「権威あるイエスの言葉」
書箇所:ルカ福音書4章31節から44節
牧師 小林智彦

【権威あるイエスの言葉】

「人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」(32節)
「人々はみな驚いて、互いに話し合った。『今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。』」(36節)

カペナウムの人々はイエスの教え、その言葉に驚きました。
なぜならイエスの言葉には権威と力があったからです。

言葉に権威と力があるとはどう言う意味でしょうか?
カペナウムの人々はなぜイエスの言葉に権威と力を認めたのでしょうか?

カペナウムの人々はイエスが語らえた言葉が、そのまま実現するのをその場で見たのです。

「イエスは彼をしかって、『黙れ。その人から出て行け。』と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行った」(35節)

悪霊でさえイエスの言葉には従わなくてはならないことをカペナウムの人々は見ました。

「イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」(39節)

イエスが命じると熱でさえ、言うことを聞かなくてはなりませんでした。

イエスが語られる言葉は必ず実現する!これがカペナウムの人々の驚きであり、イエスの言葉に権威と力があると確信した理由なのです。

そうです!イエスの言葉には権威と力があるのです。
ではなぜイエスの言葉には権威と力があり、その言葉は必ず実現するのでしょうか?

私たちはイエスの神性を信じると共に、その語られた言葉を信じています。
聖書は神が世界を創造されたのは神ご自身の言葉によることを教えています。
神は言葉によって無から有を創り出すことのお出来になる方、この方が真の神です。

この天と地に満ちている全てのものは神が言葉によって創造し、神の変わらない言葉によって維持されているのです。
そして、この神の言葉は神ご自身であり、この神である言葉が人となったのがイエスであるとヨハネは聖書の中で教えています。(ヨハネによる福音書:1章1から18節)

イエスの言葉には権威と力があります!なぜなら神の言葉だからです。
イエスの言葉には権威と力があります!なぜなら同じ言葉で世界を創造されたからです。

そして聖書は神の言葉なのです!神の教えと約束がハッキリと書かれているからです。
聖書には人間がその知恵と知識では知り得ない真理が書かれています。
私たち人間の生きる目的、何処から来て何処に行くのかがハッキリと書かれています。

聖書には世界の歴史が書かれています。その始めからやがて来る終わりの日までが書かれています。
聖書には私たちに対しての約束が書かれています。
ユダヤ人に対して約束された言葉は驚くべき約束にもかかわらず実現しています。
またイエスを神の子と信じる私たちにも素晴らしい約束が書かれています。

神の言葉は必ず実現します! 神の言葉に対する態度が私たちの信仰の表れなのです。
イエスはご自身の言葉に信仰を持って応じるようにと求めています。

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
:マタイ7章24から27節

イエスはご自分の言葉を信仰を持って受け入れること、そして行うことを私たちに求めています。それは私たちを支配し、服従させるためではなく、建て上げるためなのです。
イエスの言葉は真理です。神は真理の上に人生を築き上げることを願っているのです。

全てのものは神の言葉に従って動いています。
従うか従わないのかを選択する自由が与えられているのは人間だけです!
私たちは確かに自由です。私たちの先祖であるアダムとイブは、この自由を神の言葉に従わないことに用いました。その結果はアダムとエバを含む私たち全てが負うことになりました。人類に死が訪れ、全地は呪われたものになってしまったのです。
イエスが言われたように、砂の上に人生を建て上げ、やがてひどく倒れてしまったのです。

神は私たちの自由を神の言葉に従うこと、神の言葉を行うことに用いるように願っています。自由のなかで神に従うことを選ぶからこそ、そこに喜びがあるのです!
私も皆さんにお願いします!神の言葉に信仰を持って答えましょう。

そうするならば、神が約束している全ての祝福が皆さんを満たすからです!

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」:詩編1編1節から3節

またイザヤはこのように言っています。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」イザヤ40章8節

神の言葉は永遠です!そしてイエスこそ神の言葉であり、権威と力に満ちているのです。イエスの言葉、聖書の言葉は必ず実現する!これが私たちの信仰です。

【信じる者に伴うしるし】

イエスを救い主キリスト、、生ける神の言葉であると信じる者には、信仰にしるしが伴うとイエス様は言われました。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」マルコ福音書16章17.18節

イエスを信じる者、その言葉を信じる者が、行いによってキリストを証しするためです。これらのことを通して、私たちはさらにイエスに対する信仰を深めることが出来ます。
ただイエス様が悪魔の誘惑に対して、神を試みてはならないと注意されたように、意味もなく毒を飲んだり、蛇をつかむのは止めましょう!

イエスを証しするために、聖霊が導かれる時にこれらのしるしは伴います。

私たちは悪霊を恐れる必要はありません!イエスの名によって追い出すことが出来るからです。私たちは病で苦しんでいる人に手を置いて祈ることが出来ます。
また新しい言葉、イエスのように赦しを宣言することが出来ます。救いを宣言することが出来ます!聖霊が導かれる場所で、イエスを証しするためにしるしが伴うのです。

【ひとりひとりに手を置いて、いやされた。】

しかし「手を置いても癒されない場合はどうするんですか?」と考える方もいるでしょう。
どうぞ、心配はしないで下さい。責任は神さまが取られるからです。
神さまの約束の責任を私たちが取る必要はありません。私たちは信じて行うだけです。

信じて手を置くだけで、難病が癒された!ガンが癒された!目が見えるようになった!
驚くべき証を何度も聞いたことがあります。
しかし、信仰深い人が何年も祈っているのに癒されないこともあります。

何故なんだろう?祈る人の信仰が足りないのか?祈られる人の信仰が足りないのか?
直ぐにそのように私たちは考えます。また、神は人をひいきしているのではないか?とも考えてしまいます。 

癒されるのが、信仰の深さに依らないことはパウロの例を見れば明らかです。
パウロは熱心に神とその言葉を信じました。彼は神の言葉に使えるために選ばれた使徒です。彼はみ言葉に伴うしるしを持ってイエスを証しました。人々の病を癒しました。
しかし、その彼自身、目の病を患っていました。そしてそれは癒されなかったようです。

癒しの奇跡を行っている者の病が癒されなかったのです!
癒しは個人の信仰の深さに依るのではありません。神さまの業なのです。
イエス様はどの様に病人を癒したのか、その箇所をもう一度見てみましょう。

「日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。」:40節

「イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。」とあります。
神は全能ですからただ癒すだけなら、全員まとめてあっという間に直すことも出来ます。しかし、イエス様は一人ひとりに手を置いて、癒されたのです。
その人の本当の必要を覚え、その人の最善を願って癒しの御手を伸ばされたのです。
イエスが本当に癒したかったのは私たちの霊であり、心の奥深い部分です。
それは神の愛を知らずに、自分の力だけで生きようとする孤独な魂です。
神との和解、神との愛の関係を再開するために、イエスは一人ひとりに触れられたのです。

パウロは癒されなかったのでしょうか?神はパウロに触れられなかったのですか?
そうではありません!パウロの最も病んでいた部分は癒されたのです。
神の救いを見ることが出来なかった彼の魂の目が開かれたのです。
彼は健康だったときには見ることが出来なかった神の愛と救いを見ることが出来るようになったのです。彼は目が見えるとき以上に、真理を見ることが出来るようになりました。
彼は健康なときよりも、神と人に仕えることが出来ました。
彼の最も必要としている部分が癒され、その必要が満たされたからです。

彼はしかし、目の病だけは残されました。それに対して彼はこのように語っています。

「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」:第二コリント12章7から9節