「キリストが与える自由」
小林 智彦 牧師

ガラテヤ人への手紙5章1.2節

【キリストだけが私たちの霊・魂を解放し、真の自由を与える】

「キリストは自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですからあなたがたはしっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(1節)

イエス・キリストの十字架の死と復活が私たちに与えた恵みを知ることは重要です。
キリストの十字架の死は信じる者に、罪がもたらす生き方を終わらせることが出来ます。
キリストの復活は私たちに神の子としての新しい性質に生きる力を与えます。
キリストの十字架の死と復活だけが私たちに真の自由に生きるための解放を与えます。

キリストは私たちに自由を与えてくれました!自由に生きるための解放を与えました。
それでは、キリストが与える自由とはどのような自由でしょうか?

キリストが私たちに与えた自由は政治的、経済的、また身体的な自由ではありません。
キリストが私たちに与えた自由は更に大切な自由です。霊・魂における自由なのです!

いま私たちは民主主義の社会に生きています。思想、宗教、政治の分野で自由が認められ、経済に於いても自由競争です。また医学の進歩も私たちを病気から自由にしています。
このように私たちは今までのどの時代よりも自由が認められ保証されているのです。

しかし、多くの人々がこのような自由の時代に生きながらも魂と霊に於いてはいまだに縛られ、本当の自由を手に入れてはいないのではないでしょうか?

私たちの霊・魂は自由の中で喜びと平安、楽しみを得ます。そして限りなく成長します。
また真の自由は真の自己責任と規律を私たちに与えます。
自由と言うと何をしても良いと私たちは考えます。その通りです。
悪いことをすることも自由、そして悪いことを止めて良いことだけを選ぶことも自由です。
ところが、悪いことだけに心が傾き、良いことをしようとしても出来ないのならば、その魂・霊は本当の自由を手に入れているのでしょうか?

政治的、経済的、身体的な自由は素晴らしいものですが、残念ながら、それらが霊と魂の自由を保障するとは限らないのです!
私たちに平安と喜び、限りない成長を与える真の自由を得させるのはキリストだけです!キリストの十字架と復活だけが霊・魂を縛る束縛を断ち切り、解放と自由を与えます。

【私たちの霊・魂を縛るもの、それは律法主義、汚れた良心】

私たちの霊・魂を縛り続けるものは一体何なのでしょうか?
パウロはユダヤ人の霊・魂を縛り続けているものは律法であり、律法を持たないユダヤ人以外の人々は心にある良心が霊・魂に束縛を与えているのだと教えています。

律法を自分の力、頑張りで守り、神の前に完全になろうとする考えを律法主義と言います。律法がなくても、神に頼らず自分の力だけで頑張って生きようとする人も律法主義の中に入れることが出来ます。その時は律法ではなく、自分の内面の規律、良心が聖書の律法と同じ働きをします。(ローマ2:15参照)

キリストは神に頼らず自分の力で神の前に完全になろうとする律法主義から、私たちを完全に解放することが出来るのです!
私たちを責め立てて自分の力で頑張らせようとする律法、耐えず私たちの失敗や、不完全さを責め立てる良心の呵責から私たちを解放することが出来るのです!

キリストの十字架の死と復活は私たちを責める律法、良心の呵責から完全に解放し、私たちの心にまことの自由を与えることが出来るのです。

私たちに完全さを求める律法、良心の声は絶えず、私たちのそう出来ない弱さ、過去の失敗を責め立てます。私たちの心は律法と良心の前に不完全な自分を責め立てられ、また過失がもたらすであろう罰を恐れています。
自分の心が自分を責め、自分を縛り、恐怖で自分を脅かしているのです。

しかし、キリストは律法が要求している全てを私たちに代わって行い、過失に伴う全ての罰を私たちに代わって十字架の上で受けて下さったのです!
それ故、信じる私たちはキリストにあって責めと罰から完全に解放されているのです!

ここにまことの自由が生まれます。
律法と良心の声から責め立てられることから解放され、良心の声を満足させるために生きなくて良いのです。失敗することもキリストにあって自由です。罪を犯すことも自由です。
しかし、私たちの霊・魂は神にかたどられています。
風船を手放したら必ず上に登っていくように、私たちの霊・魂も解放され、自由を得たならば必ず愛を行うように生きると確信しします。

キリストが十字架の死と復活によって私たちに与えた解放と自由を体験しましょう。
このキリストが与えた自由の中に留まり続けましょう。

【割礼を受けるなら、キリストは何の役にも立たない方になります】

「よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。(2節)」
(あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。:新共同訳)

パウロはガラテヤ教会のクリスチャンに割礼を受けないように注意を与えています。
割礼とは律法を守って生きる者の象徴です。
ガラテヤのクリスチャン達はキリストによって律法主義、良心の要求に自分の力で生きる生き方から解放されていたのに、再び律法主義の束縛に帰りかけていたのです。
私たちはキリストが与えてた自由から離れて、昔の考え方、生き方に戻り易いのです。

律法主義とは自分の力、頑張りで完全な人になろうとする生き方です。
また良心の要求を自分で満足させる生き方です。
しかし、このような自分の力を頼って生きる者にはパウロは「キリストは何の役にも立たない方になります」と注意しています。

「キリストは何の役にも立たない方にな(る)」とはキリストの恵み、力、いのちが私たちに与えられなくなると言うことです。

イエス・キリストを信じる者はキリストの恵みによって神の目からは完全であると認められたのです!キリストによって神の子供として神に受け入れられているのです!
既にキリストによって神に受け入れられているのなら、古いキリストが終わらせた律法の条件を満足させようとしなくて良いはずです。
もし私たちが再び律法を、そして良心の要求に振り回されているのなら、それは神に受け入れられるためではありません。何故なら既にキリストによって私たちは天の父に受け入れられているからです。それは天の父ではなく偶像に受け入れられるための努力なのです。
何の偶像かと言うと、それは「完璧主義」という名の偶像です!

実は多くのクリスチャンが「完璧主義」というの名の偶像に仕えています。
もちろんこの偶像に仕えるなら、私たちの霊・魂は束縛を受け、自由を失います。

「完璧主義」の偶像に仕える者は、まず完璧ですから人に弱さを分かち合うことをしません。自分の弱さ、失敗、犯してしまった罪を分かち合うことが出来なくなります。
神と人には、いつも「出来る自分」を見せます。どんなに頑張っても出来なくなる時は、神と人々から逃げて自分を隠します。そして再び頑張れるようになったら出てきます。
完璧主義者は人からの批判や注意を嫌います。自分の中にある偶像を傷つけるからです。

どうでしょうか?私たちの中には完璧主義の偶像はありませんか?
完璧主義の偶像に仕え、キリストの自由と恵みから離れてはいませんか?

キリストの恵み、自由に生きる者は批判や責めから解放されています。
ですから自分の弱さ、失敗、罪を分かち合い、弱さにこそ働くキリストの力を求めてともに祈ることが出来ます。恵みに生きるなら、自分の力で生きるのではないので、自慢や高ぶり、ねたみから解放されます。また自分が不完全なのに受け入れられていることを知っているので、不完全な人を見ても責める気持ちがありません。
そして耐えず、自分の力ではなくキリストの力を待ち望むので、自分は疲れず、キリストの力によって生かされているので驚くほどの成長を体験します。

皆さん、「完璧主義」の偶像に仕えることを止め、キリストの恵みに留まりましょう。

まず、自分を責め立てている内面の声、そして不完全さを責める声に気付いて下さい。
その要求、その責めを全てキリストが十字架の上で終わらせたことを受け入れて下さい。キリストが戦争の終結宣言をされたのです! もう自分で戦わなくて良いのです。
そして完全な天の父が私たちをありのままで受け入れて下さったのです。
天の父、真の神は私たちに完全さを要求していないのです。
私たちに完全さを要求するのは神ではないことを知ってください。
天の父がありのまま私たちを受け入れて下さった、その中に留まって下さい。
いつも自分の心に私はキリストにあって完全だ!と語って下さい。

聖書を読むと、そこには確かに戒めが書かれています。
律法主義者は自分の力でそれを守ろうとします。自分を戒めで束縛します。
しかし神の子供とされた私たちはそのようには読みません。
「今はこの戒めが守れなくても、やがてキリストの命がこの戒めを自然と守れるように私を成長させ、変えて下さる。だから私は楽しみだし、安心だ!」、このように読むのです。

祈ること、聖書を定期的に読むことも成長には大切です。しかしこれら大切なことも、律法主義者はこのように考えます。「あ!聖書を読むのを忘れた。俺はこんな簡単なことも出来ないのか、ダメなやつだ!明日は頑張ろう。」
しかし、恵みに生きる神の子はそのようには考えません。
「あ、聖書を読むのを忘れた。でも神は変わらず私を愛している。毎日神の愛を覚えるために、忘れずに聖書を読める力を神さまにお願いしよう!」

恵みで生きる者は自分の行為で神との関係を確かめることはしません。
行為に頼らせ、完璧な自分を目指して頑張ろうとする束縛に気付くこと。
そしてキリストの御名によって束縛を断ち切ることです!
自分を頼らず、神を頼る者にだけ、キリストは役に立つお方なのです。