「神の言葉に対する私たちの態度」
聖書箇所:ルカによる福音書8章4節から18節
牧師 小林智彦

「あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」
ルカ福音書8章16から18節

この16節から18節までは「種まきのたとえ」の結論です。
イエスさまたとえの中でご自分で種は神の言葉であると解説しています。
この16と17節は神の言葉は必ず私たちの心に変化を与えるのだと教えています。
神の言葉は私たちの心に光を灯し、その光は必ず回りの人にも見えるようになる。
神の言葉は私たちの思いと行動に変化を与え、隠しておくことは出来なくなる。

だから「聞き方」、神の言葉をどのように聞くのか?
神の言葉に対して、どのような態度を持って聞くのか?それが大切だと教えているのです。

神の言葉を信仰を持って受け入れる! 信仰を持って聞く態度が大切なのです!

信仰を持たないで神の言葉を聞いても、私たちの心には何の変化も実も結べません。
しかし信仰を持って神の言葉を受け入れるなら、私たちの心は変わります。実を結びます。

それでは、信仰を持って神の言葉を聞くにはどうすれば良いのでしょうか?
どんな態度をもって神の言葉を受け入れることが、信仰を持って聞くことなのでしょう?
イエスさまのたとえの中から学んでいきましょう。


【道ばたに落ちた種】

まず道ばたに落ちた種が出てきます。(5節と12節)

この種は全て神のことばをたとえています。ですから種には問題はありません。
受け止める地面の性質、それが神のことばに対する心の態度をたとえているのです。

大切な種だと思っているなら、道ばたに落ちたままにはしませんね!

お金の詰まった財布を道ばたに置いておくことはしません。
結婚指輪を道ばたに置くこともしませんね。
価値ある物は道ばたに置きません。道ばたに置いて放って置くのはゴミぐらいです。

だから道ばたに落ちた種でたとえられる心の態度は神のことばに対する無関心です。
神のことばに対して価値を認めない人をたとえています。

12節にはこう書いてあります。「あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。」

神のことばには私たちを救う力があるのです!でも、この人はその価値を認めなかった。
どうでも良いゴミのように、道ばたに置いたままにして忘れてしまった。

このように神さまのことばに無関心、また価値を認めない人は、神のことばは変化を与えることは出来ないのです。その人の心にさえ入っていないからです。

私たちは神のことばに対してどのように接しているでしょうか?
神のことばの価値を認めているでしょうか?

パウロは神のことばについてこのように書いています。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」:第一コリント1章18節

信仰を持って神のことばを受け入れるなら、神のことばは私たちに救いを与え、大きな変化を与える神の力を心の中にもたらすものになるのです。

信仰を持って神のことばを受け入れるとは、神のことばを関心をもって聞くこと、神のことばに大きな価値を認めることです。決して道ばたに投げ捨てないで下さい。

【岩の上に落ちた種】

次は岩の上に落ちた種が登場します。(6節と13節)

イエスさまはこの種が生長しなかったのは、水分がないことと試練のためと教えています。

植物が育つためには、日の光と水が欠かせません!
そして水やりは毎日やらなくてはいけません。(植物によりますが!乾燥を好むのもある)植物は水をどんどん吸い上げ、大きくて厚い葉っぱと太い茎に成長します。
すると植物は害虫に強くなり、強い風が吹いても倒れなくなります。

水やりです!これは私たちが出来ることです。天気は私たちでは変えられないからです。

それでは神のことばに対して、水をやるとは一体何を意味しているのでしょうか?

神のことばが私たちに根付く、良い習慣を持つことです。
具体的には(これは人によりますが)、
・毎日少しでも聖書を読む習慣を持つ。
・読書が苦手な人はゴスペルを詩の内容を味わいながら歌ってみる。
・歌と読書が苦手な人、聖書や信仰をテーマにしたビデオを見る。(パッション、ナルニ ア国物語、マザーテレサの生涯等々)
・クリスチャンの友人と信仰について語り合う。
・バイブル・スタディーに参加してみる。
・日曜日の礼拝に続けて来る。
・聖書のことばを書き写す。
・信仰に関する絵を家に飾る。

神のことばを心に根付かせることをディボーションと呼ぶ人もいます。
これは神さまのことばに心も時間も捧げる(ディボート)からそう呼ばれています。
そのほかにクワイエット・タイム(静かな時間、神のことばを黙想するため)と呼ぶ人もいます。いろいろな方法があります。千差万別です。どんなクリエイティブな方法があるかまわりの人に聞いてみましょう。

*習慣はとても良いものですが、人間の罪深い性質として形式化しやすいです。
だから本質を保ったまま、神さまの知恵をいただいていろいろな方法を取り入れてみることが大切です。

【いばらの中に落ちた種】

そしていばらの中に落ちた種が登場します。(7節&14節)

イエスさまは神のことばを妨げるいばらの正体について教えています。
いばらとは「世の心づかい」、つまり「人の顔色を伺うこと」であり、「富や、快楽」、これは「優先順位の狂い」を表しています。

これは一言で言うならば、神のことばを行わないことです。
神のことばを自分の人生に適用しないこと、神のことばを人生に当てはめないことです。
ここは実の部分に当たります。

神のことばは私たちがどのように生きるべきなのか、確かな優先順位、確かな価値観を私たちに教えます。これが神の国の価値観なのです。
しかし、これはこの世の価値観と大きく食い違うものなのです。

人から誉められたい、人に受け入れられたい、人の顔色を伺って生きる時、私たちは神のことばを行うことが出来ません。イエスさまに従わないで、世間様に従っているからです。そうなるといばらに覆われ、やがては実を結ばないまま枯れてしまうのです。

神のことばを守り行うか、行わないか?それは私たちの決断です。私たちの意志です。

私たちは世間から捨てられること、人々から拒絶されることを恐れます。
クリスチャンとして信仰に生きる時、親はどう思うか?親せきはどう思うか?学校のクラスメイトは?会社の同僚はどう思うか?絶えず回りの目を意識します。
これがいばらが私たちの心を塞ごうとしていることなのです。

私たちの頑張りではなく、種の中にある神のことばのいのちに私たちはゆだねましょう。頑張りで世間の目を跳ね返そうとすると、私たちは変人になります!
世間からは捨てられ、さらにイエスさまの愛の実も結べない人間になります。

神のことばの中にはいのちがあります。私たちが日々、神のことばに触れ、水をやり続け、神のことばに信頼するなら、やがては私たちの心の中で巨大な木に成長し、いばらを跳ね除け、大きな愛の実を結ぶようになるのです!

神のことばがしっかりと私たちの心の中に根付き、神のことばを守り行いたいと私たちが願うなら、いばらを恐れることはありません!

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」:第二テモテ1章7節

神のことばを守り行う力は、神の霊である聖霊から来ます。
私たちが神のことばを愛し、神のことばが心に根付き、それを守り行いたいと願う時、聖霊が大胆さを与え、神のことばを守り行う力を与えてくれます。

頑張りや努力で神のことばを行うのではなく、聖霊様の助けと力を求めましょう。

「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(15節)

皆さんが、良い地となり、イエスさまの愛の実をたくさん結ぶ者となりますように、祝福を祈ります!