「真の礼拝者たち」
牧師 小林智彦

【人生の目的は神を礼拝すること】

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
ヨハネによる福音書4章23.24節

天の父なる神様が求めているもの、それは霊とまことによって礼拝する真の礼拝者です。天の父なる神は真の礼拝者を求め、私たちがそのようになることを願っているのです。
神はまことの礼拝を私たちに求め、私たちも神を礼拝するために日曜の朝に集まります。

礼拝は大切なことです!なぜなら天の父が私たちに求めているものだからです。

イザヤを通して神はこのように語られています。

「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」イザヤ43章21節
これは、新改訳聖書の訳ですが、口語訳聖書ではこのように書いてあります。
「この民は、わが誉を述べさせるために/わたしが自分のために造ったものである。」

神が私たちを選び、救われたのは神の栄光を現すためであり、礼拝を捧げるためなのです。
私たちが神を礼拝するために、救われ、集められたことは私たちの特権です。
神は価値が無いものの礼拝は受けられません。動物は神を礼拝することが出来ません。
神はご自身が作られた最高の者からの礼拝を喜んで受けられるのです。

動物は神を礼拝することが出来ませんが、霊を持つ天使たちは神を礼拝します。
天使には位があるようですが、最高位に属する天使ケルビムは神を礼拝する天使です。
そして神の御子イエスさまも天の父を心から礼拝しました。

私たちが神を礼拝する者に相応しいと神が選んで下さったことを喜びましょう。
そして御子イエスのように、天使ケルビムのように、熱心に神を礼拝しましょう。

私たちは神を礼拝するために創造され、生まれたのです!礼拝こそ、人生の目的です!
私たちが真の礼拝者になる時、人生の目的は完成します。それは心の底から充実感を与え、満足を与え、平安を私たちの霊に与えます。なぜなら存在の目的に生きているからです。
神を礼拝する以上に満たされる人生は、私たち被造物としての人間にはあり得ないのです。
私は確信を持ってこのことを語ることが出来ます。

【礼拝とは具体的に何か?礼拝の意味】

人生の目的である礼拝。それでは礼拝とは何でしょう、具体的に何をすることでしょうか?

礼拝を礼拝式だけに限定してはいけません。礼拝式とは大抵は日曜日の朝に持たれます。もちろん、土曜日でも、月曜日でも、日曜日以外でも礼拝式は持てます。
しかし、礼拝とは礼拝式だけに限定されるものではなく、もっと広くて大きいものです。つまり礼拝とは私たちの人生そのもの、生き方そのものが礼拝になり得るのです。

【礼拝の聖書的な四つの意味(要素)】

聖書で礼拝を意味することばには四つの意味があります。

@拝むこと。(ひざまずく、お辞儀をする、求める)具体的には祈り。
A仕えること。(神に仕え、人に仕える)、具体的には賜物を用いた奉仕。助けること。
B捧げること。具体的には、賛美を捧げること、み言葉に対する決意を捧げること、時間を捧げること、献金すること、心と体、すなわち献身すること。
C信仰を告白すること。(イエスは主です!)具体的には、証しすること。

礼拝式はこの四つが全て行われることが理想です。
(参照 黙示録4章と5章の天上における礼拝には、これらの全てが含まれています。)
礼拝式は私たちキリストの体が一つに集まって礼拝することと、礼拝とは何かをいつも思い起こさせるために必要なのです。

しかし、礼拝式も大切ですがもっと大切なのは私たちの人生が礼拝になることです。
もちろん私たちの生活の中でこの四つ全てを同時に行っていくことは不可能です。
しかし、そのうちの一つでも含まれているなら礼拝なのです!

@の拝むことも、心の中で祈ることも礼拝です。電車の中でも風呂でも礼拝出来ます。
Aの仕えることも、神の似姿としての人に仕える姿勢があるなら、仕事は立派な礼拝です。子ども達の世話をすることも立派な礼拝です。困っている人を助けることも礼拝です。
Bの捧げることも、聖書を読むことも礼拝です。賛美することも礼拝です。働いて得たお金を捧げることも礼拝です。
Cの信仰告白は、イエスさまの恵を分かち合うこと、イエスの愛をあかしすること、素晴らしい礼拝です。

私たちは礼拝とは何かを理解するのなら、礼拝式に参加するだけではなく、人生そのものが礼拝になるのです!そして神は私たちの人生全てが神を礼拝することを願っています。

【真の礼拝者はイエスさま】

さて、ここからが一番大切な話しになります。
神は私たちが礼拝者になるようにと、最も素晴らしいお手本を与えて下さいました。
それはイエスさまです。イエスさまは神さまですが、天の父を心から礼拝しました。
イエスこそ、完全な礼拝者、霊とまことを持って神を礼拝する真の礼拝者です。
私たちはイエスさまを見習いましょう。

礼拝の要素、行いの面を強調して来ましたが、これだけでは真の礼拝者にはなりません。(*さらに難しい何かを要求するのではありませんので、心配しないで下さい。)

イエスさまは真の礼拝者、礼拝する人生を送られたお手本、模範です。
それではイエスさまはどうやって真の礼拝者になられたのでしょうか?
頑張って修行したからですか?一流の神学校に行って神学を学んだからですか?
イエスさまはそのようなことをしませんでした。

私たちは何かの行いによって、努力して礼拝者になれるのではありません!

イエスさまが情熱を持って心から天の父を礼拝する者になったのは、努力の結果ではなく、天の父なる神から愛を受け続けたからです!イエスは愛されたのです!
愛が私たちを礼拝者に変えるのです。努力や頑張りではありません。
父なる神に愛されたイエスは、全身全霊で神を礼拝する者になりました。

神の愛を受けること、それが私たちを真の礼拝者へと変えるのです!

【イエスとイエスの愛を知る人から愛を受ける】

人生の目的である礼拝、その礼拝を行う者になるために必要なのは努力や頑張りではなく、神からの愛です!神の愛、そして神の愛を知る人から充分な愛を受けることです。
神の愛と神の愛を知る人から愛されることを通して、私たちは神を礼拝する者になり、神と人々に仕え、神の愛を伝えるものに変えられます。

イエスの弟子たちはやがては使徒と呼ばれ、キリスト教会の基礎を築いた人たちです。
彼らも優れた礼拝者、その人生は礼拝そのものとなりました。
それでは弟子たちは優れた礼拝者、使徒となるために一体何をしたのでしょうか?

ろくなことはしてませんね!その代表格はペテロです。かれはいつもイエスさまの前で、誰が一番偉いかを議論していました。イエスさまが辛い時には隣で眠りこけていました。イエスさまが裁判にかけられた時には、一番の証人であるペテロは「こんな人は知りません」と呪いをかけて誓いました。イエスさまを裏切ったのです!

ヨハネはどうでしょうか?彼こそは神は愛である!と聖書の中に書いた人です。
そのヨハネはサマリヤ人が否定的な態度を取った時、「天からの火で焼き殺しましょう」とイエスさまに願った人物でした。彼のニックネームはボアネルゲ、雷の子どもという意味だそうです。つまりキレやすい若者だったのです。

右翼団体にも二股をかけて所属していたシモン、イエスの教えを疑い続けたトマス、名前以外に何の働きも出てこない弟子たち。

彼らはろくなをしなかった!イエスさまに迷惑ばっかり掛けていた。
しかし、彼らがイエスさまから受けたものは大きかった!
彼らはイエスさまから愛と赦しを受けたのです。考えられないくらいの大きな愛と赦しを。

一番迷惑を掛け、一番大きな裏切りをしたペテロは一番イエスの愛と赦しを受けた。

多く赦された者は、多く愛するようになる!

ペテロを始め弟子たちは、イエスの赦しと愛を受けることによって真の礼拝者へと変えられていったのです。愛と赦しが私たちを信仰者に、礼拝者に変えるのです。

イエスは聖書の中で一番大切なのは、神を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛することだと教えられました。

神を熱心に愛そうとし、隣人を熱心に愛そうとして疲れ果てている人、諦めている人、怒っている人が少なくないと思います。自分を愛することを忘れているからです。

自分を愛することが出来なければ、神も人も愛することは出来ません。
そして自分を愛することがどういうことかを分かっていません。
自分を愛するとは、イエスが愛されたように、イエスの愛で自分を愛することです。

イエスは姦淫の場で捕らえられた女性を裁かずに赦されました。
五回も離婚して、今も同棲中のサマリヤの女を裁かず赦し、彼女の乾いた心を愛で満たしました。人から不法な税金を取り立てていたマタイもザアカイも裁かず、責めず、赦されました。彼らの友になり、彼らを弟子にしました。
一番大きな失敗をしたペテロ、イエスを裏切ったペテロには一番大きな赦しと愛を与えました。三度も彼の心の傷に触れ、裏切りの傷を癒されたのです。

このイエスの赦しと愛を持って私たちは自分をまず赦しているでしょうか?

私たちは自分を愛し赦すのではなく、責め、裁いているのではないでしょうか?

人と比べて能力がない、自分はダメだと責め、裁く。
自分のルックス、自分の置かれた環境が赦せない、一番自分が赦せない!
いつも自分ではなく、他の誰かのようになりたいと思っている。
神の愛を一番妨げているのは実は自分なのです!それに気付くことです。

神であるイエスが自分を赦し、愛していることをまず受け入れることです。
イエスが赦されたように、自分を赦してあげて下さい。
イエスが愛されたように、自分を愛してあげて下さい。

神の愛を体験する時、イエスの愛を持って自分を愛する時、私たちは真の礼拝者へと変えられて行くのです。