「ペンテコステの日の出来事」
聖書箇所:使徒の働き2章1節から47節
牧師 小林智彦

【ペンテコステは教会の誕生日】

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」:使徒の働き2章1節

「五旬節の日」と言うのは、ユダヤ人にとって大切な祭りの時でした。
旧約聖書では「七週の祭り」、または「刈り入れの祭り」と呼ばれる祭りです。
ちょうどイスラエルでは小麦の刈り入れが始まる時期と重なるそうです。
この祭りはイスラエルの男性が守らなければならない三つの祭りの一つでした。
大勢のユダヤ人がイスラエル国内からも、そして国外からもエルサレムに集まりました。
この祭りは過越しの祭りのから五十日目に当たるので、ギリシャ語で50番目を表すペンテコストスから「ペンテコステ」と呼ばれています。
この日はイエス様の復活から数えると、ちょうど7週目です。
この日は私たちクリスチャンにとっても、教会の誕生日として大切な記念日なのです。

まず、この日に何が起きたのかを整理し、その意味を明らかにしていきましょう。

(1)炎のような舌が弟子たち一人ひとりの上にとどまった。

「すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。」:使徒の働き2章2.3節

この「炎のような分かれた舌」とは一体なんでしょうか?
天から激しい風が吹いてくるようにしてやって来ました。
これはイエス様が助け主として約束されていた聖霊なる神を表しています。
イエス様はヨハネの3章8節で聖霊様を「風」にたとえておられます。

それでは何故、聖霊は「炎のような舌」として弟子たちの上に下られたのでしょうか?
イエス様がバプテスマを受けて水から上がられた時は、鳩の姿でイエス様に臨まれました。しかし、弟子たちには「炎のような舌」として下られたのです。
これはこの直後のペテロの姿を見ると、その意味が分かります。

ペテロはペンテコステの祭りのためにエルサレムに集まった大群衆の前で、熱烈に激しく、イエスがキリスト・救い主であると語り始めました。
聞いていた人は「心が刺され」たと37節には書いてあります。
そしてなんと三千人の人(男だけで)がこの日の内にバプテスマを受けて救われたのです。女性を含めるなら、その数は倍近くにまでなっていたかも知れません。

聖霊が「炎の舌」として弟子たちに表れたのは、イエスを証しする情熱を与えるからです。
そして、その証を聞いたの者の内にも神の愛が燃え上がるからです。

ただ、これはペテロの賜物違いも含まれるので、全ての人が聖霊に満たされたからと言って、ペテロのような激しい説教者になるとは限りません。ペテロ以外の弟子たち全てがペテロのように激しく説教をしたとは書かれていません。

しかし、激しく語ろうと、優しく語ろうと、また語るのではなく、書いても、歌にしても、絵に描いてでも、聖霊はイエスを証しする情熱を私たちの内に与えるのです。

(2)他国のことばで神をたたえた。

「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」使徒の働き2章4節

これはペンテコステの日に起きた特徴的な出来事です。
これは、その後のキリスト教の方向性を示している驚くべき出来事です。
神の霊によって、突然、自分では習っていない外国語で話し始めたのです。
ただ話し始めただけではなく、外国語で神の偉大な働きをほめたたえ始めたのです。

この奇跡は大切な意味を持っています。
もしこの奇跡が起きなかったら、私たちはもしかしたらヘブル語で礼拝しなければならなかったかもしれません。聖書もヘブル語だけで、翻訳が許されなかったかもしれません。

お寺の坊さんのお経が、いくら聞いても分からないはサンスクリット語だからです。
サンスクリット語をただ漢字に音訳しているだけですから、意味は分かりません。
一般的に宗教というのは他の文化には親切ではありません。
自分の民族や国を超えて、他の国の人々にも祝福を分かち合おうと言う考えは希です。

だから聖書が母国語で読めると言うことは、素晴らしいことなのです。
そして、それは神の願いなのです。
神は世界中の全ての人、部族、民族、国が救われることを願っているのです!

だからペンテコステの日、教会の生まれた日に神はあらゆる外国の言葉で神をたたえる奇跡を起こされたのです。神の救いを全世界に分かち合い、伝えるためです。

ペンテコステの日に起きた特徴的な二つの出来事、それはイエス様が弟子たちに前もって約束しておられたことが実現したのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
:使徒の働き1章8節

イエスは私たち一人ひとりが聖霊の助けを受けて、イエス・キリストの救いの証人になることを願っています! 聖霊は私たちがイエスの救いを受け、イエスの人格に成長し、イエスを証しするに相応しく私たちを整えてくれます。その為の助け主です。

【イエスは私たちがイエスの証人になることを願っている】

イエスの証人、すなわちイエスの愛を表して生きることを神は私たちに願っています。
皆さんはイエスの証人です! 皆さん、間違ってもエホバの証人にはならないで下さい!
またイエスを証しすることを「伝道する」と言う言葉にも置き換えないで下さい!

とにかく!無理して伝道することだけは止めましょう!
無理して伝道することによって出来るのは、宗教的自己満足と宗教家を作るだけです。

教会では長い間、伝道しよう!伝道しなければ!と信者にプレッシャーを掛けてきました。牧師が信者に伝道のプレッシャーを掛ける理由は、信者が増えなければ献金が増えない。牧師の地位と名誉は教会の信徒数で決まる。だから何としても受洗者を増やしたい!

伝道のプレッシャーを掛けて出来上がるのは、アダルト・チルドレン・クリスチャンです。
アダルト・チルドレンとは残念なことに子供の頃に、子供らしく生きることが許されなかった人が大人になるとアダルト・チルドレンになります。
子供であることが許されてこなかったので、休むことや遊ぶことに罪悪感を覚える。
いつも他人の事ばかり気になり、自分の必要を満たすことが出来ない。
使命感はあっても、自分の本当にやりたいこと、好きなこと、楽しいことが分からない。
このような特徴があります。

日本の多くのクリスチャンは神の前にアダルト・チルドレンだと思います。
イエスを受け入れて直ぐに、伝道しなければならない!とプレッシャーを掛けられたため、神の前に我が儘を言っても赦されること、何か特別なことをしなくても、ありのままで受け入れられる体験が無いまま、宗教としてのキリスト教を宣伝します。
神との実体験が無のです! でも頭で義務的にキリストを伝えようとする。
無理に良いクリスチャンを演じようとする。そうすると疲れが溜まり、怒りが蓄積します。

皆さん、伝道、しなくて良いよ!

断言出来ることは、聖書の中に一言も、「誰かをキリスト教に改宗させろ」とか、「信じさせろ」なんて書いてないんだよね!

信じるか、信じないかは、神さますら介入されない、その人本人の問題なんだよね。
強制したり、無理強いすることを神は決して願ってないよ。
神さまの最も大切にしている、愛と自由が無くなるから! 

イエス様が願っているのは、私たちがイエスの証人になることだよ!

証人にと言うのは、見たことを、見たとおりに語るのが証人の務め。
見てないことまで、付け加えたり、想像や自分の理想を語る事じゃないよね。
神が求めているのは私たちがイエスの証人になること、それだけだよ。

良いクリスチャンに思われたくて、演技してたら、それは偽証罪だよ。
証人は、楽だよ。そのままで良いんだからね!

【弟子たちがイエスの証人になるまで】

ペテロや他の弟子たちはアダルト・チルドレン・クリスチャンじゃ無かった。
なぜなら彼らは思いっきり、イエス様の前でありのままの自分を出してから。

ペテロはイエス様が徹夜で真剣に祈ってるときに、となりで居眠りしてた。
イエス様が裁判に掛けられて、やってもいない罪をでっち上げられていたときに、私はこんな人知らないなんて、ホントの証人になることを断っちゃったんだよね。
弟子たちはみんな、自分が捕まるのを恐れてイエスを見捨てて逃げた。
復活なんて信じてなかったから、イエス様が三日目に復活すると前から言ってたのに、誰もイエスの墓を見に行った者がいなかった。
ペンテコステの、ほんの50日前の出来事だよ。

それでもペテロはイエスから赦された。それでもイエスに愛され続けた。
それでもイエスに大切な仕事を委ねられた。

だからペテロはイエスの証人になれたんだ。
彼は付け加えてない、作ってない、演技してない。
イエスがしてくれたことをそのまま語っているだけだ。

イエスは良いクリスチャンになることなんて、あなたに求めていないよ。
あなたがあなたでいることをイエスは求めている。
天の父なる神はただ、あなたの必要を満たしたい、求めている赦しを与えたい、ありのままで受け入れてあげたいと願っているんだよ。そして、受けたことをただ証しするだけ。

宗教の宣伝なんかしなくて良い。教会を大きくしようなんて無理しなくて良い。
それは、神さまの仕事! 神が私たちにして欲しいことは、神から受けたことを必要な人に、必要なときに証しすること、分かち合うこと。

そして先ず、自分がたくさん、たくさん神さまから受け取ること。してもらうこと。

私たちがまず、自分のよい子の仮面を取り外すなら、自分のありのままの姿を神の前に明らかにするなら、神さまは喜んで、私たちの必要を満たしてくれる。
聖霊は私たちをイエスの人格にまで成長させ、イエスの証人にして下さる。

聖霊様を拒絶しないならば、誰にでも聖霊様は臨んで下さいます。
いま、聖霊様を心の中に歓迎する祈りをしましょう。