「多く赦された者は多く愛するようになる!」
聖書箇所:ルカによる福音書7章36節から50節
牧師 小林智彦

【愛の大原則】

「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
:ルカによる福音書7章47節

この箇所でイエスさまは愛と赦しについて大切な原則を私たちに教えています。
私たちは愛を頭でいくら理解しても、体験しなければ愛せないと言うことです。
また愛したいと願っても、まず愛されなければ人を愛することが出来ません。

愛された人は人を愛する者になります。赦された人は人を赦せる人になります。
そして「多く赦された者は多く愛するようになる!」のです。これが原則です。

イエスをとても愛した女性が、きょう読んだ聖書の箇所に登場します。
彼女はどうしてイエスさまをたくさん愛することが出来たのでしょう?
宗教家であったシモンは、なぜイエスさまを愛することが出来なかったのでしょう?

「その理由は赦しにある!」とイエスさまはたとえ話を通して私たちに教えています。

二人の人がある金貸しから金を借りていた。一人は50万円、もう一人は500万円。
(聖書に出て来る1デナリは、当時の労働者の一日分の給料と同じ。)
そして、何と二人とも借金が返せなくなってしまった。
しかし、驚くことに金貸しは二人とも、その借金を免除してやった!

そうしたら50万円借金のある人と、500万円の借金がある人ではどちらが金貸しをより愛するようになるだろうか? 500万円借りて免除された方ですね。

イエスさまはこの原則が、人を愛することにそのまま当てはまると教えています!
「多く赦された人は、多く愛するようになる!」のです。

赦しと愛は同じです。赦された体験は愛されたことと同じなのです。

【パリサイ人のシモンは自分は赦される必要がないと思っていた】

イエスさまをたくさん愛した女性は、500万円の借金がある人にたとえられています。
そして宗教家のシモンは50万円の借金の人です。宗教家だけあって借金は少額です。
この女性は町で有名な悪女、問題のある女性だったようなので借金額は多目です。

しかし、このたとえ話のポイントは二人とも借金があり、二人とも返すことが出来なかったことにあります!
この二人とも返せなかった借金は、神に対する負債、つまり罪をたとえています。

宗教家のシモンは、神さまの戒めを頑張って頑張って守っていましたから、自分は神さまに対して負債はないと思っていた。神さまに赦される必要はないと思っていたのです。
もう自分は正しいから、神さまに対しては対等な気分です。
だからイエスさまが来られても、他の宗教家もしたように「私にもし罪があるのなら指摘してみろ!」ぐらいの挑戦的な態度でイエスさまを家に迎え入れたのです。

しかし、彼は人と比べて借金が少なかっただけで、やはり罪の負債を返せない人なのです。
頑張りと努力で神の前に正しい人、負債の無い人になれると思い上がった結果、彼は高慢で神の愛の愛を知らず、また人を赦せない人間になりました。

一方、罪深い女と思われていた女性は自分でも、自分の罪深さを良く知っていました。
彼女は自分の犯してきた罪に対して、自分では償うことが出来ないと思っていました。
無条件に赦される以外に解決はないと思っていたのです。

だから彼女は罪を無条件に赦して下さる救い主イエスに出会うことが出来ました。
イエスからその犯した全ての罪に対する赦しをいただいたのです。

私たちは神からの赦しを心から受ける時、神への愛が生まれます!
そして同じように罪を抱える人、弱さを抱える人を赦せる心が生まれます。
そして赦しは愛を産み出していくのです。

如何に自分が罪深いのか?神の赦しが必要なのか?その気付きが神に出会わせるのです。
神は私たちを無条件に赦して下さいます。
神の霊はイエスの救いを求める者の心に、赦された確信と平安を与えて下さいます。

【宗教家シモンの勘違い】

宗教家シモンは一生懸命神を求め、罪を犯さないように神さまの戒めを守っていました。
しかし、なぜ宗教家シモンはイエスが真の神であることが分からなかったのでしょうか?
イエスに対して高慢な態度を取り、結局は罪の赦しも神の愛も体験しないで、人を赦せない人、愛の無い人、失敗しないことばかりを気にする人のままだったのでしょうか?

宗教家シモンは大きな勘違いをしていたのです!
彼は神さまの戒めを守ることで、正しい人間になれると勘違いしていました。

聖書の戒めは誰一人として、完全に守ることは出来ないのです。
神さまは私たちが神を離れては生きられないこと、神の赦しと愛がいつでも必要なことを気付かせるために厳しい戒めを聖書の中に記して下さったのです!
それは私たちが神の赦し無しには生きられない者であることを気付かせるためなのです!

また宗教家シモンは良い行いを沢山することによって神に愛され、自分の罪が赦されると勘違いしていました。

神の愛は無条件です!良い行いの人も、悪い人も変わらずに愛して下さるのが神なのです。彼は神の愛を条件付けたために、却ってイエスの無条件の愛が分からなくなったのです。

また彼は良い行いによって罪が赦されると勘違いしたために、自分が神の前に罪人であり、罪の赦しが必要であることが分からなかったのです。
彼は罪を良い行いによって覆い隠しただけで、罪の赦しにはならなかったのです。
罪を赦せるのは神だけなのです!

私たちは生まれつきの罪人だと聖書は教えています。
頑張りや努力では表面は良い人を演じられても、心の中の性質までは変わらないのです。
イエスの愛と赦しが必要であることを心から認めて、イエスを心の中に迎え入れる以外に、心の中が変えられることはないのです。

自分の罪を隠すことが一切出来なかったこの女性は、直ぐにイエスさまを心の中に迎え入れることが出来ました。そしてイエスの愛と赦しがこの女性を内面から変えたのです!
彼女は自分でも気付かないうちに、心から神を愛する人に変えられました。

【イエスが与えて下さる罪の赦し】

最後にイエスが私たちに与えて下さる罪の赦しについて分かち合います。

私たちは罪とは何か?罪が何をもたらすのか?罪への罰は何か?を知るべきです。

まず、罪は私たちの心を神から遠く離れさせます。
私たちは神に似る者として神によって創造されたと聖書には書いてあります。
罪は私たちの生きる目的、生きる意味を見えなくさせ、人生を空しくさせます。

また罪は私たちの人間関係も狂わせます。愛と赦しがなく、真実のない関係になります。

そして罪は私たちの心を絶えず責めます。不完全であること、そのままでは赦されないことを絶えず私たちの魂に語りかけ、私たちの心を責めるのです。

そして最後には永遠の滅びを私たちにもたらします。
パウロは言っています。「罪から来る報酬は死です。」
しかし、さらに続けていっています。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」:ローマ6章23節

天の父なる神は私たちを罪とともに滅ぼすことを願いませんでした。私たちの罪を罪のないイエスに十字架の上で背負わせ、イエスが私たちに代わって罪の完全な罰を受けたのです。イエスを罪と罪のもたらす滅びから私たちを救う救い主として信じる者は、誰でも罪の赦しを受けることが出来るのです。

そしてイエスは死と罪を打ち破って三日目に復活しました。
イエスを信じる者は、その内面にイエスの復活による新しい命、神の子として新しい性質が与えられるのです。キリストの復活の力が罪を憎み、善を行う新しい性質を私たちに与えるのです。

善行や頑張りは私たちの表面を変えても、内面を変える力はありません。
ただキリストを信じる信仰によって、イエスの新しい命が私たちを内面から変えるのです。

イエス・キリストにある罪の赦しと新しい命が自分に必要であることを認め、イエスを心の中に迎え入れましょう!自分の行いに頼って神を退ける者であってはなりません。
自分にどれほど赦しが必要であるか?神の霊に示していただきましょう。

イエスの新しい命が、私たちに生きる意味と目的を明らかにし、人を愛する力を与えます。イエスが心の中に居られるなら、私たちの心には平安が溢れてくるのです。