「私たちに現された永遠のいのち」
小林智彦 牧師
聖書箇所:第一ヨハネ1章1.2節

【私たちに現された永遠のいのち、イエス・キリスト】

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、―このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。― 」 第一ヨハネ1章1.2節

イエス・キリストは今から二千年前に私たちに永遠のいのちを与えるために現れました。
永遠のいのちとは何でしょうか? 永遠のいのちとはイエス・キリストのことです。
ヨハネはイエスが始めから居られたことを私たちに伝えています。
ヨハネは福音書でも、この第一の手紙でも繰り返して、イエスが始めから居られたことを伝えています。 始めとは何の始めでしょうか?
始めとは全ての始めです。天と地とそれに満ちる全てが存在する前のことです。
時間も空間も無い、私たちには想像することが出来ない次元です。
全ての物質が存在する前に、しかしこの方だけは居られたのです。
それが父・子・聖霊なる、三位一体の神です。
この唯一の神によって、天も地もそれに満ちる物も全てが創造されました。
いのちある全てのものは、この神からのいのちを受けて生きるものとなりました。

人間も神が物質を持って形作られ、いのちの息を吹き込まれて生きるものになったのです。
全てのいのちは、神からいのちを受けて生きるものになりました。
神こそがいのちの根元なのです。
イエス・キリスト、そして父と聖霊は共にいのちの根元、永遠のいのちなのです。

このいのちが私たちに現れたのです!

私たちは神からいのちを受け、永遠に神とともに生きるものとして造られました。
しかし罪が私たちを神から引き離しいのちを失い、いつかは必ず死ぬものになったのです。私たちは罪と死の奴隷となり、死の恐れと罪の責めを抱える者になりました。

しかし、いのちの根元である神が私たちを無条件に愛し、憐れみ、罪と罪のもたらす滅びである死から私たちを解放するために現れてくださったのです!

イエス・キリストは私たちを、私たちを滅びから滅びへと向かわせる罪を十字架として背負われました。キリストは私たちを罪と死から解放するために、この十字架の上で罪を滅ぼし、その復活をもって死を無意味な物とされたのです。
イエスを救い主として信じ受け入れる者には罪からの解放と赦し、そして永遠のいのちと神との和解が与えられるのです!

【キリストのいのちを体験しよう】

ヨハネはこのように言ってます。(ヨハネ福音書3章16節)

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

罪のない神の一人子が私たちのために十字架を背負われたのは、イエスを救い主と信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためであると。

私たちが再び永遠のいのちを得ることは、神が願っておられることでです。
ひとりの例外もなく、神は私たちに永遠のいのちを受け取って欲しいのです。
その為に神は十字架の上でご自身のいのちを私たちに分かち合われたのです。

もし、あなたがイエスを信じているのなら確かにこの永遠のいのちはあなたのものです。イエスを信じる全ての人の中に、確かに永遠のいのちは与えられているのです!

ヨハネはこの永遠のいのちを「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの(1節)」と私たちに紹介しています。

ヨハネはこの永遠のいのち、イエス・キリストを体験として知っていたのです。
そしてイエスはヨハネが体験したように、私たちもいのちを体験することを願っています。
私たちはどうしたら?ヨハネのようにイエスを体験することが出来るのでしょうか?

イエスに心を開いて救い主として迎え入れたように、イエスを求め続け、イエスに心を開き続けるなら、イエスにあるいのちは私たちを豊かに満たします。
イエスに心を閉ざすなら、イエスとの交わりは止まり、いのちの流れが止まります。
イエスを求め続け、イエスに心を開き続けること、これが鍵です!

ヨハネはイエスを主として信じ、イエスに従い続けました。
イエスがこの世で活動された三年半、大勢の人がイエスを見、イエスの言葉を聞きました。しかしイエスをいのちとして体験したのはヨハネと他の使徒たちだけでした。
彼らはイエスに心を開き続けたからです。
イエスに心を開き、イエスのいのちが溢れんばかりに彼らを満たしたのです。
イエスを求め、心を開き続けましょう!私たちも豊かにイエスのいのちを体験しましょう。

私たちをいのちで満たすのは神のなさることです。
そして神は御子を十字架に付けるまでして、私たちをいのちで満たしたいと願っています。
私たちは十字架に現された神の愛を信じ、ただ心をイエスに開き、待ちましょう!

神からのいのちを受けるために、私たちは頑張らなくて良いのです。
私たちは神を信頼し、心をイエスに開いて待っていれば良いのです。
イザヤは神のいのちを受けて活き活きと歩む信仰者を空高く飛ぶ鷲に例えています。

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」:イザヤ40章28から31節

鷲は自らの力では飛びません。鷲を空高く舞い上がらせる力は上昇気流にあります。
クリスチャンを生かす力も頑張りや努力にあるのではなく、イエスにあるいのちであり、聖霊の力です。 私たちは神を信頼し、神に心を開き、待ち続けるのです。
神の時に、あなたは必ずいのちで満たされ、その歩みは疲れることがありません!

【あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます】


「私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます」(2節)

イエスのいのちを豊かに体験した者は、このいのちをあかしし、伝えたくなります。
私たちの霊・魂の器からイエスのいのちが溢れ流れるからです。

私たちの周りにはイエスのいのちを必要としている人々がたくさんいます。
罪の責めと死の滅びに怯えている全ての人にイエスの解放といのちが必要なのです!

しかし、このイエスにあるいのちは頑張りや努力では伝えられません。
神学や学問、説得や押しつけでは決して魂には伝わらないのです。
ただ私たちが体験し、私たちの霊・魂からいのちが溢れる時、人々に伝わるのです。

このクリスマスの時期、私たちはイエスの誕生の意味を覚えましょう。
あなたを救い、私の罪を背負うために生まれたイエスに心を開きましょう。
あなたを無条件に愛し、赦し、受け入れるために生まれたイエス、あなたをいのちの喜びで満たすために死を打ち破ったイエスに心を開きましょう。
そしてあなたをキリストにあるいのちで満たされる方が、キリストにあるいのちと解放を求める人々にあなたを遣わして下さるように求めましょう。