「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」
聖書箇所:ルカによる福音書:5章1節から11節
牧師 小林智彦

「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。」(1.2節)

イエス様はカペナウムの会堂で神の言葉を教えておられました。
今でもカペナウムに行くと会堂の遺跡があります。しかしその遺跡は大きな物です。
その土台の下に色の違う土台があるのですが、それがイエス様時代の会堂の跡だそうです。
イエス様の時代の会堂はそんなに大きくなく、たぶん100人ぐらいしか入れなかったのでしょう。イエス様の教える神の言葉を求めてたくさんの人がやって来ました。
会堂では入りきらずに、会堂のそばの広場に移ったのでしょう。
カペナウムの会堂跡のすぐ脇がガリラヤ湖です。
広場にも人が溢れ、イエス様はだんだんとガリラヤ湖の方に押しやられたのでしょう。
そのままですとガリラヤ湖に落ちてしまいます。そこにペテロがちょうど、漁を終えて、網を洗っていたのがイエス様の目に入ったようです。イエス様はペテロに頼まれました。

「イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。」(3節)

ここでイエス様は先ずペテロに小さな頼み事をしています。少しだけ漕ぎ出すことです。しかしペテロにとっては少し迷惑だったかも知れませんね。
なぜなら彼は網を洗っていている途中です。ペテロは仕事中だったのです。
彼は仕事中であることを理由に、イエス様の頼みを断ることも出来たでしょう。
しかし、ペテロは網を洗う手を休ませて、自分の船にイエス様を乗せて漕ぎ出しました。そしてイエス様のメッセージがどれほどの長さか分かりませんが、その間待っていました。

もちろんペテロ自身がイエス様のメッセージに聞き入っていたのかも知れません。
しかしメッセージを終えたイエス様は「ありがとう!助かったよ」という代わりに、さらに難しい頼み事をして来ました。

結論から先に言うならば、イエス様の頼まれたことがペテロの人生を大きく変えるのです。
しかし、その前に3節の「陸から少し漕ぎ出すように頼まれた」に注目して欲しいのです。

もしペテロがこの時点で断っていたらどうなるでしょうか?
「先生、いま私が何をしているのか分からないんですか?仕事中なんですよ。私は忙しいんです。隣のヤコブの船に乗ったらどうですか?」
もちろんペテロはこのようにイエス様の頼みを断ることも出来ました。
もちろんイエス様もペテロのNOを尊重して、ヤコブやヨハネの船に乗ったでしょう。

しかし、その後の奇跡をペテロは体験することは出来なかった。そしてイエスに生涯に渡って従う決心も生まれなかったかも知れません。もちろんこれは私の仮定です。
そうなったら、イエス様はきっと別のアプローチをされたと私は思いますが。

皆さんと先ず分かち合いたいことは、イエス様はいきなり難しい要求をされないと言うことです。先ず易しい要求をされます。そしてそれをクリアすると、次にもう少し難しい要求をされてくる。そしてだんだんと難しい要求をされてくるのです。
これがイエス様の弟子を育てる方法だったようです。

これは信仰と従順を育てるためのトレーニングです。
聖書を見ると偉大な信仰者はこのように神からトレーニングを受けていました。

アブラハムはいきなり、その子イサクを捧げるようには求められませんでした。
まずはカランを出ることを神は求められた。もしアブラハムがカランを出なかったら、彼に与えられた約束は無かったかも知れません。

神は無理なこと、不可能なことを私たちには求められません!
だから自分の力や努力で罪赦されること、神の子供になることを求めていません。
自分の力で奇跡をおこすことなどは求めておられないのです!

しかし、私たちの信仰と従順を鍛え、育て上げるために徐々に難しい要求をされます。
それは私たちと神との信頼関係を育て上げるためなのです!
決して私たちを苦しめるため、惨めにさせるためではありません。それは悪魔の嘘です。

人間関係でも相手を信じる、相手の言葉を信じることがなければ良い関係は築き上げられません。神との関係も全く同じです。神は神の言葉がどれだけ信頼出来るのかを教えられるために、小さい要求から始め、徐々に難しい要求へと度合いを変えていくのです。

そしてそれはより優れたものを私たちに委ねるための訓練でもあるのです。
アブラハムの従順に対して、神は彼を大いなる国民の父とし、信仰の父とされました。

神が私たちの信仰と従順を鍛えられるのは、私たちにより優れたものを委ねる為です!

いま天のお父さんが皆さんの心に語り掛けている御言葉はなんですか?
天のお父さんがあなたに行うように求めておられることはなんですか?
それに従っていますか?それを行っていますか?それとも理由を付けて断っていますか?

神が皆さん一人ひとりに求めておられることを、信仰をもって行って下さい。
それは信仰と従順を鍛えるためのトレーニングであり、より優れたものを皆さんに委ねるための天のお父さんの計画なのです。

【深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい】

「話が終わると、シモンに、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。』と言われた。」(4節)

陸から少し漕ぎ出したペテロに、イエス様はさらに難しい要求をされました!

イエス様はペテロを虐めているのではありませんよ!信仰と従順のトレーニングです。
しかし、これはペテロにとって、とても理解に苦しむ要求でした。

「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」(5節)

ペテロにとってなぜイエス様の要求が難しかったかと言うと、

①彼は一晩中働いて、やっと漁から帰ってきたばかりだった。肉体的に辛い。
②魚はガリラヤ湖の深いところにはいない!漁師の常識。
③長年漁師をして魚が捕れなかったのに、なぜ大工に指図されるのか?プライド。
「ちょっといい加減にしてくれよ!」 そんな感じが読みとれますね。
天のお父さんが私たちの信仰と従順を鍛える時には、このような難しい課題もあるのです。

そこで、「イヤです!」という自由もあります。
私も何度も「イヤです!」と断ってきました。ヨナも激しく「イヤです!」と言いました。神さまは「イヤです!」と私たちが断っても、決して私たちを捨てたり、救いを取り消したりするような神さまではありません。大丈夫です!

しかし、神さまはしつこいです!何度も何度も同じ要求を求めてきます。
それは神の愛です。私たちの信仰と従順を育て上げ、より優れたものを委ねるためです。
ヨナも激しく神に逆らいましたが、神は激しくヨナに答えられました。

天の父なる神はよい子を愛するだけでなく、反発するヨナみたいな子供も変わりなく愛して下さいます。特に旧約聖書を見ると素晴らしい信仰者でも神に逆らっていることも書かれています。でも天の父なる神は変わらず愛し続けて下さいます。

しかし、天の父は甘やかす父ではありません。神の願いは服従させることではなく、神に従うことによって、その人を健全に建て上げること、さらに良いものを委ねる為です。
だから父に従わない場合は、父の要求がどれほど素晴らしいものであるのかを分からせるために、回り道を用意されます。

ヨナの回り道は海の底に沈み、大魚に飲み込まれることでした。
そこで彼は神に従うことを決意するのでした。

だから愛する皆さん、神は「さあ、来たれ。論じ合おう。」(イザヤ1章18節)と言っておられるのですから、納得がいかない時は神さまに納得がいかない!と祈ってください。
逆らうときはヨナのように、ニネベの反対側に突き進んでみてください。
神は必ず、従うように求めておられる御言葉の意味を明らかにして下さいます。
黙示録にもあるように、熱いか冷たいか、YESかNOかハッキリすることが大切です。

【でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。】

「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(5節後半)

このペテロの姿勢を私たちは見習いましょう!これが一番賢い選択だと確信します。
「でも!」、ここにペテロの信仰が表されています。
「でも!」、これがなかったら信仰と私たちを結び合わせることは出来ません。

「自分の経験、理性、プライドでは納得がいかない!」そうですね。しかし、神の計画を自分の経験、理性、プライドで納得するにはもの凄い時間が必要になります。

しかし「でも!」の信仰の選択をするなら、私たちは一気に神の計画の確かさを体験し、理解することが出来るのです。信仰の世界はこのようなものです。

イエスを信じないで、クリスチャン・ライフの素晴らしさを理解するのは難しいですね。
しかし、「信じてみたら良く分かる!」のです。
神の言葉を頭で理解しようとしても、良く分からない時がある。
しかし、「その通りにやってみたら、良く分かった!」

神は決して私たちの理性の中に収まるような小さい神ではないからです!

この信仰の姿勢はイエス様の中に見られるものです。
イエス様もゲッセマネの園で、父なる神に「この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願いではなく、みこころの通りにしてください。」と祈られました。
そして父の御心どおりに十字架を背負われたのです。

だから、「でも!やってみましょう」は十字架の信仰なのです。
イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(:ルカ9章23節)と言われました。
この「でも!」と言って自分の考えではなく、神の言葉に従うことが自分の古い人に死んで、イエスとともに神の子供として復活の命の中に生きることなのです。

イエスとともに復活の命を体験したいなら「でも!やってみましょう」をお勧めします。

【そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった】

「そしてそのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。」(6節)

神の言葉に従うと、そこには驚くべき結果が待っています!この体験が私たちと父なる神の関係を深めて行くのです。父は私たちを決して失望させるような方ではありません。

しかし、ここで大切なのは神の言葉を正しく聞くことです!
「牧師が言ってたから、やってみたけど、全然上手く行かなかった!」
「教会の指導者に言われたから、イヤなんですけど仕方なくやっているんです。」

皆さん、牧師=神の言葉ではありません! 私はもちろん皆さんと神の言葉を分かち合っていますが、決して牧師=神の言葉ではないのです!皆さん、どうぞ吟味して下さい。
皆さんの中には聖霊様が助け主として住んでおられます。
ですから勧めの言葉を聞いても、必ず祈って吟味して下さい。
そして心の中に平安と確信があるなら、示されている、語られている聖書のことばを行って下さい。心の中におられる聖霊様に聞くことが大切です。吟味することです。

【み言葉に従う最高の結果、それは真の悔い改め!】

「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』と言った。」(8節)

たくさんの魚が入ったのも嬉しい、神の言葉に従った結果です。
しかし、もっと嬉しい結果は悔い改めが起こることです。
悔い改めとは「向きを変える」「思いを変える」など変化を表すことばです。
私たちは神の言葉に従うとき、悔い改め、変化が起きるのです。
神への信頼が増し加わります。さらに神の言葉に従いたいと思います。
自分の小ささが分かり、神の偉大さが見えてきます。
私たちはこの様にして、イエス様の似姿へと変えられていくのです。
神学で悔い改めは起こりません。ただ神の言葉を行うときに、イエスに似た者へと私たちは変えられていくのです。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(5節後半)
この信仰で進んで行きましょう!