「コロサイ教会に忍び込んだ異端①」
聖書箇所:コロサイ人への手紙1章1節から14節
牧師 小林智彦

【絶えずあなたがたのために祈り求めています】

「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。」(9節)


パウロはエパフラスからコロサイ、そしてラオデキヤにある教会の報告を受けました。
その報告は先週学んだように、彼らが天に基づく望みの故に愛に溢れていることでした。パウロはこの点に関しては父なる神に心から感謝を捧げています。
しかし、エパフラスの報告は良いことだけではありませんでした。

「あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。」:コロサイ2章1節

「私がどんなに苦闘しているか」とパウロは強い表現を用いています。
エパフラスの報告の中には、パウロを苦しませる教会における問題が含まれていました。
その問題とは福音を歪ませ、人々の心をキリストから離れさせる異端の教えがコロサイ、そしてラオデキヤの教会に侵入してきたことです。

この異端がどのような異端であるかはハッキリしません。しかし2世紀から4世紀にかけて教会を攻撃したグノーシス主義と呼ばれる異端の教えに、とても近いものがあります。

コロサイ、そしてラオデキヤの教会は1章6節にあるように、正しく福音を聞き、そして正しく理解した時に大きく成長し、天にある希望と聖徒達に対する愛に満たされました。しかしその理想的な教会が、忍び込んできた異端のために間違った方向に進みつつある。これがパウロ、そしてエパフラスを苦しませた原因なのです。

パウロそしてエパフラスはコロサイとオデキヤの教会の為に祈りました。
それが一番始めに朗読した聖書の箇所になります。9節から12節が祈りの内容です。
コロサイ人への手紙の一番大切な箇所は、この祈りです。ここにポイントがあります。

9節と10節には二つの祈りがされています。
しかしその願いは同じです。「神のみこころに関する真の知識」(9節)「神を知る知識」(10節)に「満たされるように」(9節)と「増し加えられますように」(10節)。
つまり「神の真の知識」にコロサイ、ラオデキヤの人々が満たされるように求めています。

そして一つの願いに対し、二つの祈りがされているのは、二つの手段によって「神の真の知識」に満たされるようにと、二つの正しい手段について祈っているのです。
その二つの正しい手段の一つとは9節にある「霊的な知恵と理解力によって」です。
もう一つは10節にある主に喜ばれ、実を結ぶ「主にかなった歩みをして」です。

このグノーシス主義に似た異端は、それまで健全に成長してきたコロサイ、ラオデキヤの教会の正にこの部分を歪ませてしまったのです!
異端は正しい「霊的な知恵と理解力」ではなく、歪んだ形の「霊的な知恵と理解力」を吹き込みました。そして異端は主に喜ばれ実を結ぶ「主にかなった歩み」を、主に喜ばれず実も結ばない、おかしな宗教儀式・宗教行為に人々を走らせたのです。

その結果、今までは福音の真理に堅く立ち、信仰・希望・愛で満ちていたコロサイの教会が喜びと感謝、すなわち礼拝の心を失ってしまったのです。

それ故にパウロは三つ目の祈りで「光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」
と心からの礼拝、すなわち霊的な礼拝の回復を求めて祈っているのです。

喜びと感謝に満ちた、心からの礼拝、それが回復されるには「神の真の知識」に満たされることです。そして「神の真の知識」は正しい「霊的な知恵と理解力」と「主に喜ばれ、実を結ぶ主にかなった歩み」がもたらすのです。

礼拝、それは神さまとの和解、そして交わりです!
私たち人間は本来、神を礼拝するために創られた存在です。
私たちの成長・成熟のゴールは心から神を礼拝することです!礼拝は私たちの使命です。

喜びと感謝に満ちた心からの礼拝、それは強制や義務、頑張りでは出来ません。
それを可能にするのは「神の真の知識」です。
そして「神の真の知識」を満たし、増し加えるのが「霊的な知恵と理解力」であり、主に喜ばれ実を結ぶ歩み」、つまり生活なのです。

私たちは喜びと感謝に満ちあふれた礼拝を捧げ、自分の造られた目的に生きるために、この二つを心から主に求めていきましょう。パウロが切に祈ったように、私たちも切に祈り求めましょう。

コロサイ・ラオデキヤの教会はこの大切な部分が異端によって攻撃され、間違った方向に進みました。異端はどのような嘘でこれらの教会を狂わせたのでしょうか?
また異端はどの時代にも変装を繰り返しながら教会に潜り込んできます。
私たちの内にもコロサイ・ラオデキヤの教会がだまされた嘘が入り込んでいないかを吟味してみましょう。

【コロサイ教会に忍び込んだ異端的な教えの特徴①】

「私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。」(2章4節)
「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。」(2章8節)

異端が用いたのは、「まことしやかな議論」と「だましごとの哲学」です。
これらは「この世に属する教え」で「キリストに基づく」ものではありませんでした。
つまり、キリストが神であることを否定する教えでした。
また「だれのとりこにもならぬよう注意しなさい」とあるように、キリストではなく異端の教えを伝えるグループを崇拝させる教えでした。
この異端は知的な変装をしてやって来てイエスの神性を否定し、人びとの心を神から離れさせ、人間を崇拝させる教えだったのです。

私たちは知的な議論に弱いところがありますね。私だけかも知れませんが。
日本人は学歴や知的なものにコンプレックスを抱いている人が多いと思います。
高学歴な人ほど、学歴にコンプレックスを持っていると聞いたことがあります。
日本人は勤勉ですから、かえって知的なものにコンプレックスを持ちやすいのかも知れません。コロサイ教会のような異端にだまされやすい性質を持っているかも知れません。

ここら辺を上手く利用した新興宗教は日本で爆発的に伸びています。
日本人は救いを求めています。本当は神に飢え乾いているんです!
しかし、ただ神にすがりつくのは知的なプライドがそれを許さない。
だから日本人は知性に裏付けられた宗教を求めています。

幸福の科学と言うように、宗教と科学が一緒になったような宗教は急成長です。
またオウム真理教も犯罪を率先して行っていた幹部達はほとんどが高学歴でした。
分かり易い宗教、頭で理解出来る神さまなら飛びつくんだと思います。

しかし、そこには神の知恵はありません。真の神の知識は満たされません。
人間の有限な知性を持って理解出来る神は、人間の知性よりも劣る神です!
それは人間が手で作った偶像のように、単に知的な産物であり、偶像には変わりません。

キリストの神性を否定する教えは、どんなに知的であっても人間の知恵であり、だましごとの哲学に過ぎないのです。
人間の知性は重要です。しかし、神は人間の知性を遙かに超えた方であることを認めなくてはなりません。

イエス・キリストが完全な神であり、完全な人である。このことは人間の知性では理解出来ないことです。これを上手く人間的に説明した時、異端が生まれるのです。
三位一体もそうです。人間の知性では理解出来ないことが聖書には含まれています。

パウロは異端に悩まされているコロサイの信徒達に「あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように」と祈り求めました。
霊的な知恵と理解力が大切なのです。人間レベルの知恵と理解力ではないのです。

霊的な理解力とは何でしょうか?それはまさしく英語のUnderstandです。
Underとは「何々の下に」を意味します。Standは「立つ」です。
霊的な理解も同じです。つまり神の言葉の下に立つことが霊的な理解です。

イエス・キリストは完全な神、万物の創造者であり、完全な人となられた。
人間の理解力、知性を真理として、み言葉の上に立つなら「二つの100%違う性質のものが、その性質を保ったまま同時に一つであることはあり得ない。これが真理であるから、キリストが完全な神であり、完全な人であることは矛盾である。聖書は信じられない」という答えになるでしょう。
もしくは「聖書は確かに歴史的に偉大な成果をもたらした、だから聖書の価値は認める。だがこの箇所は矛盾しているから、この箇所は間違いであり、それ以外の理解出来る範囲内だけを信じよう」となるはずです。どちらも異端であり、信仰ではありません。

霊的な理解力は神のみ言葉の下に立つことです!
イエス・キリストは完全な神、万物の創造者であり、完全な人となられた。
聖書がそのように語っているのだから、私はこの言葉をそのまま受け入れます。
そしてこの言葉を真理として、神と信仰を理解しよう。これが霊的な理解力です。

自分の信仰を吟味してみましょう。自分がみ言葉の上に立ち、人間的な知恵と理解力で聖書を理解して、その結果に自分に都合の良い宗教を造り上げていないか?
神のみ言葉の下に自分が立ち、霊的な知恵と理解力によって神を知ろうとしているか。
自分の信仰を吟味してみましょう。キリストの言葉が自分を捉えているか?
自分の知恵、また人の教えが自分の心を捉えていないか吟味しましょう。
そして何よりもあらゆる霊的な知恵と理解力によって神のみこころに関する真の知識に満たされるように祈り求めましょう。