「イエスを見習う信仰生活」
聖書箇所:ヘブル人への手紙12章2.3節
牧師 小林智彦

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」
ヘブル人への手紙12章2.3節

私たちの信仰生活には様々な問題が発生します。
特に日本でクリスチャンとして生きることは、楽しいだけでは済まされない時があります。
それはヘブル人への手紙が書き送られたユダヤ人クリスチャンたちも同じでした。
日本ではクリスチャン人口はカトリックとプロテスタントを合わせて0.9%ぐらいです。
とても僅かと思いますが、ヘブル人への手紙が書かれた当時のクリスチャン人口は、もっと僅かであったと考えられます。当時はキリスト教はユダヤ教の異端と思われていました。
だからユダヤ教徒からの迫害に多くのクリスチャンたちは悩まされていました。

私たちは問題だけを見つめると、元気を失います。疲れ果ててしまいます。

そこでこの手紙の著者は視点を変えるように勧めているのです!
何処に視点を移すのですか?問題を見つめるのではなく、イエスを見つめることです!

イエスも肉体を持ち、私たちが抱える全ての問題を体験されました。
イエスは愛する弟子たちに見放され、不当な裁判に掛けられ、十字架に付けられました。
私たちが直面している問題以上の問題をイエスさまも体験されているのです。

だから!イエスは信仰の創始者であり、完成者なのです。
イエスは私たちの実際の信仰生活の最高の模範です。
だから「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。」と勧められています。

初代教会のユダヤ人はイエスを神と信じることで大きな迫害を受けました。しかし、その迫害の苦しみをイエスは既に受けておられたのです。
その苦しみを通して、イエスは全人類に救いと真のいのちのをもたらしました。
イエスはどのように迫害の苦しみを耐えられたのか?どのように苦難に打ち勝たれたのか?イエスはどのようにされたのか?考えてみなさいと勧められています。

私たちがクリスチャンとして生きる時に遭遇する苦難や問題は、イエスも同じように体験されました。イエスはその問題をどのように解決されたのか?
問題ではなくイエスを見上げることが、私たちに力を与え、励ましを与えます。

イエスを見上げることを忘れるなら、私たちは問題だけに振り回されます。
やがて元気を失い、疲れ果ててしまうのです。
私たちは先ず!イエスを見上げ、イエスを信仰の模範とし、イエスを見習いましょう!
イエスならどのように考えられたか、イエスなら何を第一にされたかを知るためです。

WWJD?のリストバンドが流行りました。これはWHAT WOULD JESUS DOの頭文字を並べたものです。つまりイエスさまならどうする?です。
いつもイエスさまならどうする? イエスを見上げ、イエスの優先順位を覚えるためのリストバンドでした。イエスを見上げ、イエスの優先順位を守り、それを実践しましょう。イエスを見習うものが、イエスの弟子です。

【イエスと個人礼拝】

イエスさまは神さまだから、イエスさまをお手本とするのは無理だと思われるかもしれません。確かにイエスさまと同じような奇跡を、私たちが行うことは出来ません。
しかし、イエスさまもご自分が神から使わされた救い主であることを公に示すためにだけに、奇跡を用いられました。自分のために奇跡、神の力を用いられたことはありません。

イエスさまも私たちと同じように、飢え、疲れ、悲しまれ、誤解され、問題に直面したのです。それらを避けるためにイエスさまは神の力、奇跡を用いることはしませんでした。

それではイエスさまの力は何処から来たのでしょうか?
イエスさまの宣教の力、人々を教え、導く力は一体何処から来たのでしょうか
それはイエスさまの個人礼拝を通して天の父から注がれたのです。
個人礼拝です!(ディボーション、クワイエット・タイム等と同じです)

「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。」:ルカ4章42節
「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」:ルカ5章16節
「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」ルカ6:12

イエスは群衆に囲まれ、名声が高まり、忙しい日々を送られるなかでも、天の父なる神との時間を削ることは無かったようです。
6章12節のように、12弟子を決める大切な時には山で徹夜して祈られました。
イエスの行動の原動力、それは天の父なる神との親しい交わりの時、個人礼拝を通して与えられたものだったのです。

神の子であり、神ご自身であったイエスさまですら、祈る必要があったのです!
私たちが神との親しい交わりを大切にしないで、一体どのような実を結べるでしょうか?

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」:ヨハネ15章5節

個人礼拝はイエスとの深い結びつきを私たちにもたらします!
個人礼拝を通して、イエスの愛、いのち、力が私たちの心に注がれていくのです。

【個人礼拝とは御言葉と祈りと賛美】

それでは個人礼拝(ディボーションorクワイエット・タイム)とは何かを学びましょう。

個人礼拝には大切な三つの要素があると思います。それは、祈りとみ言葉と賛美です。

〈賛美〉

私は先ず賛美から始めます。日曜日の礼拝も賛美から始めるように、個人礼拝においてもまず賛美から始めます。イエスの十字架の賛美をします。イエスを誉めたたえる賛美をします。イエスの愛と恵を賛美します。

賛美の聖書的な意味の中に、神を大きくすると言う意味があります。
確かに賛美すると、イエスの愛と恵、十字架での赦しが大きく大きく示され、満たされ、心の中に神への思いが満ちあふれてきます。感謝と喜び、そして神への愛も満ちます。
ダビデがどんな時にも賛美したように、賛美は個人礼拝でも公の礼拝でも大切です。

賛美は神を近くに覚えることが出来ます。
賛美は私たちの感情を神に向かって開きます。
賛美は私たちに肯定的な気持ちを引き出し、平安と喜びを心に満たします。

私は23才の時にブラジルに短期宣教に行きました。ブラジルのアマゾンではテレビもラジオもなく、また現地の人もポルトガル語を話すので話せる人もなく、一日中とても退屈でした。そこで私は賛美テープで一日何時間も賛美し続けました。
主への賛美が孤独を癒し、また宣教への情熱と力になりました。
賛美のCDやテープを用いて、皆さんもイエスを賛美しましょう!

問題を見つめ続けるなら、疲れ、やがては元気を失います。
イエスを見上げることです。イエスを心の中に大きくすることです。賛美です。
賛美は私たちの疲れを癒し、元気を与え、問題に取り組む勇気と力を与えます。

〈祈り〉

私は賛美した後に祈ります。賛美のなかで充分にイエスの十字架の死と復活を覚え、イエスの愛を賛美しているので、自発的に自らを神に捧げる祈りをします。
献身の祈りです。

私は主の祈りの最初の部分は献身の祈りだと確信しています。
主の祈りは「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。」ですね。
もちろん、これはとりなしの祈りでもあるのですが、私は自分の献身の祈りとして祈っています。

「天のお父さん、御名があがめられるために私を用いて下さい。神の国の拡大のために私を用いて下さい。天で父の御心が行われるように、地上であなたの御心を行わせて下さい。」と、私は祈っています。

祈りがマンネリ化したり、同じことばをただ繰り返すことは良くないことで、イエスさまも禁止しています。でも私はこの祈りをいつも心を込めて祈り続けています。
献身の祈りと私は思っています。そして、天の父の心と同じ思いを持つための祈りです。

私はこの祈りの後に、神の御心を求める祈りをします。
「今日、私がすべきことを教えて下さい」と祈ります。「御心を示して下さい」と。
そして示された神の御心を行うことが出来るように、力を与えて下さいと祈ります。

聖書にはこのように書いてあります。第二歴代誌16章9節。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」

天のお父さんの願われることを一心に求める者には神の力が宿ります!
神の願われることを一心に求め、それを行う力を求める者には神は豊かにそれを与えて下さいます。「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい」とイエスは教えています。

そして個人礼拝において切に祈り求めるものは聖霊です。

「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」ルカ福音書11章13節

私たちが日々満たされなければならないものは神の霊である聖霊様です!
聖霊様に満たされることなくしては、何の意欲も情熱も忍耐力も生まれません。
聖霊様は私たちがイエスさまに似た者に変えられ成長するための原動力です。
しかし、聖霊様は自動的には心の中に来られません。「求める人たちに」だけです。

自分の力だけで何とかなる!また聖霊が与えられる確かな約束があるにも係わらず、聖霊を忘れる者にも聖霊は注がれません。意識的に求める者に聖霊様は来られるのです。

しかし、それは修行や努力とは違います!
ただ、心を開いて聖霊様、どうぞ今日も私を満たし、導き、力を与えて下さいと謙遜に、謙って求めるだけです。私たちを満たし、導き、励ますのは神の聖霊の願いだからです。
神は私たち以上に、私たちが聖霊で満たされることを願っておられるのです。

〈御言葉〉

賛美し、祈り、聖霊に満たされてから聖書を読むと、全く聖書が違って読めます。
聖書を読んでいるうちに、別のことを考えたり、眠くなる人はいませんか?
また聖書を読んでいるうちに裁かれた思いや、否定的な思いが出てきませんか?
それは私たちの理性だけで聖書を読んでいるからです。
もちろん聖書は理性で読まなければなりません。しかし、聖霊の助けが無ければ私たちの限りある理性は聖書を本当の意味で読み解くことは出来ないのです。
聖霊の導きと助けのなかで聖書を読むなら、神のことばは私たちの霊と魂の糧になります。

イエスさまも朝早く起きて、天の父なる神との親しい交わりの時を持ちました。
イエスは私たちの模範です。私たちも日々、個人礼拝を通してイエスを見上げ、献身の思いを新たにして頂き、聖霊に満たされ、御言葉を行う者に成長しましょう。