「群衆と信仰者」
ルカ8章40節から56節
牧師 小林智彦

このルカ8章40節から56節の記録の中には、癒された二人の人が登場します。
会堂管理者ヤイロの娘と、十二年間も病を患っていた女性です。
この記事の前の部分はイエスさまが弟子たちを伴ってガリラヤ湖周辺を伝道のために訪れていました。その伝道旅行から帰ってこられたのです。
群衆はイエスさまを喜んで迎えたとあります。(40節)
群衆の中にも病を患う多くの者がいたのでしょう。皆イエスさまに病を癒してもらいたいと願った。イエスに癒してもらいたいと多くの人がイエスさまのもとに詰め寄せた。
しかし、その群衆の中で癒されたのはヤイロの娘と長血を患っていた女性の二人でした。

もちろんイエスさまは他の大勢の者も癒されたと思います。
しかし聖霊がルカを通してスポットライトを当てているのは、群衆の中でこの二人です。
神はこの二人の癒しの記事から、私たちに信仰とは何かを教えようと願っているのです。

敢えて強調して言うならば、群衆か、それとも神の前に立つ信仰者になるか?の違いがこの記事の中に書かれているのです。

群衆は神に覚えられることはありません!
また群衆は神とその業を見ても、認めることが出来ません。
ただ信仰者だけが神に覚えられ、神とその業を認めて、神を誉めたたえるのです。

ヤイロの娘の癒しと長血の女性の癒しはマタイ、マルコ、ルカに全て書かれています。
そして、ヤイロと長血の女性の癒しは別々ではなく、全て一緒に書かれています。
これはヤイロと長血の女性には共通する信仰者の姿勢が見られるからです。
そして、この信仰者の共通する姿勢は群衆には見られないものなのです。

神の前に群衆として見られのか、それとも信仰者として覚えられのか?
私たちはヤイロと長血の女性の信仰から、群衆と信仰者を分ける真の信仰について学びましょう。そして、私たちも神に覚えられ、神を知る信仰者にますます成長しましょう。

【足もとにひれ伏すヤイロ】

「するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。」(41節)

ヤイロはイエスを探していました。そして見つけた時、足もとにひれ伏したのです
群衆はイエスを歓迎しました。待っていました。しかし、探していたのではありません。
群衆はイエスを喜びましたが、足もとにはひれ伏しませんでした。

ヤイロは会堂管理者でした。アパートやマンションの管理人とは違います。
会堂とはユダヤ教の教会、シナゴーグのことです。管理者とは責任者という役職です。
つまりヤイロはユダヤ教の会堂、シナゴーグの責任者、牧師のような働きをしていました。
とても社会的な地位が高い人物でした。

ユダヤ人が足もとにひれ伏すと言うことは通常では考えられないことです。
礼拝について学んだ時に分かち合ったように、ひれ伏すとは礼拝行為を表すからです。
人間を礼拝することは唯一の神を信じるユダヤ教徒には考えられないことだからです。

ヤイロはイエスを神の一人子として信じていたのです。
また人の目を気にせずに、自分の神の前にひれ伏しました。シナゴーグの責任者としての立場を失うことも恐れず、イエスの足もとにひれ伏したのです。

群衆はイエスを喜びました、問題を解決して欲しい、病気を癒して欲しいと願いました。しかし、イエスの前にひれ伏すことをしませんでした。
群衆はヤイロのようにひれ伏すことで失う物は無かったのに、ひれ伏しませんでした。
もしかしたら自分のプライドを失うことを恐れていたのかもしれません。
そこまでするのなら、他の癒し手を探すほうが良いと思っていたかもしれません。

それが群衆です。自分に仕えてくれる神は求めても、自分で探し、ひれ伏す対象としての神は求めないのです。

ひれ伏すことは礼拝を意味しています。そして、ひれ伏すことは神の前に自分は無力であることの表明なのです。神に全てを明け渡す信仰の表明なのです。

ヤイロは娘の病気に関して、自分は無力です、何も出来ませんと神の前に表したのです。彼は社会的な地位があるにも関わらず、人々の前でイエスのもとにひれ伏しました。
ヤイロは本当に謙った人でした。謙遜な人物だったのです。
神は謙遜な人物を愛します。神は謙った人を覚えられます。

「自分は神無しでも本当は大丈夫だ!」それが群衆です。
「私は神無しには生きられません!」これが神の前に覚えられる信仰者です。

主の前に自分は無力であることを表しましょう。それが信仰者としての態度です。
主の前にひれ伏して祈りましょう!(形式的になってはいけませんが)

謙った者の祈りを神は聞かれます。群衆がイエスを取り巻いていても、イエスが向かった先はヤイロの家でした。謙遜な者の上に神の力は臨まれ、向かうのです。

【長血の女性の信仰】

十二年間も婦人病を患っていた女性は群衆の中で揉みくちゃにされながらも、イエスはこの女性に気付きました。イエスの力は群衆全てではなく、この女性のみに流れました。

この女性と群衆では何が違っていたのでしょうか?
群衆には信仰が無く、この女性だけが信仰を持っていたのです。信仰の違いでした。

この女性もヤイロと同じで、イエスを探していた女性でした。
マルコによる福音書には、この女性の信仰がどんな信仰なのか詳しく書かれています。

「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』と考えていたからである。」マルコ福音書5章27.28節

新改訳の欄外の注には「考えていたから」は直訳では「言っていた」になっています。
長血を患っていた女性はイエスのことを見る前から、癒される前から信仰を持ちました。
そしてこの方なら必ず治して下さると考えたのではなく、言い続けたのです!

信仰は口にすることが大切です!パウロも「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と言ってます。「イエスは主です」と口で告白する者が救われるのです。
旧約聖書には「わたしは主、あなたをいやす者である」とあります。
この女性は「イエスこそ主!わたしを癒して下さる方」と告白し続けたのかもしれません。

この告白こそが、群衆とこの女性を分けたのです!
神への信仰告白こそ、神の力をダイレクトに伝える管です!
この管が無ければ、いくら物理的にイエスに触れていても、神の力は流れないのです。

「イエスは主!イエスは救い主!イエスは癒し主!」と心で信じ、口で告白する者だけが、本当の意味で神に触れることが出来、その者に神の力は流れ込んでくるのです!

群衆のイエスへの理解は「癒しの力をもったユダヤ教のラビ、ローマからイスラエルを独立させる実力のあるリーダー」ぐらいにしか考えていなかったのです。
「イエスに触って、何か気分が良くなったり、健康に成れたらラッキー」ぐらいにしか考えていなかったのです。そしてこの群衆に神の力が注がれることはありませんでした。

イエスはこの長血が癒された女性にこのように言っています。
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」(48節)

私たちも神の力を受ける、告白の信仰を持ちましょう!

ただ、無意味な告白は全く意味がありません。
聖書の約束に基づいて、正しい信仰を神に告白し続けましょう。

イエスはまた別の箇所でこう言われました。
「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」マタイ8章13節

「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」:マルコ11章24節

自分の信仰を神と人に告白しましょう!神はその通りに、私たちに接して下さるのです。

【群衆と信仰者の違い】

ここまで群衆と信仰者の違いを見てきました。
信仰者は神を求め、自らイエスを探している者でした。
また信仰者はイエスにひれ伏し、礼拝する者でした。
そして信仰者はイエスが主であること、癒し主であること、救い主であることを告白する者、告白の信仰を持つ者であることを見てきました。

そしてヤイロも長血を患っていた女性にも共通するのは、彼らは癒される前に、奇跡を体験する前に、これらの信仰を持っていたことです!
奇跡を体験したら、もう信仰ではなくなるのです。奇跡的な癒しを体験してからでは、信仰ではなくなるのです。信仰はそれが起きる前から既に起きたと信じるのが信仰です。
目に見えるものを更に信じる必要は無いからです。

ヤイロは目に見える現実はますます厳しくなりましたが、信仰を手放しませんでした。
イエスが家に来る前に、娘が既に死んでしまった知らせを彼は聞きました。
病ですら治すのは大変なのに、死んでしまったら絶望しかないはずです。

しかし、主イエスはヤイロを励ましました。
「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」(50節)

現状はどうであれ、信仰だけは手放してはなりません!
それが神と私たちを結ぶ唯一の接点だからです。
現状はどうであっても、この一点で神と結びついているのなら希望はあるのです。

しかし、群衆は違いました。群衆には信仰が無いのです。
現実にだけ、目に見えるものだけに振り回されるのが群衆です。
イエスを歓迎し喜んでいた群衆は娘の死を聞いた時に、イエスをあざ笑いました。

しかしイエスの励ましを受けて信仰を手放さなかったヤイロは、娘の死という最悪な出来事の中に、ついに神の栄光を見いだしたのです。イエスは娘を生き返らせたのです。

イエスは最後にヤイロに向かってこのように言ってます。
「イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。」(56節)

なぜこのようなことをイエスは命じたのでしょうか?
こんな驚く奇跡が行われたなら、イエスが神であることの証拠です。
群衆に向かって大声でイエスは娘を生き返らせたと言えば、もっと大勢のものが信じると私たちは思います。しかし、そうではないのです。

奇跡を体験してから信仰を持つものは希なのです。見てから信じる人の方が少ないのです。
信仰のない群衆は生き返った娘を見ても、娘が死んだことを疑うでしょう。

体験が信仰を産み出すことは希です。本当は逆です。信仰が神を体験させ、体験は信仰を強めるのです。信仰が無くては神を見ることはなく、神を見てもそれを認められません。

見ないで信じる者が幸いであるとイエスは教えられました。

私たちは現実だけに振り回される群衆でしょうか?それとも神のことばを信じ、目に見えない神を信じ続ける信仰者でしょうか?
目に見える現実は確かに厳しいです。日増しに悪くなる一方のようです。
しかし、イエスはヤイロを励ましたように私たちも励まして下さっています。

「恐れないで、ただ信じなさい。
             そうすれば、娘は直ります。問題は解決します。」(50節)

目に見える現実がどうであっても、信仰の一点で神に結びついているなら希望があります。私たちは多くの証人によって証されているイエスの信仰を握り続けましょう!
信じる者は神の栄光を見るのです!

いま握りしめている信仰のことばを堅く握り、告白し続けましょう!
また自分には信仰がないと思う方は、主の前にそのことも告白し、主にいのちに至る真の信仰を下さいとひれ伏して祈りましょう!