「ダビデの過ちから学ぶ」
第一歴代誌21章1~13節
小林 智彦

【サタンの誘惑を受けるダビデ】

「ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。」:第一歴代誌21章1節

ダビデはペリシテ人、アモン人との戦いにおいて大勝利しました。
試練や誘惑は私たちが苦難を覚えている時よりも、成功や勝利の直後にやって来ます。
私たちが油断している時、私たちが見えない敵の存在を忘れている時、やって来ます。
ダビデの軍がアモン人との戦いで大勝利している時、ダビデはバテ・シェバと姦淫を犯しました。
そしてダビデがあらゆる国々との戦いに勝利を治めた時、また誘惑が来たのです。
私たちは目に見える戦いだけでなく、目に見えない戦いがあることを忘れてはいけません
それは霊的な戦いです。それはオカルティックな戦いではなく心の中の戦いです。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」:箴言4:23

私たちは戦いや苦難の時ばかりでなく、平穏無事の時でも心を見張らなくてはなりません。
心がいつも神の言葉と祈りによって満たされ、守られているならそれは命の泉です。
しかし心の中に自己中心、神に敵対する思い、赦せない心があるなら滅びへの泉です。
私たちは自分の心をいつでも、どんな時でも力の限り見張らなくてはならないのです。
私たちの心には罪があるのです!イエス・キリストともに日々自分の十字架を背負うことを怠れば、私たちの心はいつの間にか苦々しい根が張り、苦い実を結ばせるのです。

ダビデはイスラエルを取り巻くあらゆる国々との戦いで勝利しました。
彼はその勝利に酔うあまり、心の中を見張ることを怠ってしまったのかもしれません。
しかし心の中を見るのは自分だけではありません。主も私たちの心をご覧になります。
主は心の中にどのような実を結んでいるかを明らかにするために、試練を用いられます。
試練は神が私たちの心の中を明らかにされるために用いられる手段です。
心の中に信仰、希望、愛がしっかり実を結んでいるなら、試練を通して明らかになります。アブラハムを始め、偉大な信仰者は試練において偉大な信仰を現しました。
しかし、心の中に滅びへの実を結んでいる場合も信仰によってその実が明らかになります。

怒り、憎しみ、不信仰、心の傷をそのまま抱えているなら、試練の時その思いに相応しい実が目に見える形で現れてきます。しかし、これはとても感謝なことです!
心を見張ることを怠ったため、こんなに醜い実を結んでいたことが明らかにされたのです。気付いたら、告白をもってその実を捨て去ることです!悔い改めを求めるのです!
神は私たちを滅ぼすために、苦しめるために試練を与えるのではありません。
全ての者が更に神を愛し、信仰から信仰へと向かわせるために試練を許されるのです。

今、試練の中におかれている兄弟姉妹がおられるなら更に神への信仰を確かにしましょう。悔い改めるように示されている罪は無いか?意固地にならず、喜んで悔い改めましょう!神が私たちを罪を抱えて実を結ばない生活から、浄めて用いようとされているのです。
また試練や困難が無く平和の中に置かれている兄弟姉妹も、絶えず心を見張りましょう。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」のです!

【ダビデが心の中に結んでいた罪】

ダビデはイスラエルの人口を数えるという罪を犯しました。
イスラエルの人口を数えることが罪なのでしょうか?人口を把握することは民数記でモーセが行っているように、それ自体は罪ではありません。
しかし、第二サムエル記24章10節には「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた」とあります。ダビデはイスラエルの人口を数えることが神の前に正しい動機でなかったことを自分自身で知っていたのです。ダビデの中にあった悪い動機は一体何でしょうか?
神はダビデに対し大きな罰を与えました。それはダビデの罪の大きさを現しています。

『受け入れよ。
 三年間のききんか。三か月間、あなたが仇の前で取り去られ、あなたに敵の剣が追い迫ることか。あるいは三日間、主の剣、疫病がこの地に及び、主の使いがイスラエルの国中を荒らすことか。』
:第一歴代誌21章11・12節

私たちは神が下した罰の大きさ、この罰のために7万人もの人々が死んだことを見ると、なんと神は厳しいのか?神は愛の神ではないのか?疑いが起きるかもしれません。
しかし、それは神の厳しさを過大評価し、人間の罪を過小評価する誤りです。
もしダビデの抱いていた罪が試練を通して明らかにされず、彼が悔い改めなかったら。またもし、神がこの様な厳しい態度でダビデに臨まなかったなら、ダビデの罪がもたらした滅びは7万人の犠牲ではとうてい収まらなかったであろうと確信します。

ダビデが心に隠し持っていた罪は、神よりも目に見える兵力を頼る罪でした!
神よりも兵力の数に頼りたい罪。また神の国であるイスラエルを私物化する罪。
神が委ねているイスラエルの軍事力を自分の力と思い上がる罪でした。

これは恐ろしい大きな罪です。神はダビデを愛し、イスラエルを愛していました。
それゆえ神はダビデがこの罪を抱えたまま、信仰の失格者になることを願われなかった。
またダビデの罪によって、イスラエルが滅びることを許されなかった
だからダビデに厳しい態度で臨まれたのです!しかし、それは神の愛の現れなのです。

神がダビデに下した罰は十分に厳しく痛いものでした!
しかし、神よりも目に見える軍事力に頼る罪、また神の栄光を横取りし私物化する罪がどんなに恐ろしいかをソロモンを始め、ダビデの子孫は学ばなかったようです。ソロモンも自分の知恵と力を誇り、彼は最後には偶像礼拝の罪を犯し、信仰の失格者になりました。ソロモンの子供のレハベアムも全く教訓を活かさず、国を分裂に導きました。

神よりも目に見えるものを信頼してしまう弱さ、神の栄光を自分の物にしてしまう罪
偉大な信仰者ダビデさえ、この過ちを犯すのなら私たちも気を付けなくてはなりません。
ダビデは自分に付く兵隊が一人もいない時、信仰だけでゴリアテを倒したのです。
ダビデを偉大な勇者にしたのは神への揺るぎない信仰に、神が応えて下さった結果です。
私たちもキリストに対する信仰の告白だけで、罪を赦され、神の子とされました。
私たちを変えたのはキリストに対する信仰だけなのです!神への信仰を守りましょう。
目に見える物は一時的です。目に見えない物こそ永遠です!

どうぞ、牧師がこの罪から浄められるように祈って下さい。
日本でもアメリカでも、教会の規模がそのまま牧師の信仰と見られる間違いがあります。
教会員の数に縛られている牧師がどれ程、多いでしょうか!
牧師の魂がこれら愚かな、世の価値観から解放されるように祈って下さい。
また皆さんも、牧師をそのような世の価値観で計ることを止めて下さい。

エゼキエルはこの様に語っています。「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。」:エゼキエル書14章3節

偶像礼拝は偶像を拝むだけが偶像礼拝ではないのです。神よりも目に見えるものを信頼するなら、心の中に偶像を秘めていることと同じなのではないでしょうか?
私たちは更に深い段階で、心の中を見張らなくてはなりません!心の動機は大切です。

私たちは心の中に偶像を隠してはいないでしょうか?
財産、名誉、地位、学歴、ルックス、それらのものを神よりも信頼していないでしょうか?
また聖霊様の満たしを求める以上に、それらのものを追い求めてはいませんか?
それらのものも大切です。しかし、決して神に勝るものではありません!
神の国と神の義をまず第一に求めなさい!と主は言われました。
主を第一とする時、必ず私たちに必要なものは主が豊かに満たして下さいます。
私たちは力の限り心を見張りましょう!心の中からも偶像を捨て去りましょう!

【助言を与える信仰の友を持つ】

私たちが試練を受ける時、罪を犯さず主の栄光を現すために助言を受けることが必要です。
ダビデは彼の周りには、いつも適切な助言を与える人たちがいました。
預言者のナタン、ガド、また祭司たち、将軍たちがダビデに助言しました。
ダビデがこれらの助言に耳を傾け、神の御声を謙(へりくだ)って求めていた時は成功しました。
しかし今回のように忠実な将軍ヨアブの助言を退けた時、大きな罪を犯したのです。

「密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する。」(新改訳):箴言15:22
「相談しなければどんな計画も挫折する。参議が多ければ実現する。」(新共同訳):箴言 15:22
私たちの信仰を健全にするために、信仰の友を持つことは不可欠です。
皆さんは信仰の友を持っていますか?罪に落ち込みそうな時、戒める友を持ってますか?
誰かが助言してくれる時、謙(へりくだ)って聞くことが出来ますか?
私たちの教会では一対一の弟子訓練がエクレシアの中心であります。
自分の弱さ、問題を誰にも打ち明けず、また祈りの友を持たず、互いに心を見張る関係がないならば、健全な信仰の成長はありません

「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」:箴言27章17節

本当の友は私たちの顔色を伺うのではなく私たちの霊的な健康を心配するものです。
私は本当の友情関係を築き上げることが出来るのは、エクレシアの中であると確信します。
助言を与える友を主に求めて下さい。またあなた自身も誰かの真実な友になって下さい。