「いったいこの方はどういう方なのだろう」
聖書箇所:ルカによる福音書8章22節から25節
牧師 小林智彦

【イエスとともに歩む弟子にも危機は訪れる】

「ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、『先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。』と言った。」(23.24節)

この弟子たちの中にはガリラヤ湖の漁師たちがいました。ペテロ、アンデレ、ヤコブにヨハネです。彼らは船の扱い方、湖の状況などについては知り抜いていたはずです。
そんな彼らが「私たちは溺れて死にそうです」と訴えた状況は正に危機的であったのです。

このことから私たちは、イエスを信じ、イエスとともに行動していた弟子たちにも危機的な状況が訪れることがあることを知ります。

クリスチャンになったら問題が起きない。クリスチャンになったら病気にならない。
残念ながら聖書はこのようなことを約束していません。

問題が起きたり、病気になった時、自分の信仰が足りないから、もしくは自分がダメなクリスチャンだからと自分を責めてはいけません!

信仰が足りないから問題が起きたり、病気になるのではありません。
ダメなクリスチャンだから問題が起きるのではありません。
神を愛し、忠実にイエスに従うクリスチャンにも問題は起きることがあるのです。
残念なことに病気に罹ったり、災害に出会い、気落ちすることもあるのです。

聖書の中には立派な信仰者であるにもかかわらず大変な不幸に見舞われたヨブや、神を熱烈に愛し、信仰者の見本であるダビデも家庭に問題を抱える人でした。

信仰は問題のない人生、苦しみや病気の無い人生を保証するものではないのです。

だから「神が私を愛していないから不幸が起きる、神は私を愛していない。」
また、「悔い改めていない罪があるから不幸が起きるんだ、不幸が来るんだ。」
このような考えを捨てましょう!
これは苦難の時、自分を責め、苦しめ、いっそう気落ちさせる考え方です。

イエスが愛し、イエスが弟子と選ばれた者たち、彼らがイエスと一緒だった時に生命の危機的な状況が訪れたのです。

苦難の訪れと信仰がないことを一緒にするのを止めましょう。
神に愛されていないから不幸が訪れるのでは決してありません!

いま困難な問題に直面している方がいるなら、また病気や様々な煩いによって落胆している方がいるなら、どうぞ確信して下さい!
あなたは神から愛されています!神の前に価値があり、尊い存在であることを。

【なぜ苦難や問題は神を信じる者にも訪れるのか?】

それならばなぜ苦難や問題は神を信じる者にも訪れるのでしょうか?

まず聖書がハッキリと教えていることは、苦難は永遠には続かないと言うことです。
たとえそれが罪から来る裁きの結果であっても、必ず苦難には終わりがあります!

イスラエルが不信仰のために荒野でさまよい歩いたのも40年と定められていました。
同じく不信仰のためにバビロン捕囚が起こりましたが、70年と定められていました。
このようにたとえそれが罪の結果であっても、苦しみの期間はいつまでも続かないのです。

苦しみには必ず終わりが来る!どんな苦難にあっても、私たちはこのことを覚えましょう。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」:第一コリント10章13節

神は真実ですから終わりのない苦しみや苦難を与えることは決してありません!
必ず苦しみには終わりがあり、問題には解決が訪れます!

また聖書がハッキリと教えていることは苦難や問題は偶然に起こるのではなく、意味と目的があると言うことです。


確かに自然災害や痛ましい事故に意味や目的があるのか私たちには分かりません。
どのような意味と目的があるのか?天に帰る日まで隠されていることもあると思います。

しかし神を信じる者には求め続けるなら、必ず神はその苦難の意味を明らかにして下さると私は確信します。聖書には以下のように書かれてあるからです。

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
:ヘブル12章11節

ヨブの試練もたまたま偶然に起きたのではなく、神がそれを許されたのです。
神がヨブを苦しめたのではありません。それはサタンでした。しかし、神がヨブが試みられることを許されたのは、ヨブがこの苦難を通してさらに優れた成長を遂げることを知っていたからでした。苦難には意味があるのです!

私たちは苦難にある時、神の愛を疑ったり、自分を責めたりせずに、苦難の意味を神に求めましょう!神は聖書を通し、また祈りの中に必ず答えを与えて下さいます。

イエスもこのガリラヤ湖の嵐という危機的な状況を通して、弟子たちに知って欲しいことがあったのです。

【イエスが弟子たちに知って欲しかったこと】

「イエスは彼らに、『あなたがたの信仰はどこにあるのです。』と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。『風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」(25節)

イエスが弟子たちに知って欲しかったこと、それは信仰でした。
そしてその信仰とは、いつも一緒におられるイエスが一体誰なのか?それを知ることです。信仰とはともにおられるイエスが一体どういうお方であるのかを正しく知ることです。

弟子たちはイエスが自然界を命じただけで従わせることが出来る方、すなわち自然界を創造され支配しておられる方であることを知りませんでした。

イエスがこの危機的状況を許されたのは、弟子たちがイエスに対する正しい認識と信仰をもつためだったのです。この嵐を静めることは三つの福音書に出て来る話です。
それ程、弟子たちにとっては強い印象が残る出来事でした。

私たちは神さまについて、話しを聞いたり、頭で理解するだけでは本当はよく分からないのです。しかし、体験する時、その知識はいのちを持った信仰に変わるのです。

苦しみを通さなければ得られない神への信仰があります。
問題を経なければ分からない、神の御心があります。
危機的状況を経なければ分からない、神の力があるのです。

私たちは、私たちを愛して下さり、どんな苦しみの中でも私たちを離れず、いつもともにいて下さるイエスさまがどのような方であるのかを知りましょう。

イエスへの正しい認識、イエスへの信仰が嵐の中でも私たちの心に平安と確信を与えます。

そしてイエスがともにいるのなら、必ず嵐は過ぎ去ります!
危機は迫っても、イエスがともにいるのなら私たちは安全です!