「神の国はあなたがたのもです」
聖書箇所:ルカによる福音書6章20から26節
牧師 小林智彦

【幸いな人たちとは誰のこと】

「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。『貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。』」:ルカによる福音書6章20.21節

イエスは「神の国」に住む人々の幸いについて私たちに教えています。
そして、この箇所は「神の国」に入るための条件についてもイエスは語っています。
私たちの前には二つの国しかありません。「神の国」か「この世」です。

「神の国」には「この世」に絶望した人、「この世」では満たされなかった人、「この世」で傷を受け、「この世」に対して悲しみを覚える人しか入れません。

「この世」を愛し、「この世」を心から楽しみながら、同時に「神の国」を愛し、「神の国」を楽しみ、喜ぶことは出来ないのです! 注)禁欲主義を肯定しているのではない!

「この世」は聖書的な言い方です。ハッキリ言ってピン!と来ない人もいるので言い換えると「世間の目」「人の目」「世間体」とも言い換えることが出来るでしょう。

私はクリスチャン・ホームではありませんでした。だから信仰に歩む時には必ず親から迫害がありました。特に母は言いました。「何でおまえは、人と同じことが出来ないんだ!」。この「人と同じ」が聖書で言う「この世」です。

「世間の目」を第一にする人、「世間の目」には、うるさい親せきや、両親も含まれます。
「人の目」を第一にする人、いつも「人の目」を気にして、人から気に入られるように自分の思い、考えを「人の目」に合わせてしまっている人。
「世間の目」「人の目」「世間体」に仕え、自分を従わせ、そして見返りに「世間様」から誉められている人、「世間様」から喜ばれている人は、「神の国」には入れません。

「神の国」と「この世:世間様」とは水と油!
全く性質が違い、混じり合うことはないのです。

「この世」を愛する者、「この世」に愛される者は「神の国」には入れません!
「神の国」に入るものは、この世からは憎まれ、捨てられ、迫害されるのです!

ジョシーのブログを読んでいたら、会社の中でのイジメについて書かれていました。
OLたちが、誰かのうわさ話や悪口で親密感を深め、関係を作っていくことが書かれていました。日本はイジメ社会ですね。これが「この世」であり、「世間様」です。

皆さんは、どうですか?誰かの悪口を楽しみながら、関係を深められますか?
誰かをいじめることによって、人間関係を深められますか?
悪口を言い合うグループの中で、さらに悪口を言うことで、その人達から認められたいですか?イジメに加わらないと自分がいじめられる。これが「この世」、「世間様」です。

皆さんはこのような「この世」を楽しんでいますか?認められたいですか?
それとも絶望し、疲れ果て、こんな世界には生きたくないと思っていますか?
「神の国」はまさに!その人達のためにあるものです。

「この世」に絶望し、「世間様」に仕えることを拒絶した人、「この世」から傷つけられ、悲しんでいる人、「神の国」はそのような人たちのためにあるのです!

「神の国」には慰めがあります。笑いがあります。ホントの喜びがあります。

先日、私はサバイバル・ゲームをやりました。とても楽しかったです!
なぜ楽しかったかと言うと、好きな人だけが集まって、なにも考えずに遊んだからです。
皆さん、遊びはとても「神の国」に近いことです。
子供の心を持たなければ、心から遊ぶことは出来ません。
子供の心は「世間体」や「人の目」を全く気にしません。だから楽しいのです!
子供の心が解き放たれると、遊びになるのです。

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」マタイ18章3節

神の国には自分の子どもの心を大切にする人、子どもの心を回復した人が入れるのです。

「この世」「世間様」に従い、仕えるようになると私たちの内にある子どもの心はいのちを失ってきます。「世間様」が気に入る型にはめられるからです。
自由と個性を奪われると、子どもの心はいのちを失います。
しかし、それが大人になることだと「世間様」はもっともらしく教えます。

「世間様」に気に入られ、その型にしっかりはまると、「世間様」に気に入られるようにしか考えられなくなります。「人の目」に喜ばれることしか考えられなくなります。
本当に自分がやりたいこと、本当に自分が好きなことが分からなくなります。
自分の個性といのちの源である子どもの心が死にかけているからです。

「世間様」「人の目」に仕えている人は、本当は自分の心が貧しいのです。
心が悲しさで溢れているのです。なぜならホントの心を失っているからです。
自分の心が死にかけていることに気付いて「人の目」「この世」に絶望している人は、幸いな人です!なぜなら神の国はその人のためにあるからです!

【神の国に生きるか、世間様に従うか?それは私たちの選択】

みんなはどちらの国に生きたい?
人の目に気に入られて生きる「この世」か、それとも自分の心が生き生きとする「神の国」か?それを選ぶのは私たちの自由だよ。

イジメを例にしたけど、人の陰口を一緒になって楽しんで、そのグループから受け入れられることを選ぶか?それとも、「私は人の悪口は好きじゃない!文句があるなら直接その人に言いなよ。」と自分の心を守るか?それは私たちの選択にかかっている。

イジメグループの仲間になったら、自分の心をいつも押し殺して、グループに気に入られることをしなければならない。グループからはいじめられなくても、自分が自分の心を殺している。

イジメグループに逆らったら、イジメの対象、悪口攻撃の的になるかもしれないけど、自分の心は必ず輝きを取り戻すはずだよ。

「人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。」
:ルカ福音書6章22.23節

イエスに従う時、必ず「世間様」からは憎まれる。悪口を言われ攻撃される。
でもイエスに従う時、あなたの本当の心は生き返るよ。
子ども達はパリサイ人・律法学者には近づかなかったけれど、イエス様のもとには喜んで近寄っていった。なぜならイエスは子ども達を守るから!子ども達を愛しているから。
イエスは私たちの心を守り、生き生きと生き返らせて下さる方だから!

だから恐れないで、イエスに従おう!「世間様」「人の目」に喜ばれる行き方を捨てて、イエスが王様の「神の国」の住人になろう!

【イエスの価値観を共有するところから神の国は始まり拡大する】

「神の国」の住人になるにはどうしたら良いのだろう?
「神の国」はどこから始まるのだろう?

「神の国」を始められたのはイエスさま!
「神の国」はイエスの価値観、イエスの優先順位を共有するところから始まる。

「そこで、イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」またこう言われた。「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」:ルカによる福音書13章18から21節

価値観や優先順位はとても小さいことのように思えるけれど、その中にはいのちがある。
それは必ず私たちの心の中で成長し、大きくなり実を結ぶようになる。

分かり易い例で言うと、エクレシアは「イジメ防止ルール」を導入した。
これはイエスさまのマタイ18章の教えに基づいている。イエスの価値観だ。
だから、最初は小さいものであっても、この「イジメ防止ルール」はどんどん、みんなの心で成長し、神の国を実現するものに必ずなる。エクレシア教会は神の国の雰囲気を必ず現す教会になる!

この逆も言える!悪口や陰口を聞いても知らぬ振りをしたり、自分も加わって悪口を言っているグループのご機嫌取りをやっていると、それは「この世」の価値観を心に蒔いていることになる。必ずそこからは滅びの実を刈り取り、陰険で暗い地獄の雰囲気を醸し出すことになる。

イエスはなにを大切に生きたのか?聖書をどう理解し、実践したのか?
それは最初は小さなことかもしれない、しかし、それを理解し、守ってみるなら、必ず心の中にいのちの実を結ぶようになる!自分の心が生き生きしてくる!
それがイエスとともに歩むこと、神の国に生きることだ。