「主にかなった歩みの実践!(後半)」
書箇所:コロサイ3章18節から4章6節
牧師 小林智彦

「また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」:コロサイ1章10節

今週もパウロが祈り求めている「主にかなった歩み」を私たちの生活のなかで、どのように適用していくかを学んでいきましょう。
今週は③家庭(3章18節から21節)において「主にかなった歩み」とは何か?
その適用を学びましょう。

聖書朗読:まずコロサイの3章18節から4章1節までの箇所を見てみましょう。

○全ての関係において、「従う」ことが強調されていることが分かります。
私たちには苦手な言葉だと思いますが、パウロはあらゆる関係において「従う」ことを強調しています。「夫に従いなさい(18節)」「両親に従いなさい(20節)」「地上の主人に従いなさい(22節)」。

「従う」ことが「主にかなった歩み」なのでしょうか?答えはYES!です。
私たちは私たちの主がどのように歩まれたかを思い出すなら、「従う」ことがどれほど大切なのかが分かると思います。イエスはいつも天の父に従われました。
イエスが天の父なる神に従われたので、私たちは救われて神の子になったのです。
イエスの従順が救いをもたらしました。

しかし、その逆にアダムとエバは神に対して従いませんでした。
神の言葉に対して逆らったのです。食べてはならないと言われた木の実を食べました。
神の言葉に従わなかったのです。その結果、罪が私たちを支配するようになりました。

この罪の支配から私たちを救ったのはイエスです!イエスの従順が私たちに救いをもたらしたのです。そしてイエスの従順が私たちの模範なのです。
このことをまず覚えてから、それぞれの箇所を学んでいきましょう。
【家庭において:主にかなった歩み】

3:18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
3:19 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。

このみ言葉に不快感を持たれる人は少なくないと思います。
「従う」、「従順」という言葉に対してアレルギー反応を起こす人もいるでしょう。
なぜでしょうか? 大きな原因の一つは罪と罪のもたらした呪いがあります。

アダムとエバが罪を犯した時、神から呪いが掛けられたことが創世記に書いてあります。

「女にはこう仰せられた。『わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。』」:創世記3章16節

これは罪がもたらした、呪いを受けた夫婦の関係です。
妻には出産に伴う苦しみが与えられ、「夫を恋い慕うが、支配される」ようになった。
「夫を恋い慕う」と言う言葉は、何か良い響きもありますが、そうではないようです。
同じ言葉が創世記4章7節ではこのように使われています。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
これはカインに向けて語られた言葉です。罪がカインを恋い慕っているのです。
つまり「恋い慕っている」とは純粋に相手のことを思いやると言う意味ではなく、「自分の思い、願望に相手を取り込もうとする」という意味であると言えます。

妻は夫を自分の願いに取り込もうとし、夫はエバの勧めに従って罪を犯した過去があるので、妻の言うことは聞きたくない。コミュニケーションを無視して力で支配する。
夫も妻もどちらも自分が正しいと思い、決して謝ることをしない。
世界で初めの家庭はこのような家庭でした。カインもアベルも、それに続く全ての子ども達もこのような親を見て育ち、模範として同じような家庭を築いてきたのです。

妻が夫を自分の願いに取り込もうとする、このことに納得がいかない人もいるでしょう。もう少し説明すると、女性は本能的に受け入れる、保護する、守ることを大切にします。
しかし男性は全く逆です。戦うこと、攻めること、切り離すことが本能なのです。

ジョン・エルトリーチという人が「Wild at heart」のなかで、男性は三つの目的のために造られたと言ってます。


①戦いのために造られた。戦いの欲求がある。絶えず何かを打ち壊したい。
②冒険するために造られた。危険を冒しても何かを探し出したい。
③美しい女性を救い出したい。(?)この対象が妻だけなら健全ですね!

これが男性の中に深い欲求として存在するというのです。
男性のこの欲求を押さえ込もうとすると大きな問題が発生します。
男性からこの欲求を取り上げ、押さえ込むなら、男らしくない男性になってしまいます。
男性から戦う欲求を取り上げたなら、社会の悪に対して戦うことが出来なくなります。
自分の幸せだけを願い、大切にする男性は男らしくありません。
冒険することを避ける男性も、男としての成長が止まっています。
妻を心から愛し、妻を助ける喜びを知らない男性には生きる喜びがありません。

日本の家庭はアダムとエバの呪いに満ちていると私は思います。
アダムとエバの悪い性質がそのまま受け継がれていると思います。
アダムはどのような夫だったでしょうか?アダムはエバを「支配することになる」とあるように一方的で、力任せ、コミュニケーションが欠けているように思われます。
そしてアダムはもともと無関心なところがあったようです。
なぜならアダムは蛇がエバをそそのかしていた時も何も注意しませんでした。
大切な時には家にいない夫。大きな問題を抱えているのに無関心な夫。
問題が起きて、どうしようもなくなってから妻の責任にする夫。
これがアダムの中に見られる性質です。 私たちの中にはありませんか?

エバの呪いは何でしょうか?エバの性質は「恋い慕う」性質です。全てを自分の保護の中に取り込もうとする性質です。そして夫も子ども達も同じ性質に取り込もうとします。
夫も、そして男の子からも戦う欲求、冒険する欲求が抑え込まれてしまいます。
そうなると反発して家を出て行く夫、反発して家を出て行く息子、もしくは優しくて頼りにならない夫、引きこもりの息子が生まれることになります。

これが今の日本の家庭の姿ではないかと私は思います。
仕事が忙しいことを理由に家庭に無関心な夫、しかし失敗すればしつこく責め立てる夫。大切な子どもをどう育てたら良いのか分からずにオロオロする妻。ただ子どもの幸せを願って安全な道、保証されている道にヒステリックなまでに進ませようとする。

これらはみなアダムとエバの古い性質が私たちを縛っているからなのです。
この古い性質と呪いから私たちは解放されなければなりません。
イエス・キリストの十字架の死は私たちの古い性質と呪いを断ち切る力があります。
そしてイエスの復活は私たち信じる者に新しい性質に生かす力を与えるのです!
イエスを救い主として信じる私たちには、聖霊によって新しく生きる力が与えられます。

キリストにある新しい人、主にかなった歩みはの実践がこのみ言葉の中にあります。

「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」コロサイ3章18.19節

まず夫からイエスにある新しい人として歩まなければなりません!
アダムの呪いである「支配」を十字架に付けて、自分の家庭から放棄しましょう。
コミュニケーションを無視した暴力!力づくで従わせることを全て捨て去りましょう!

アダムはエバに正確に神の言葉を伝えていませんでした。そして神の言葉に真剣ではありませんでした。夫はまず神の言葉を正確に覚え、そして生きなければなりません。
そして神の言葉をまず妻に、そして子ども達に愛の実践とともに伝える(コミュニケート)ことです!これがキリストにある家庭の土台になります。
夫が神の言葉を実践、愛を行い、愛を分かち合っていたら妻は自然に従って来るはずです。

神の言葉をその生き方とともに伝えないで、無理矢理に自分の思いに従わせようとするところに悲劇が生まれるのです。この古い性質、生き方を捨てましょう。

そして「つらく当たってはいけません」とあるように、何か家庭で問題が起きたなら妻のせいにしないで、自分の責任として受け止めることです!
アダムは自分が禁断の木の実を食べたのはエバが悪いと、エバのせいにしました。
責任を放棄したのです。アダムは家庭の主人ではなくなり、暴君になったのです。
イエス・キリストは自分では一度も罪を犯したことがないのに、全ての人の罪を自分のものとして背負われ、罰を受けられました。だからキリストが主の主なのです。
家庭の問題の責任を夫が背負わないで、妻の責任するなら家庭の主人にはなれません。
妻の過ちも、子ども達の過ちも夫が進んでその責任を背負う時、キリストにある愛の家庭、愛の秩序が建て上げられるのです。これが従順が回復するための土台です。

そして妻は夫にあるキリストの姿、神のイメージが回復することを願わなくてはなりません。正義のために戦うこと、真理を見つけるために冒険することを押さえ込んだり、奪い取ってはなりません。自分の性質とは違っていても、それを理解し励ますことが大事です。

アダムが神の言葉を正しく伝えなかった、アダムが無関心だった、アダムが責任転嫁した、これが罪を犯す土台になったのです。
新約聖書の第一コリント15章にはイエス・キリストは最後のアダムだとあります。
最初のアダムは私たちに肉体の命を与えました。しかし、それとともに罪深い性質も与えました。しかし、最後のアダムであるイエス・キリストは永遠の命と、新しい神の子としての性質を与えたのです。私たちはイエスにあって神の子です。イエスが歩まれたように歩みましょう。神の言葉を正しく伝え、自らがまず愛を行いましょう。キリストが罪を背負われたように、妻の過ちも進んで夫が背負いましょう。進んで責任を取り、聖書的な原則を自ら行って見せるのです。そうするなら必ず妻も子どもも付いて来るはずです。
その時、キリストにあって家庭が生まれ変わり、実を豊かに結ぶ場に変えられます。