「お互いの間に平和を保ちなさい」
聖書箇所:第一テサロニケ5章12節から15節
牧師 小林智彦

「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。」:第一テサロニケ5章12.13節

指導し、訓戒することはとても大切な働きです。
この働きが機能しなかったら教会は塩気が抜けた塩のようになってしまいます。
教会の中に対しても、外に対しても充分な働きが出来なくなってしまいます。
とても大切な働きですが、パウロが「お互いの間に平和を保ちなさい」と言ってるように、誤解や、間違った用い方をすると教会の中に争いや敵意が生まれてしまいます。

指導と訓戒、これが正しいかたちで行われるにはどうしたらよいのでしょうか?

私たちは指導と言う言葉を聞くと、アレルギー反応が出てきますね。
中学・高校生だった頃の生徒指導をしていた怖い先生をすぐに思い出します。
何か指導するという言葉を聞くと、上から下に一方的に押しつけられるイメージが沸いてきます。これはきっと私のトラウマなのかもしれませんが。

聖書のことばを理解するときに、大切なことは色眼鏡で読まないことです。
自分の育ってきた文化、自分の体験を通して聖書を読むと、聖書が言ってないことを読み込む危険があります。これに気が付くことが大切です!

ある人は聖書を読むとイエスの愛に感動して、すぐにクリスチャンになる人がいます。
聖書を読むと平安を感じ、神の愛と赦しに心が満たされる人がいます。
しかし同じ聖書でなのに、ある人は聖書を読んで神は恐ろしいと震え上がります。
また「あれしろ!これしろ!」、「おまえは罪人だ!」と裁かれたと思う人がいます。
同じ聖書なのに、なぜこのように感想が違ってくるのでしょうか?

それは読んだ人の文化、育ってきた環境、体験を通して聖書を読んでしまい、聖書が本来言おうとしていることではなく、聖書を通して自分の心の状態を読んでいるのです。

だから指導や訓戒と言う言葉が出て来ると、過去に指導されてイヤだった思い、怒りや憎しみが刺激されて、神さまに対して否定的な思いを抱いてしまう。
「神は愛だと言っているのに、なぜ指導なんかするのか?聖書は矛盾している。」
そのように読み込んでしまうのです。
しかし、問題は読む私たちにあるのであって、聖書の問題ではありません。

だから聖書を読むときに、良く分からない!難しい!矛盾している!と思うところは大切なのです。なぜそうなのか?単純に言葉の意味が分からないのか、意味において分からないのか? 自分が読み込みをしていないかチェックしてみることは大切です。

指導、訓戒と言う言葉に私たちが読み込みやすいのは上下関係、儒教思想だと思います。聖書には上下関係、特に教会の中には上下関係はありません!
儒教の思想は入っていないのです!年上が偉いとか、先にクリスチャンになった人は先輩クリスチャンだとか、そのような儒教思想に基づいた上下関係は一切ないのです!
また決してそのような上下関係を教会の中に持ち込んではならないのです!

しかし、指導・訓戒と言う言葉の中に私たちは無意識に上下関係を読み込んでしまうのではないでしょうか?
「上の人は下の人を指導し、訓戒しなければならない!」、このような間違ったイメージに基づいて教会の中で口先だけ、形だけの指導・訓戒がされたら悲劇です。
誰も教会に来たいと思わなくなります。 なぜなら教会も世間も変わらないからです。
塩気の抜けた塩になってしまいます。

パウロは「お互いの間に平和を保ちなさい」と言ってます。
本当の平和はみんなが平等でなければ生まれないと私は確信します。
偉い人、怖い人がいるなかでは平和は生まれないし、保つことも出来ません。
顔色を伺うだけで、その人の前だけではよい子を演じるようになってしまいます。

指導・訓戒の働きが生かされるのは平等な関係、平らな関係のなかでこそ生きるのです。まず!教会の中から上下関係を徹底的に排除していきましょう。
イエス様は誰も「先生!」と呼ばれてはならないと教えられましたね。
もちろんこの「先生」は「ラビ(尊師)」であって「教師」の意味ではないのですが、牧師を「先生」と呼ぶ必要はないと思います。名前で普通に呼んで下さい。
上下関係のパン種を教会から取り除く為なのです。

上下関係があるなかで、指導されたり教えられたりすると、私たちは無意識の中、怒りや憎しみを抱え込むことになります。いつか必ずキレる時が来るでしょう。
それはお互いにとって不幸なのです。

だから、牧師に納得が行かない時はどんどん反発して下さい。納得が行かないときは「納得が行きません!」とハッキリと言ってください。(愛を持って優しくね!)
思ったことが自由に言えない雰囲気を教会の中から取り除きましょう!

このような平らな人間関係、そして思ったことを溜めない自由な雰囲気のなかでこそ、指導や訓戒の働きは生かされ、用いられるのだと確信します。

【その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい】

この指導・訓戒の働きは決して牧師や宣教師に限定されるものではありません。
コロサイ人への手紙では皆さんが互いにすべきであるとパウロは教えています。

「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」:コロサイ3章16節

「知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」、互いに戒めることを勧めています。
牧師や宣教師だけが教え、戒めるのではありません。互いに行うのです。
牧師や宣教師も赦された罪人にしか過ぎません。弱さがあり、罪も犯します。
だから互いに!が必要なのです。罪の深みに沈まないように助け合うことが大切です。

「互いに」の中には、上下関係は含まれません。上下関係があったら「互いに」は出来なくなります。

そして牧師やリーダーよりも指導・訓戒の働きが優れている人たちも教会にはいます。
牧師やリーダーが全て出来る、全ての賜物を持っていることはあり得ません!
牧師は牧師の働きがあり、それだけでは教会を建て上げることは出来ないのです。

ですから指導・訓戒の奉仕が良くできる人はどんどん賜物を用いて指導・訓戒することが教会を建て上げることにつながるのです。
牧師じゃないから指導・訓戒することが出来ないと言うことはないのです。

【指導・訓戒は支配と裁きではない!】

さて指導・訓戒という言葉ですが、これは決して支配と裁きでありません。
教会の中には上下関係もそうですが、支配する・支配される関係も決して入り込んではならないのです!そのような関係が入り込むなら、カルト教会になってしまいます。

神に従うか、従わないか?それは教会員一人ひとりの選択です。
けっして脅したり、強制したりして従わせてはならないのです。それは信仰では無いからです。信仰とは自発的な意志による神への応答です。

しかし、指導が行き過ぎて支配になってしまう。
これは私たちが愛に溢れる指導を受けたことがないからだと思います。
聖書的な指導とは、養い育てると言う意味であり、また模範を示すと言う意味です。
自分が先ず神の言葉を守り行い、見本を示すこと。そして神の家族が喜んで神に従えるように仕えること。愛を示し、赦していくことが指導なのです。
聖書が教える指導が支配になることは決してありません!

訓戒することも罪を指摘し、裁くことではありません。
ここはとても難しいことが含まれます。確かに罪を犯している人を責めるようにとイエス様は教えています。しかし、それは相手を滅ぼすためではなく、罪の深みに陥らないために助ける働きです。私たちは愛する兄弟・姉妹であっても、その人の益となるためには敢えて対立することも時には必要です。敵対ではなく、対立することです。
和を守ると言う日本の文化が優先されることが内容にしましょう。
日本の文化は和を重んじるために、対立を悪いことのように思います。
しかし対立を避けるだけでは決して深い人間関係は築けません。
愛と真理を守り、行うためには時には対立することは避けられません。
それがクリスチャンの塩気を保つためには必要なのです。

愛を持って、時にはぶつかり合いましょう!自分を守るためにぶつかるのではありません。相手の益となる、相手を建て上げるために必要なときは、愛を持って相手の罪に対して向き合っていきましょう。

【人間関係の癒し】

今日は指導・訓戒と言うトピックを中心に分かち合いました。
聖書がキリストにあって一人ひとりを建て上げるために与えられた大切な働きが、なぜか支配や裁きのように、人を立て上げないものに変質してしまう。
その原因は聖書にはない価値観が入り込んでしまっているからでした。

福音の種は上下関係、儒教思想の上では育たないのです!異質なものに変わります。
私たちの中から上下関係、先輩後輩、形だけ、口先だけの指導を取り除かなくてはなりません。これが残っていたら教会も世間も変わらないのです。
人を支配する・支配される人間関係です。怒りと憎しみをため込む関係です。

教会の中ではお互いの間に平和を保ちましょう。それは日本の文化、私たちの教会の中での課題は「平らな人間関係」を目指すことです。
敬語もやめましょう!「先生!」と呼ぶことも止めましょう。
人の顔色を気にすることを止めましょう。 牧師にどんどん意見を言ってください。
反発してください(愛を持って優しくね。)

きっと違和感を覚えると思います。それで良いんです!
いままで体験したことがない雰囲気を教会が持っていなければ、聖書的な教会とは決して言えません。教会の中は世間にない人間関係を体験出来る場所でなくてはならないのです。

学校も会社も家庭の中も上下関係、恐い人、偉い人がいる。自分の存在が上か下かでしか認められない社会、それが日本です。みんな人間関係に疲れている。
「たまの休日は一人でいたい。疲れる人間関係から解放されたい。人に会いたくない。」これが皆さんの本音ではないでしょうか?
「教会に来てまでも、疲れる人間関係は持ちたくない。」当然だと思います。

だから教会の中には本来聖書の中にはない毒素を抜き取らなくてはならないのです。
能力や、この世の地位で敬われるのではなく、ただその人の存在、イエスにあって神の子である!ただそれだけで敬われる人間関係を体験出来る場所が教会でなくてはならないのです。

聖書を読んでも、神の愛を感じない人、神の赦しを感じない人に最期に言います。
それは聖書でも神さまでも、そしてあなたのせいでもありません。
神とあなたの間に愛を妨げ、赦しを見えなくさせる日本の文化が存在するのです。
それに気が付くことです! 聖書を読むときには、その妨げを取り除くことです。