「新しいセルフ・イメージ」
民数記13章
小林 智彦

「主はモーセに告げて仰せられた。
『人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。』」
:民数記13章1・2節

【本日の聖書箇所について】

エジプトで四百年間も奴隷状態であったイスラエル民族は、モーセに導かれてついに約束の地カナンの目前までやって来ました。あと残り数十キロの地点までやって来ました。
ここまで来るのに2年もかかりました。その途中、水や食べ物が不足して神さまに対して不平不満を漏らしたり、偶像を作って神さまの怒りを買ったりと大変な歩みでした。
しかし、今やその労が報われて約束の地にあと一歩のところまで来たのです。
約束の地、カナン!何と『「乳と蜜」が流れる地』であると言われています。
農産物、家畜の飼育に適し、あらゆる自然の恵みに満ちている地、カナン!
奴隷状態のエジプトとは大違いであります。その土地を神さまから与えられる。
素晴らしい、夢のような約束!しかし、それが今まさに実現しようとしている。

神さまはご自分が約束された地がどれ程素晴らしい地であるか、また神さまの約束がどれ程確かなものであるかを見せるために12人の偵察隊を送るように命じます。
しかし、この偵察隊の派遣と報告がイスラエルの運命を変えてしまうのであります。

【偵察隊の報告】

偵察隊は四十日間カナンの地を偵察してきました。その地の産物まで持ち帰ってきました。
彼らはすぐにモーセとイスラエル人に見てきたことを報告しました。

『彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。』:民数記13章27節

「彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。」:民数記13章23節
→一ふさの葡萄を大人二人で担がなければならないほど、大きくてたわわに実っているのです。
  どれほどカナンの地が豊かであるか!更に偵察隊の報告は続きます。

「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」』
:民数記13章28・29節

ここまでは非常に正確な報告であります。事実に即したものでしょう。
しかしこの報告に対する彼らの態度が、この後イスラエルの方向性を大きく変えます!

【二つの態度】

この報告に対する二つの全く異なる態度が12人の偵察隊員から示されました。
偵察に行ったのは12人の族長、イスラエル12部族を代表する人物であります。
その異なった意見・態度とは、「YES!」と「NO!」であります。

YESの意見はカレブとヨシュアによってなされました。

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」:民数記13章30節
とても力強く、確信に満ちた意見であり態度です!

もう一方のNOの意見は、残りの10人によってなされました。

『しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」:民数記13章31節
イスラエルの歴史を見るときに、一つの重要な決断はまさしくこの時になされたのです。
イスラエルの歴史を左右する重要な決断の時だったのです。

結論から先に言うならば、イスラエルはこの"NO"の意見に従ってしまった!
そのためにイスラエルは40年の間、荒野をさまよい続けなければならなかった。
この40年は"NO"の意見に従った人々が死に絶えるまでの、刑罰の期間だったのです。

何と残念なことでしょう、イスラエルがエジプトを出たのは何のためだったのでしょう?
約束の地に移住するためだったのではないでしょうか?
それをあと一歩のところで諦めてしまう!何と残念なことをしたのでしょうか?

「あの民は私たちより強いから」 それは事実だったでしょう!
しかし、彼らが勝利を得て脱出して来たエジプトの民は彼らより、遙かに強い民だった。
しかし、彼らはそれを忘れてしまっている。
この約束の地、カナンの直前まで来ることが出来たのは、まさしく神さまの奇蹟と力によるもので、イスラエル人の努力は何もないのです!それを彼らは忘れてしまっている。
まるで自分の力でここまでやって来て、自分の力で約束の地を勝ち取らなくてはならないと大きな勘違いをしているのです!
イスラエル人の力だけでは、エジプトを脱出することすら出来なかったのです。
しかし、約束の地、カナンを目前にして荒野に引き返す愚かな決断をしてしまった!彼らの決断は、乳と蜜の流れる地よりももっと荒野の方が良いとする愚かな決断なのです。

【誤った決断を導いた原因は?】

なぜ彼らはこの重要な段階において、この様な愚かな決断を下したのでしょうか?
彼らは"NO"と言っただけではなく続けてこの様に言っております。

『彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」』
:民数記13章32・33節

非常にネガティブ、否定的な態度です。「その地を悪く言いふらした」とあります。
事実よりも更に悪く言っているのです!

なぜ彼らはこの様にネガティブな態度を持っていたのでしょうか?
実は彼らにはそれが相応しい態度、答えだったのです。
彼らが自分のことを「イナゴ」のように見えたとあることに注目して下さい。

「私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」(33節)
彼らは自分のことを「イナゴ」と見ているのです!

セルフ・イメージと言う言葉があります。
自分が自分のことをどの様に受け取っているか、自分自身は何者であるか、それがセルフ・イメージであります。聞き慣れない言葉かも知れません。
しかしセルフ・イメージは人生において重要なことなのです。
自分が持っているセルフ・イメージ、それが自分自身を形づくり、人生を左右するのです!

人生における重要な決断!
それを決定するのは環境的な要素よりも、実はセルフ・イメージなのです!
人間は自分のセルフ・イメージに忠実であり、自分のセルフ・イメージに合った決断を意識的にも無意識的にも下しているのです!

約束の地を目の前にして荒野に引き返した彼らのセルフ・イメージは「イナゴ」でした。
「イナゴ」!バッタ、コオロギ、何でも良いのですが、つまり地面をはいつくばり、コソコソ逃げ隠れする虫けら!自分はそのようなつまらない者だ!

自分はエジプトでは奴隷であった。先祖もみな奴隷だった。
自由と祝福に満ちた約束の地カナンは本当は自分には相応しくない!

イスラエルは自分のセルフ・イメージに相応しい決断を選び取っていたのです。
「敵が強い!数が多い!」と言うのは言い訳に過ぎなかったのです。

【私達のセルフ・イメージは?】

私達の回りを見ても、このイスラエル人のようにせっかくのチャンスをドブに捨てている人達はいないでしょうか?つまらないことで人生を棒に振ってしまう。
こんな事したらどの様な結果になるか分かるのに止められない、実はわざと見つかるように犯罪を犯す。一見不可解に見える行動を取る人たちがいます。
しかし、彼らは実は自分のセルフ・イメージに忠実に行動しているのです。
人間の行動は、人が彼をどう見ているかよりも、自分が自分をどう見るかにかかっているのです。

皆さん!私達のセルフ・イメージはどの様なものでしょうか?
大きなチャンスの前で「神さま感謝します!」と、ヨシュアとカレブのようでしょうか?
それとも、せっかくのチャンスを前にして荒野に舞い戻る「イナゴ」でしょうか?
私達の持っているセルフ・イメージ!それが私達の人生を左右します!

【イナゴのセルフ・イメージはどの様にして出来上がるのか?】

次になぜイスラエル人が「イナゴ」のセルフ・イメージを持ったのか見てみましょう。
まず彼らはエジプトでは奴隷であったのです。生まれた時から奴隷の型にはめられました。

誰も敗北者として生まれくる人間はいません。奴隷として生まれてくる人間もいません。
人間は皆、神の似姿として造られた無限の可能性に満ちた存在です。
しかし私たちの心を束縛し、可能性を奪い去る手かせ、足かせがあるのです。
それは子供のころに語られた親や、権威ある人々からの言葉なのです。
肯定的な言葉で育てられた子供は、肯定的で、確信に満ちた大人に成長します。
しかし、否定的な言葉、汚い言葉を掛けられて育った子供は否定的、消極的になります。
セルフ・イメージは言葉によって形作られるのです!

「わたしの目にはあなたは高価で貴い、わたしはあなたを愛している」と肯定的な言葉、無条件の愛で育てられるなら、どんな子供でもイエス様のような愛の人に成長します。

しかし、生まれた時から奴隷に語るような見下した言葉、否定的で条件的な言葉。
失敗した時は怒られて、成功した時は当然とされる環境で育つなら、イスラエルのようなイナゴのセルフ・イメージを持った大人に成長するのです。

また敗北感、挫折感は恐ろしいもので、否定的なセルフ・イメージを造り出します。
蚤(のみ)を捕まえてきて、コップに入れると数秒のうちにコップから飛び出ていきます。
しかしコップに蓋をすると、最初のうちは飛び跳ねて出ようとしますが、何回か蓋にぶつかり跳ね返されると、今度は蓋を取っても蓋より高く飛び上がらないようになるそうです。

イスラエル人は奴隷から解放されたにもかかわらず、心は奴隷のままなのです。
外的な環境は自由であっても、彼らの心は依然として縛られているままなのです。
奴隷の、イナゴのセルフ・イメージからは解放されていないのです。
そしてもう一つは彼らの考え方です。
「あの民は私たちより強いから」(31節)「私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。」(32節)と「比較」によって自分を捉えています。
誰かと比較することによって自分を捉えるなら、何時までたっても自由にはなれません!
比較の世界、上を見ればキリがなく、下を見ればキリがない世界です。
それはいつも変化し、安定がない、相対的で、絶対的なものではないのです。
これらが「イナゴ」のセルフ・イメージを形づくるものです。

【私たちのセルフ・イメージもイナゴではないか?】

私たちの中にも「イナゴ」のイメージが植え付けられているのではないでしょうか?
親や先生から語られた否定的、破壊的な言葉が否定的なイメージを造っていませんか?
挫折や失望、敗北感が皆さんの可能性、創造性を縛り付けていませんか?
いつも自分を誰かと比較して、時には高ぶり、時には失望を覚えてはいませんか?
この「イナゴ」イメージを抱えたままでは、本当のクリスチャンライフ、喜び と解放の中を歩むことは出来ません!

偽りの否定的、消極的イナゴのセルフ・イメージを捨て去りましょう!
それは神が認めたイメージではありません!
サタンが皆さんを罪と滅びに縛り付けるために造り出した偽りのセルフ・イメージです。
サタンの偽りのセルフ・イメージに縛られるなら、荒野から脱出は出来ないのです!

偽りのセルフ・イメージを捨て、キリストにある本当のセルフ・イメージを持ちましょう
ローマ人の手紙8章37節では、クリスチャンは「圧倒的な勝利者」であると言っています。
皆さんはキリストにあって勝利者です!神の子供、神から愛される可能性に満ちた者です。
皆さんは神から愛され、栄光から栄光へと、勝利から勝利へと進むために生まれたのです。

皆さんの過去の生涯がどんなに暗く、挫折や敗北に満ちていたとしても、主は言われます。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
:第二コリント5章17節

皆さんはキリストによって新しくされたのです!
古いイナゴのイメージはキリストが十字架で背負い、完全に滅ぼしてくださいました。
キリストにある勝利に満ちたセルフ・イメージを持ちましょう!
ヨシュアやカレブのようにどんな難しい状況に面しても、「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(30節)と確信を持って宣言し、実行しましょう!
感謝と喜びと賛美に溢れ、約束の地を手に入れましょう!