「赦しの実際的な適用(1)」
小林 智彦 牧師

【教会は信じる者が愛の絆で結び合わされたキリストの体】

教会はキリストの体であると聖書は教えています。
頭はイエスであり、イエスを信じる一人ひとりが結び合わされて教会になります。
教会の土台は神の愛と神の義です。それが正しく書き表されている聖書が土台です。
これらの揺るがない土台の上に私たちは建て上げられています。
それではイエスを信じる私たちを互いに結び合わせる絆は一体なんでしょうか?
私たちを結び合わせる絆は神への愛と互いの愛です。愛が私たちを結び合わせています。

「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」コロサイ3章14節

【愛は赦しである】

私たちを結び合わせる愛については第一コリント13章に詳しく書かれています。
「愛は寛容であり、愛は親切です」と。「寛容」とはパウロは「忍耐強く待つ」という言葉を用いています。愛は相手のことを忍耐強く待つことであるとの意味なのです。
それはイエス様が放蕩息子のたとえ話の中に登場する放蕩息子の父の愛です。
息子のあやまちを責めず、裁かず、自らが気付いて立ち返るのを忍耐強く待つ愛です。
それは赦しでもあります。父は息子を赦していた。
愛と赦しの中に息子は父のもとに帰ることが出来たのです。

本当の悔い改め、心が変えられるのは愛と赦しの中だけです!
責め、裁き、怒り、強制の中では決して悔い改め、心が変わることはありません。
恐れのあるところでは、私たちは心を固く閉ざし、自分自身を隠そうとします。
恐れからは何の良い実も結ぶことは出来ません!
ヨハネは愛には恐れがないと教えています。恐れる者の愛は不完全だと教えています。

愛は赦しであり、愛と赦しのあるところに私たちの心は変えられ、神と神の体に結び合わせられるのです。愛は赦しです。

「愛は親切です」の「親切」も「慈悲深い」という意味の言葉です。
「慈悲深い」というと何か仏教的な響きがありますが、赦しに富むと言うことです。
イエス様が教えられた7を70倍する赦しが、この「親切」な愛なのです。

【赦しを失った教会、家庭は機能しなくなる】

イエスを信じる私たちが愛によって結び合わせられている教会の中で、赦しが失われたら一体どうなるでしょうか?教会の形は留めていても、機能しなくなることは確かです。
私たちを結び合わせている絆が失われたら、私たちの心は一致を失いバラバラになります。

これは家庭にも当てはまることです。これは私の積極的な解釈ですが、家庭も一つの立派な教会です。二、三人でもイエスの名によって集まるところにはイエス様が居られると、イエス様ご自身が約束して下さいました。クリスチャン・ホームは立派な教会です。
そして結婚されている方は良く分かると思いますが、家庭を築き、維持していく上でも大切なのは愛と赦しです。夫婦互いに赦しあい、子ども達を愛し、赦していくことが無ければ家庭は維持出来ません。 

赦しです!愛は赦しなのです! 愛と命の満ちあふれる家庭、そして教会を築き上げるために神はまず私たちを愛し、赦し、受け入れて下さいました。
そしてイエスは私たちに聖霊にあって赦せる力を豊かに与え、また教えておられます。
赦しを学び、赦しを知りましょう。赦されていることを体験し、赦しを実践しましょう。

【聖霊に満ちあふれた教会でも問題は起こり得る】

それでは実際、教会や家庭内における問題において、どのように赦しを実践するのかを見ていきましょう。

その前に一つ言いたいことがあります。それはどんなに素晴らしい教会でも問題は起こると言うことです。問題が無い、問題が起こらない教会が決して良い教会、聖霊に満たされている教会なのではありません。間違った理想的な教会像を持たないようにしましょう。

聖霊に満たされ、あの使徒たちが牧会しているエルサレムの教会でもアナニヤとサッピラのような聖霊も教会もだます事件が起こりました。また食事の配給のことでも問題がありました。 パウロが聖霊の導きで開拓したコリントの教会は聖霊の賜物の顕著な現れが有ったにもかかわらず、スキャンダラスな問題にも溢れていました。

だから聖書的な素晴らしい教会というのは、決して問題や事件の起こらない教会ではなく、どのように神の方法、聖書的な方法で解決していくか、それで決まるのです。

クリスチャンとは罪を犯さなくなった人のことではありません!
自分の罪深さに自分でも気づき、自分ではもう解決出来ず、イエス様だけが解決して下さることを信じる人がクリスチャンです。それ程の罪人が集まったのが教会ですから、当然問題は起こるのです。問題が起こるのは避けられません!しかし、それを聖書の方法で解決していく時、霊的・人格的な成長が起こり、互いの絆は深まっていくのです。

臭いものには蓋をする。このような私たちの常識では何の解決ももたらしません。
愛と赦しを持って、問題に正面から向き合うことが解決をもたらすのです。

では教会に起こる問題に対して、どのように赦し、解決するかを見ていきましょう。

【実際の問題においてどう赦すのか?】

「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」:エペソ4章25から27節

私は自分の体験の中から、教会の中で赦せなくなる理由について心の中を探ってみました。私の中にも教会の中で赦せない人がいました。なぜ赦せないのか?理由を探りました。
その理由がこのエペソ4章25から27節のみ言葉です。このみ言葉が教えていることを行っていなかったからです。また行えなかったからなのです。

このみ言葉は「偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい」と教えています。
そうです!教会の中でも家庭でも、思ったことがズバズバ言えたら怒りは溜まりません。
相手に直接、何でも自分の思っていることが言えたら、心はスッキリします。
そうしたら怒りは溜まりません。怒りは思っていることを言うことで、発散されます。

真実を互いに語り合えないなら、赦しも愛も偽りになり、本当の赦しを体験出来ません。
そしてキリストの体を建て上げることも不可能です。
互いに真実を語り合えるからこそ、心からの赦しが実現されるのです。

パウロは25節に続いて26節では「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」と教えています。
これはギリシャ語の本文では「怒れ!しかし、罪を犯してはいけません」になっています。「怒れ!」とパウロは教えているのです。ただし罪を犯さない方法で怒るのです。

罪を犯す怒り方とはどんな怒り方でしょうか?
それは相手の人格を否定したり、引き下げる暴言を語ること。
また暴力を振るうこと。激しい剣幕で相手の行動をコントロールすることなどです。
このようなことは決してしてはいけません。

罪を犯さない方法で怒ることこそ、憤りや憎しみを溜めないで、赦しと和解をもたらし、本当の共同体を造り上げるために必要なのです。

私たちは相手に不満を持つことが当然あります。
罪を犯さないで怒る方法とは、相手の人格や行為に関して語るのではなく、自分の感情をしっかりと相手に伝える、分かち合うことです。

例えば、親しく話し合おうと思っても、一方的に自分の話ばかりしている人がいます。
段々と怒りがこみ上げてきます。怒りを持つ自分を悔い改めるべきでしょうか?
そんなことは全然する必要はありません。怒りがこみ上げて当然です。
なぜなら相手は一方的に自分の話をすることで、あなたの自由を奪っているからです。
しかし、一方の相手は自分があなたの時間と自由を奪っていることに気付いてない場合もあります。

ここでもしあなたが、「ゴメン時間が無くて、次にまた聞かせて下さい」と言って、嘘を付いてその場を取り繕うならば、あなたの心の中には相手に対する怒りと不満だけが残ります。そして、あなたの中には「あいつは自分の話ばかりしない!」と言う裁きがしっかりと残ります。このようなことが数回繰り返されると、不満と怒りのマイナスエネルギーが心にしっかりと蓄積されて、その人の顔を見ることも、目を合わせて話すことも出来なくなります。

そうなると自分の良心が警告します。あなたはあの人のことを赦していない!愛していないと。罪意識にさいなまれて赦す祈りや、赦す決心をします。
そして相手の一方的な話にクリスチャンの愛と赦しを実践するために付き合おうとしますが、やっぱり怒りがこみ上げてきます。また赦せない自分を赦せなくなります。

このような辛いサイクルを断ち切るには「罪を犯さないで怒る」ことが大切なのです。
結構、簡単です。ハッキリと自分の感情を表現するのです。
「あなたと話していると、自分の話が出来なくなるのでとても不満を感じます。
あなたは私のことをちっとも聞いてくれないので、あなたと話していると寂しいし、楽しくないんです。」 このように言うことが罪を犯さないで怒ることです。

これは自分の感情の正直な表現です。それは決して罪を犯すことではありません。
そして相手の行為を裁くことでもありません。また相手の行動をコントロールすることでもありません。 自分の感情をストレートに表現出来れば怒りは溜まりません。

大抵の場合は、相手は自分が自分の話ばかりしていたことに気付いて謝るでしょう。
その人自身、自分の問題を指摘してくれる人がいなかったので気付かなかったかもしれません。正しくフィードバックすること、思ったことを伝えることは相手の人格の成長につながるのです。

しかし、もし相手が不満を返したり、あなたの気持ちを尊重しないのなら、少し距離をあけることも必要になるでしょう。しかし、あなたの中には怒りは溜まらず、相手に対する憐れみ、赦しの心が生まれてくるはずです。

このように罪を犯さないで怒れるなら、教会の人間関係はスムーズです。
愛と赦しが満ち、互いの霊的・人格的成長のために仕え合うことが出来ます。

【真実を語ることを妨げるもの】

このように適切な方法で直接相手に真実を語り、怒りを発散出来れば問題はありません。

しかし、隣人に真実を語れなくさせるものがあります。一体それは何でしょうか?
間違ったクリスチャン像(偽り)と恐れ(傷)です!
クリスチャンは怒ってはならないと多くの人が勘違いしています。
もちろん罪を犯してしまうような怒りはいけません。
しかし、パウロが教えているように罪を犯さないで、正しく怒ることは良いことなのです。感情を出すことも、もちろん不快感や怒りによって相手を怖がらせることは間違いですが、自然な感情を出すことは不快な感情であっても正しいことです。

しかし、クリスチャンはいつでも謙遜で慎ましく、にこやかでいなければいけない。
嫌なことを言われてもいつも笑顔で受け入れなければならない。右の頬を殴られたら、左の頬も向けなければならない。これは間違った聖書の読み込みが造り上げた不気味なクリスチャン像であって、演技以外の何ものでもありません。
聖書でイエス様がパリサイ人のことを偽善者と呼んでいますが、偽善者とはギリシャ語では「俳優」です。偽善者とは自分の感情、思いを隠して人によく見られようと演じる人のことです。イエス様はパリサイ人の偽善を嫌われました。
イエス様はありのままの私たちを受け入れて下さいますが、私たちの演技や、私たちがよく見られるために被っている仮面は受け入れてはくれません。それは偽りでからです。

愛と赦しは演技では実は結ばないのです!
人から素晴らしいクリスチャンだと思われても、演技だったら何の実も結べません。
空しい偽善のよい子クリスチャンの偶像を捨てて、ありのままに生きましょう。
嫌なら嫌!好きなら好き!イエス、ノーをハッキリ言うことが大事です。
人の顔色を気にしないで、自分の部屋に居られるように安心出来る場所が教会でなければなりません。そして人の顔色を気にしないで、リラックスしてる姿こそがホントのクリスチャン・ライフだと確信します。
演技と仮面を捨てましょう。クリスチャン・ライフは造り笑顔ではありません。
「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい」

【恐れと傷】

不満に思うことがあっても直接相手に言えない、怒るべき時に相手に怒りを伝えられない。
相手への恐れのために、言えないと言う人もいます。本心が伝えられないので、いつまでも相手に対する不平、不満、怒りが増大していき、相手を赦せなくなります。

あまりにもマイナスのエネルギーが増大すると危険です。
切れるという言葉があるように、相手に向かって突然に怒りが爆発する。
これはもちろん正しい怒りの表現でありません。
また怒りの矛先が自分に向けられ場合もあります。アルコールや薬物に走って、内にあるマイナスの感情を忘れようとします。しかし、それらも一時的な解決にしかなりません。

本人に言えなくても、誰か聞いてくれる人、分かってくれる人に自分の本当の気持ちを話すことが大切です。自分が言いたかったこと、感じたことを正直に分かち合うことです。
自分の本当の気持ちを誰かが分かってくれることで、私たちの心は楽になります。
マイナスのエネルギーが発散されます。

しかし、これは本当の解決ではありません。 
本当の解決は、なぜ直接相手に言えないのか?相手に対する恐れが解決しなければ本当の解決にはなりません。ある特定の人に対して、話し辛いと感じるなら、もしくは恐れを感じるのなら、その原因を探らなければなりません。

愛には恐れがないとヨハネは教えています。完全な愛は恐れを閉め出すのです。
恐れを抱く心は固く閉じられていて、神の愛も癒しも拒絶しています。

話しづらく感じる相手、怖い、苦手を感じさせる人がいるなら、きっと昔に、似たような人から精神的、肉体的な傷を受けていることが考えられます。
その昔の傷が癒されていないので、その人、もしくは似た状況になると傷から生まれる恐れが私たちの本音を話せないようにするのです。本音を話さないことによって自分を守ろうとして、怒りが出せないのです、本音が出せないのです。

この話を聞いて、自分に当てはまると思う方はいませんか?
一番深いところに受けた傷が先ず癒されなければ、赦しと解放、真実の愛を結んでいくことを阻みます。この話を聞いて自分に当てはまる!と思った人は解放のために祈りたいと思います。これは祈りを通して聖霊様だけが癒しをもたらすことが出来ます。
カウンセリングは、なぜ自分の心が傷を受けたのかを明確にします。
しかし、癒しは神から来ます。相手を赦せる力も神から来ます。ともに祈りましょう。