「コロサイ教会に忍び込んだ異端②」
聖書箇所:コロサイ人への手紙1章1節から14節
牧師 小林智彦

【パウロの祈り】

今週も先週に引き続き、コロサイ人への手紙から恵みを分かち合いましょう。
コロサイ人への手紙では、1章9節から12節にかけてのパウロの祈りが重要です。
この祈りの中にコロサイ教会の問題を解決する答えが書かれています。

先週は9節でパウロが祈り求めている「霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように」を分かち合いました。

コロサイの教会に忍び込んだ異端は、非常に知的で、この世的な意味において霊的でした。
しかし彼らはイエスの神性を否定し、福音信仰の土台を覆してしまいました。
これが異端の手口です!知的な魅力的な姿でやって来て、イエス様を否定させるのです。

しかし霊的とは本来はどのようなものであるのかを先週学びました。
もっとも霊的な人とはイエス様です!イエスは真理に歩まれ、愛を実践しました。
これが聖書が教え勧める霊的な生き方です。とてもシンプルで分かり易いですね。

そして霊的な理解力とはUnderstand!神の言葉の下に立つことでした。
神の言葉である聖書の上に立って、み言葉が正しいか間違っているか?
これが人間的な理解です。しかし、み言葉の下に立つ者は神の言葉をそのまま受け入れ、聖書の下に自分の人生を建て上げます。これが霊的な理解力であることを学びました。

今週はパウロのふたつ目の祈りについて学びましょう。

「また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」(10節)

主に喜ばれ、主にかなっているか、どのようにして知ることが出来るでしょうか?
主に喜ばれ、主にかなった歩みは、その結ぶ実を通して判断することが出来ます!

コロサイ教会は始めは正しい福音の基礎の上に建てられ、天にある希望に満ち、愛に溢れて信仰生活を歩みました。信仰・希望・愛に満ちていた時、福音の恵みが多くの人に伝わり、喜びと感謝に満ちた礼拝の生活を送っていたのです。豊かな実を結んでいました。

しかし異端が入り込み、信徒達は異端の知的な教えと禁欲主義、神秘主義的な宗教行為に騙されてしまいました。そちらの方が残念ながら魅力的に見えたのでしょう。
その結果コロサイの信徒達は、主に喜ばれず実を結ばない歩みに陥ったのです。

パウロはコロサイの信徒達が信仰深そうに見えるけれども、何の実をも結ばない霊的病気に対して、主に喜ばれ実を結ぶ歩みに戻るように切に祈り願っているのです。

皆さん!私たちもコロサイの教訓から学びましょう。
私たちは実を結び、主に喜ばれる、主にかなった歩みを求めているでしょうか?
それとも人に喜ばれ、誉められ、スゴイ!と言われる歩みを求めてはいないでしょうか?

【人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれきらわれます】

イエスはこのように言われました。

「人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれきらわれます」ルカ福音書16章15節

私たちは神ではなく、人の顔色を伺って生きると信仰・希望・愛の実は結べません。
善を行い、真理に歩む時、私たちは必ず反対され、反発され、憎まれるからです。
イエスがこの時代に現れても、同じように人びとは十字架に付けたでしょう。
皆さん、私たちはこのイエスの弟子です。

神を喜ばせるのか?人を喜ばせるのか?
祈りの中で私たちは自分の古い性質、神よりも人に喜ばれたい、受け入れられたい、誉められたい、これらの思いに打ち勝たなければならないのです!

神より人から誉められたい、神より人に喜ばれたい、神より人に受け入れられたい!
この思いに私たちが聖霊によって勝利しない限り、コロサイに忍び込んだ異端、悪霊の惑わしに簡単に引っかかってしまいます。

人よりも神に誉められたい!人よりも神に喜ばれたい!人より神に受け入れられたい!
聖霊によってこの願いに満たされることです。聖霊に求め続けることです。
なぜなら真理を行う者は必ず対立と衝突に会い、虐めや無視、のけ者にされるからです。
人の顔色を伺い、回りの意見に振り回される私たち日本人にはこれが一番の恐怖です。
だからクリスチャンの数が増えないのが分かります。
確かに自分の力や頑張りだったら、この圧力に勝つことは出来ません!
だから祈りを通して聖霊に助けてもらうのです!聖霊の力を求めるのです!

日本の和を大切にする文化は素晴らしいです。しかし真理を覆い隠す時があります。
神の真理よりも、回りの人との和、世間体を大切にするからです。
これを突き抜ける力は聖霊から来ます!頑張りや努力ではありません。
頑張りや努力だけで和を突き抜けるなら、ただのアウト・サイダー、変人です。

しかし御霊の力で和を突き抜けるなら、神の真理に人びとを導くことが出来るはずです。
神のみ恐れ、人の顔色を恐れることから解放されるなら、そこにあるのは愛と自由です。
この日本を救うのはキリストにある愛と自由だけなのです!
そしてキリストの愛と自由があるところには、異端の活動出来る場所は残されていません。

聖霊によって人よりも神に受けいられ、人よりも神に喜ばれ、人よりも神に誉められる歩みを求めましょう! その結ぶ最初の実は愛と自由です!

【コロサイ教会に忍び込んだ異端の特徴②】

「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」:コロサイ2章16.17節

何が信仰深い飲み物、食べ物なのか?これはユダヤ教の祭りに関することだと思いますが、新月祭や安息日の守り方について、こと細かく理由を付けながら規則を作ったのでしょう。
異端信奉者達は自分がいかに敬虔で、神を敬っているかを人に見せびらかしていたのです。それを認めてくれない人たちには議論を仕掛けて認めさせていたのです。
そしてコロサイの信徒達も、彼らの偽善な宗教行為に巻き込まれていったのです。

しかしパウロは異端が強調する教ええに対し、それらは影であって、本体はキリストにあると真理を示し、コロサイ信徒達の霊を覆っていた嘘を取りのけたのです。

これは私たちが陥りやすい罠です!

例えば飲み物について考えてみましょう。アルコールの問題が考えられます。
確かにお酒を飲み過ぎるなら酔っぱらい、健康にも害をもたらすでしょう。
飲み過ぎは確かに信仰生活にも悪影響をもたらすと言えます。
そこで今まで飲み過ぎたクリスチャンが、思い切ってアルコールを飲まなくなった。
そうしたら健康も回復し、冷めた頭で聖書も良く読めるようになった。
ここまでは良いことです。しかし、人間的な行き過ぎでクリスチャンは酒を飲んだらダメ!
これを教会の規則にしましょう!と言うことになったらどうなるでしょうか?
確かにそういう規則を作っている教会もあります。
規則を作ると何でもおかしくなるのが、罪深い私たちの弱さです!

これがまた行き過ぎて、敬虔なクリスチャンは酒を飲まない!と言うことになるからです。
酒を飲むクリスチャンはダメなクリスチャンと言うことになってしまうのです。
いつの間にかイエス様から目が離されて、行いに目が行ってしまうのです。
そして信仰生活の目的が禁酒・禁煙、禁パチンコなどキリストを求めることから離れていきます! そうです、もう罠にはまっているんですよ。

酒を飲むか飲まないか?たばこを吸うか吸わないかなどは影でしかないのです!
本体はイエス・キリストです!イエスを愛し、イエスに喜ばれたい、イエスに受け入れられたい、この思いこそ大切なのです!
イエスを求めて歩む時、自分には妨げになっていると思うものを取り除けば良いのです。
妨げるものを取り除くことが目的ではなく、目的は主にかなった歩みをすることなのです。

「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。」:コロサイ2章18.19節

「御使い礼拝」、「幻を見たこと」については具体的な内容は分かりません。
多分何か神秘的な霊体験、オカルト行為だったのではないかと考えられます。
これも私たちの古い性質に訴えかけてくる力が確かにあります。

天使を肉眼で見た!とか、神を直接見た!聖書にないお告げを直接受けたと言うのは良く聞きます。悪霊の場合もあります。本当に神である場合もあるでしょう。
しかし、聖書は必ず神の言葉である聖書を通して体験を吟味することを教えています。
(参照:第一コリント14章26から33節、第二ペテロ1章19から21節)

私たちは神とその言葉よりも自分の体験を誇りやすい者です。
教会の徳を高めるためではなく、自分がいかに優れているかを誇りやすいのです。
そして、その霊的な自慢を聞いた人たちは妬みから自分も霊的な不思議な体験を求め出したり、自分のために奇跡を求めたりします。しかし、それら全てはキリストを求める心から出ているのではなく、人から誉められたいと言う間違った動機から出ています。

神よりも人に喜ばれたい、人に受け入れられたい、人に誉められたい!
神よりも影(戒め・規則)を求めてしまう!神よりも影(律法・定め)に認められたい!
この思いが異端を産みだし、異端に騙される原因なのです。

「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、『すがるな。味わうな。さわるな。』というような定めに縛られるのですか。」:コロサイ2章20.21節

行いではないのです!キリストを求めキリストとつなぎ合わされることが解決です。
私たちを愛し、私たちの罪の赦しのために十字架で死なれ、私たちを義とするために蘇られたイエス・キリストに、その死と復活に信仰によってつなぎ合わされることが解決です。

神よりも人に喜ばれたい、人に受け入れられたい、人に誉められたい、これが私たちの罪深い性質、パウロが言う古い人です。この性質に死ななければ解決はないのです。
この性質に死なない限りいつまでも「この世の幼稚な教え」に振り回され、規則に縛られ、キリストにある本当の解放と自由を体験することはないのです。

「そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」:コロサイ2章22.23節

神よりも人の目!神よりも影!(戒め・規則)。
この古い性質が死ななければ、どんなに厳しい修行を行い、善行を行い、聖書を学んでも、根本的な変化、すなわち内面の変化はないのです!

「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」:コロサイ3章9.10節

神よりも人に受け入れられたい!人に喜ばれたい、誉められたい!この古い性質、この罪深い性質に死ぬことです。人からの賞賛を求める自分はキリストともに十字架で死んだことを信じるのです。聖霊によってキリストの十字架に結び合わされることを求めましょう。

私たちはキリストを信じる信仰によって新しい人に変えられたのです!
新しい人とは「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結(ぶ)」人です。人よりも神を喜ばせる人です!
そしてキリストの復活の力により、信じる者は誰でも新しい人として生きられるのです!

頑張りではなく、努力でもなく、演じることでもない。ただイエスを信じる信仰によって働く聖霊の力によって、新しい人、新しい性質に変えられることを切に求めましょう!

新しい人はいつでも神に喜ばれることを願います!
何が神に喜ばれ、受け入れられることなのか!それを求め聖霊によって行う人が実を結ぶ人、キリストにある新しい人です。