「復活のイエスに出会う」
ルカ24章13節~35節
小林 智彦

【おめでとう!イエスはあなたの救いのために十字架に付けられ、復活しました!】

皆さん!主イエス様の復活、おめでとう!これほどおめでたいことはありません。
日本はクリスマスを祝っても、復活祭はほとんど一般には祝われませんね。
残念です。だから復活祭は私たちクリスチャンだけに許された特別な喜びの日です。
思いっきりこの復活祭を祝いましょう!キリストの復活、これほど嬉しい日はありません。
まだ神を知らない人たちが、復活の喜びを不思議に思うほど、妬むほどに喜びましょう。
「なぜそんなに嬉しいのですか?喜べるのですか?」それは素晴らしい証の機会です。
今日はキリストにある兄弟・姉妹、みなキリストの復活を心から喜びましょう!

【エマオ途上の弟子たち】
しかし、皆さんの中には復活の喜びがいま一つ分からない人はいませんか?
そうです!復活ほど分かりにくい、信じにくいことはないですね。
十字架に付けられたイエス様がどうして復活出来たのか?弟子たちの勘違いか?
弟子たちの嘘ではないのか?幽霊だったのではないか?弟子たちの心の中に蘇ったのだ!
キリストの体をもっての復活をそのまま受け入れられず、色々な意見を考える人がいます。
私はそれらの人たちを批判しません。いや、立派だと思います。
キリストの復活を何とか理性的に、合理的に理解しようと取り組んでいるのですから。

「復活を信じられません」と申し訳なさそうに言われる人がいます。
皆さん、イエス様の11弟子たちも始めは復活を信じられませんでした!
トマスはイエス様の脇腹と釘後を見て、その傷跡に指を入れなければ信じないとまで言ったのです。他の弟子たちも、復活のイエスに出会って初めて復活を知り、信じたのです。

「弟子たちは良いなあ!ずるい!私たちも、復活したイエス様を見れば信じられます!」
この様に思っている人いませんか?「神を見ることが出来たら信じます。」よく聞きます。皆さん、本当に神を見たら信じられますか?復活のキリストに出会ったら信じますか?

「イエスは彼(トマス)に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」:ヨハネの福音書20章29節

神はなぜ今、その姿を隠しているのでしょうか?それは見ずに信じる者が幸いだからです。皆さん、イエス様は実際に世に来られ、直接、み言葉を伝えられたではありませんか?
当時のイスラエルの人たちはイエスを直接見たのです。奇跡も見、体験したのです。
しかし、どれだけの人が信じましたか?ペンテコステの日に祈っていた120名だけです。

肉の目で神を見、奇跡を見ても、心の目で神を見ないなら、その信仰は空しくなります。
しかし、肉の目で神を見なくても、心の目で確かに神を見るならばその信仰は幸いです目に見えるものは一時的であり目に見えないものだけが永遠なのです
どうしたら目に見えない神を信じることが出来るのか、心の目で神を見ることが出来るのか、エマオに向かっていた弟子たちの話から学びたいと思います。

【エマオ途上の弟子たち】

イエス様が復活した日、イエス様は復活した栄光の体をもって、エマオに向かって歩いている弟子たちに姿を現しました。皆さんが望んでいるシチュエーションですね。
復活したイエス様を見たい!生ける神をこの目で見たい!
この弟子たちは素晴らしい特権に恵まれたのです。どんなに素晴らしいことでしょうか!
「イエス様!復活おめでとう!死から蘇られた主よ!勝利の主よ!」弟子たちは感動のあまり泣き叫び、跪(ひざまず)いて主を礼拝したでしょうか?

「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」:ルカの福音書24章16節

なんとこの二人の弟子は復活の主に出会いながら、イエスだと分からなかったのです。
とても不思議な箇所ですよね。どんな風にイエス様を見ていたのか分かりませんね。
しかし、同じようなことが今日でも頻繁に行われているのではないでしょうか。

兄弟・姉妹が証をされている時、ある人は感動して涙を流す。しかし、ある人は居眠りをする。
皆さんが読んでいるのは同じ聖書、しかしある人は感動し人生が変えられるのに、ある人は退屈な本だと投げ出す人もいる。

復活のイエス様に出会っても、蘇られた栄光の神であると分からなかった人は、なぜイエスだと分からなかったのか?イエス様自身がその理由を語っています。

「するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。』」
:ルカの福音書24章25・26節

この二人の弟子たちは、イエス様がなぜ十字架に付けられなければならなかったのか、キリストの受難の理由、そして復活の意味を知らなかった。理解せず、心に留めず、未だにイエスを政治上のメシアだと思いこんでいたのです!これは彼らの言葉から明白です。

「しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」:ルカの福音書24章21節

エマオに向かっていた弟子たちは、自分たちの願望を叶えてくれる救い主としてだけ、イエスを見上げていたのです。だから死に勝利したイエス様に出会っても分からなかった。

私たちは同じ体験をしても、ある人は感動に打ち震えるのに、ある人は退屈なことがある。
それは体験は同じでも、その体験を受け止める器が心にあるか無いかの違いによるのです。
いじめられたことの無い人には、いじめられることの辛さは分からないのと同じです。
貧しい境遇に置かれたことの無い人が、貧しい人の辛さが分からないのと同じです。


生ける真の神を見ても、心に神への愛と畏れ、礼拝の思いが無いのなら神に出会うことは無いのです!聖書を読んでもある箇所は心に響き、ある箇所が分からないのは、その言葉を受け入れるための器が心に育っていないからなのです。

皆さん、霊的な成長を測る尺度があるとするなら、それはその人がどのくらい神を見るかにあるのです。あらゆるものの中に神を見ることが出来るか?自然の美しさの中に、それを創造された神を見ることが出来るか?今日出会う全ての出来事、人々の中に神の配慮と神の意志を見いだすことが出来るか?あらゆることに神の御手を見ることが出来るなら、その人は本当に霊的に成熟した人です

ある若い牧師の証を聞きました。「最近、町の中を歩き人々の顔を見ていると、どんなに父なる神が悲しまれているかが分かる」と。その方は本当に霊的に成熟した方です。
その人の中には、父なる神の愛を受け止める器があるのです。内なる霊に父の心が刻みつけられ、霊が父なる神の姿に似てきているのです。

エマオに向かう弟子たちは、キリストの復活が分からなかった。キリストが見えなかった。
心には政治上の野心が満ちていて、イエスを政治上のメシアとだけ受け止めていた。
イエス様は彼らの心を嘆かれたが、しかし決して突き放すことはされませんでした。

「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」:ルカの福音書24章27節

主イエスは弟子たちの心にご自身の復活を受け止めることが出来るように、御言葉を解き明かされたのです。復活を受け止め、理解出来る心を御言葉によって育てられたのです。
私たちが主イエスの復活を心から受け止め、喜ぶには、この弟子たちに主がされたように、神の言葉が心に刻まれなくてはならないのです。
キリストの復活が、神の言葉によって私たちの心に結びつけられる時、私たちは復活を心から信じ受け止め、その喜びに満ちあふれるのです!

「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」
:ルカの福音書24章30・31節

何かナゾナゾのような言葉ですね。見えていても分からなくて、分かると見えなくなるものなんだ? 答えはイエス様!

イエスがパンを取って祝福して裂いて渡すと、彼らはイエス様だと分かったのです。
なぜパンを割いた後、主と分かったのでしょうか?パンはイエス様を象徴しています。
そしてイエス様はヨハネの福音書にハッキリと書かれているように生ける神の言葉です。
弟子たちがイエスの割かれたパンを受け取ったとは、神の言葉が弟子たちの心に結びつけられたことを象徴的に表していると考えられます。
パンを裂くとはキリストの体が十字架上で裂かれたことの象徴です。
イエスが道々(みちみち)教えられた十字架と復活に関する御言葉が弟子たちの心に刻まれたのです。
その時、み言葉を通して目の前にいる方が本当は誰であるのかを知ることが出来たのです。
皆さん、神の言葉が皆さんと神を結び付けるのです!主が願っているのは聖書の言葉が皆さんの心に刻まれ、み言葉が皆さんの上に実現することです。
イエス様は弟子たちの心にみ言葉が刻み込まれた時、その姿を消されました。
イエス様がいなくなったのではありません。
更に確かな存在として、生ける神の言葉として弟子たちの心に刻み込まれたのです!

キリストの十字架と復活を皆さんと結びつける確かなみ言葉を学んで下さい。
神のことば無くして、永遠の命に至る信仰は生まれません!
神のことばが皆さんの心に確かに刻まれ、神のことばが皆さんと一つになる時、皆さんは復活のキリストを目で見る以上にハッキリと見ることが出来るのです!

キリストがなぜ十字架に付けられ、そして復活されたのか?神のことばを求めて下さい。
キリストの復活は自分に何をもたらすのか?神のことばを求めて下さい!
イエス様にあのエマオ途上の弟子たちのように、聖書から教えて下さいと求めましょう!
主は喜んで、聖書から十字架について復活について語って下さいます。
その語られた御言葉を心に刻みつける時、主はあなたの心に共に住んで下さるのです。
あなたの心の目は確かに復活のキリストをいつまでも見ることになります!