「ナザレの人々の怒り」
書箇所:ルカによる福音書4章16節から30節
牧師 小林智彦

先々週は「イエス様の来られた目的」について分かち合いました。
イエス様の故郷のナザレの人々はイエス様が旧約聖書の預言しているメシア・キリストであることが分かって、イエス様を歓迎しました。

「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。」(22節前半)

みなイエス様を歓迎しました。口々にイエス様をほめたたえたのです。
しかし、このままでは終わりませんでした。なんと今までイエス様を歓迎し、ほめたたえていたナザレの人々は一転してイエス様をののしり、殺そうとします。

「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。」(28.29節)

一体何が起きたのでしょうか?なぜナザレの人々は救い主だと認めたイエスに対して怒り狂い、殺そうとしたのでしょうか?

「そしてまた、『この人は、ヨセフの子ではないか。』と彼らは言った。」(22節後半)

この言葉のあたりからイエス様の考えておられることと、ナザレの人々の思いが食い違ってきたようです。

「この人は、ヨセフの子ではないか」。これはどういう意味でしょうか?
マタイの福音書13章55節にも同じ言葉が書かれていますが、マタイでは「この人は大工の息子ではありませんか。」となっていて、イエス様をキリストではないと否定する意味になっており、彼らの不信仰な態度について書かれています。

しかし、ルカの「この人は、ヨセフの子ではないか」はイエス様に対する不信仰から出た言葉ではなく、キリストであることを認め歓迎するなかで語られた言葉です。
ですからこの言葉は疑問文になっているのですが、メシアであることを疑っているのではく、「この人はヨセフの子ではないか?まさしくヨセフの子、そして私たちの仲間だ!」
と言う意味になります。

この素晴らしいメシア・キリストが私たちの村の出身なんだ!と喜んでいるのです。
今も昔も、同郷から有名人が出ることは喜ばれることです。
そして優れた政治家、ましてや一国の王が自分の村から出たなら大歓迎するでしょう。
そして期待することは自分の村を良くしてくれ!自分の村をイスラエルの中心にしてくれ!幼なじみの私たちを役職に就けてくれと言う人間的な期待、野心です。

イエス様の願いと、ナザレの人々が願っていることはズレ始めているのです。

イエス様はナザレの人々の勝手な願いに気が付いて言われました。

「イエスは言われた。『きっとあなたがたは、「医者よ。自分を直せ。」というたとえを引いて、カペナウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。』」(23節)

「カペナウムで行われたこと」とはイエス様の癒しや奇跡、悪霊追い出しなどのことを指していると思われます。「そのような奇跡を私たちのためにもやってくれ!」とナザレの人々が願っていることにイエス様は気付かれたのです。
「医者よ。自分を直せ」とは、「カペナウムなんて隣町よりも、まず自分の生まれ故郷の方が大切だろ!まずナザレで奇跡を行ってくれ!」と考えているナザレ人の思いをイエス様がたとえておられるのです。

ナザレの人々は大変な思い違いをしていました。
奇跡は決して人々の都合や、願いで起きることではないのです。それは天の父が決めることです。天の父なる神が救いの道を人々に示すために用いられる方法なのです。

しかし、ナザレの人々はイエス様が同郷人だという理由で、イエス様を自分の都合に合わせて利用しようと願っていたのです。

だからイエス様はハッキリと彼らに語りました。

「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。」

演歌歌手や政治家は自分の郷里では大歓迎されます。しかし、預言者だけは違うのです!預言者は地元の都合、地元の利益で動くのではないからです。
預言者は、自分を預言者に任命した天の父なる神の願いに従って動かれるのです。

イエス様は旧約時代に預言者を代表する二人の人物を例に出しました。
エリヤとエリシャです。彼らの働きを例に出すことで、ご自分の働きも示すためです。

エリヤとエリシャが助けた人たちはなんと、ユダヤ人ではありませんでした。
シドンのサレプタにいたやもめ女は外国人でした。シリア人ナアマンも外国人でした。
エリヤとエリシャは自分の国にもたくさんのやもめ、病人がいたにもかかわらず、外国人の助けと癒しのために用いられたのです。

このイエス様の挙げた例、イエス様も預言者として同じように歩むという言葉がナザレの人々を激怒させました。


ナザレの人々の思いは、「先ずナザレを優先しろ!その次は他のユダヤ人の村でも良い。でも決して外国人のためには何もするな!」でした。

しかし、イエス様の思いは「先ず天の父なる神の御心を行うこと!父が願われるなら外国人も助ける。ナザレが優先されることはない。人の利益が優先されることはない」でした。

このイエス様の神の御心を第一に優先する態度に、ナザレの人々は激怒したのです。
ナザレの人々は愛国心、民族意識が強かったようです。
彼らは旧約聖書を間違って理解していました。彼らはメシア・キリストはユダヤ民族を救い、非ユダヤ民族を裁き、滅ぼすために来ると考えていました。
だからキリストがユダヤ民族以外の外国人に癒しや救いをもたらすことなど絶対にないと思っていました。

「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。」28.29節

ナザレの人々は、自分たちナザレの利益を優先しないキリストなんていらない!
まして外国人を癒し、救うなんてメシアのはずはない!殺してやる!と思ったのです。

皆さんは、このナザレの人々の言動を見て、どのように思われますか?
単純でストレートですよね。自分の利益が中心で、分かり易く生きている人たちです。
それだけに人間の本質を表しているのではないかと思います。

私たちの中にもナザレの人々と同じ思いはありませんか?

神さまには自分の利益を優先して欲しい!他の人はどうでも良いから先ず自分。
自分のために奇跡を行って欲しい!自分を一番にして欲しい。
そして、自分の頭に来る奴を滅ぼして欲しい! 自分の敵をやっつけて欲しい。
自分の敵に有利になること、自分の憎い奴が癒される、救われるなんて絶対に許さない!

私たちの中にナザレの人々と同じ思いがあるなら、必ずイエスに対して失望するときが来ます。そしてイエスに対して怒る時が来ます。そしてイエスを殺そうと思うときが来ます。

神は私たちの利益のために、私たちに仕えることはありません。
その逆です。私たちが神の栄光のために神に仕えること、神の定めた目的に向かって歩むことを願っているのです。


神の目的と私たちの目的がズレていること。それが罪です。
罪とはハマルティアー、的はずれであると先週分かち合いました。
自分勝手な目的に生きれば生きるほど、私たちは疲れと空しさを覚えます。
しかし、神の定めた目的に向かって進むなら充実感、喜び、希望があります。

もし私たちが今、イエスに対して失望を覚えるのなら何が原因なのか聖霊様に示してもらいましょう。もしイエスに対して怒りを覚えるのなら、自分の願いが神の願いと違っていないか示してもらいましょう。

自分を第一にする目的を捨てて、神が定める目的に向かって進みましょう!
そこにこそ愛と一致、喜びと平安があります。

私たちがイエスに怒りや失望を覚えているなら、直ぐにその場で気付いて下さい。
自分は神と別の道を歩み始めていると!しかし、まだ希望があります。
その場で直ぐに悔い改めるのです。悔い改めるとは神の方向に向きを変えることです。
軌道を修正するのです。早ければ早いほど、良いです。

悔い改めを先延ばしにしていると、やがてイエスへの失望も怒りも何も感じなくなります。
やがて神さまに対してなんの関心も、なんの感情も無くなってきます。
そうならないうちに、私たちは悔い改めましょう。

「しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。」:30節

去年イスラエルに行ったとき、ナザレのそばをバスで通りましたが訪ねませんでした。
ツアー・リーダーのピーター塚平さんはナザレはイエスを記念する教会堂が在るだけで、アラブ人の町になっていると説明してくれました。
新約聖書ではこの記事以外にナザレは登場しません。その後の教会史でもナザレは登場しません。今日のイスラエルでもナザレはアラブ人の町であって、普通の町です。
イエスが30年近く過ごされた町です。母のマリヤや新約聖書の一部を書いたヤコブもユダもこのナザレの出身です。しかしイエスはナザレを出て行ってしまったのです。

何を言いたいのか?つまり、過去が大切なのではなく今、神とともに歩んでいるかが大切なのです。そして神が進む方向に自分も進んでいるかが大切なのです。
イエス様とともに歩みましょう!自分の利益と反していても、神の目的ならば行いましょう。自分が第一にされなくても、神を第一に歩みましょう!