。
その時主からの報いが一人ひとりの心に与えられるのです。

しかし、私たちがイエスを受け入れても、途中で歩みを放棄したらどうなるでしょうか?
イエスに似た者に変えられる!この目的を見失い、私たちの心が以前として古き人のままならどうなるでしょうか?怒りと憎しみ、不平と不満に満ちた苦々しい心だったら、天の父は喜ばれるでしょうか?

そのような心を持って永遠を生きるとしたら、何と永遠は私たちにとって苦痛になるでしょうか?だから私たちは目を覚まして、自分の進むべき道、そのゴールを見つめなくてはなりません。この人生は私たちが中心ではないのです!特にクリスチャンである私たち、既にイエスのいのちによって神の物に買い取られた私たちにとってはそうなのです!

また、もう一つの評価の基準があります。

それは私たちに管理を任せられた物を、私たちがどのように用いたか?です。
私の体も私のいのちも、能力や時間、お金、それらは全て神から借りている物です。
管理を任せられているのです。全ては天地を造られた神の所有物です。
私たちはそれらを神の目的のためにどのように運用したのかを評価されるのです。

この真理を忘れて、自分に任せられた物を全部自分の物として浪費するなら、神から厳しい評価が来るのです。もう一度言いますが、私たちの肉体も、いのちも、時間もお金も能力も、全て神が私たちに貸して下さっている物なのです!借り物なのです。
神が私たちを信頼して神の目的に従って運用するように任せて下さっている物です。

私たちが神の目的に従って相応しく用いるのなら、神は更に優れた物を永遠の世界で任せて下さるようになります。この世は永遠の世界に入る前のトレーニングなのです。

そして私たちにはそれぞれ異なる賜物が神から委ねられています。
ある人は教える賜物、指導する賜物、音楽の賜物もあります。伝道の賜物もあります。
預言する賜物もあります。皆さんにそれらが豊かに与えられているのです。

自分に神が委ねておられる賜物を知りましょう!それを豊かに用いることを通して、更にイエスに似た者に変えられていきましょう。

賜物を用いれば用いるほど、神は栄光を受けられ、教会は建て上げられていきます。
そして賜物を積極的に用いる物は、それを通してイエスに似た者に成長します。

私の例で恐縮しますが、私には説教の賜物が与えられています。
自分で自分の賜物はこれです!と言うのは、決して傲慢ではありません。
私は説教することが好きです。情熱があります。情熱は賜物を見分ける際の大切なポイントです。また説教を準備すること、説教すること、疲れません。これもポイントです。
また、確かに人々の信仰を引き下げるよりは、高めています。実を結んでいます。
これも大きなポイントです。

私は説教をすることで、神さまに鍛えられました。人の前に立つことの緊張をどう乗り越えるのか?文章をどのように作るのか?これらは賜物を用いることを通して、神が私を鍛えて下さったのです。
賜物は用いれば用いるほど、その人の信仰を強め、賜物を増し加え、また人格に成長をもたらします。そして結果として神の栄光が現されて行くのです。

良く聞いて下さい!皆さん一人ひとりに賜物が与えられています!これは真実です。
神はあなたに委ねた大切な賜物をどのように用いたのか、それを問われるのです。

知りませんでした!私には賜物がありませんでした!と言う答えは出来ません。

皆さん、自分に与えられている賜物を知り、それを活用しましょう。
これも人生の目的の大切な一つなのです。