「愛の預言者ホセア」
ホセア書1章2・3節
小 林 智 彦

【姦淫の女をめとり】

「主がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。』
 そこで彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって、彼に男の子を産んだ。」
:ホセア書1章2・3節

本日はホセア書から恵みを分かち合いましょう。ホセアは愛の預言者と呼ばれています。ホセアは神の愛と赦しを宣べ伝えただけではなく、愛と赦しを実践した預言者です。

旧約聖書の神は裁きの神で、愛の神ではない!その様な批判を耳にします。
しかしホセア書を読むと、神の狂おしい愛が私たちに伝わってくるのです。
旧約聖書の神も新約聖書の神も同じ神です。愛と義に満ちた神であります。

ホセアは預言者として、神様から特別な使命を与えられました。
預言者とは神の言葉を預かる者、神の言葉を神に代わって代弁する者であります。
神はホセアに命じました。

『行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。』(2節)

「姦淫の女をめとる」とは一体何を意味するのでしょうか?
当時のイスラエルでは唯一の神への信仰が捨て去られ、偶像のバアル信仰が行われていました。この偶像宗教は性的な淫らな儀式を伴う宗教で、神殿には神殿娼婦がいました。
バアルへの礼拝を行った後、神殿娼婦と関係を結ぶことで神と一体になる驚くほど乱れた儀式が行われていたのです!
ホセアがめとった「姦淫の女」ゴメルは、この神殿娼婦であったと考えられます。
なぜ、神はホセアに売春婦を妻に迎えることを命じたのでしょうか?

ホセアが売春婦のゴメルを妻にめとることを両親や親戚、友人、近所の人たちが知った時、彼らはどう思ったでしょうか?もの凄い勢いで、ホセアに反対したと思います。

「このバカ息子!売春婦を妻に迎えるとは何を考えているのか!」お父さんはカンカンになって怒ったと思います。お母さんは泣きながら「こんな息子に育てた覚えはない!」。
ホセアの友人も「人生を棒に振るつもりか?」と呆れ果てたことだと思います。

ホセアがゴメルを妻として迎える、その愛は誰にも理解されませんでした。
何で性的な罪にまみれて、汚れきった女をめとるのか?何の益にもならないぞ!
ホセアの愛は誰にも理解されませんでした!驚かれ、怪しまれ、不思議に思われる愛。

しかし、ホセアのゴメルへの愛は、まさに神のイスラエルへの愛の表れでした。

性的な罪にまみれたゴメルは、まさに当時のイスラエルそのものでした。
イスラエルを産み出し、イスラエルを解放し、イスラエルを導いておられる真の神を捨てて、バアルを始めとする偶像の神々を慕い求めるイスラエル。
イスラエルはゴメル以上に姦淫の罪にまみれている。

神はそのイスラエルに考えられないような大きな愛をもって愛し続けておられるのです。これこそ、真の愛、アガペーの愛です。無条件の神の愛です!

このホセアを通して現された神の愛は、イエス・キリストを通して更にハッキリと私たちに示されました。

ゴメルとはいったい誰でしょうか?それはまさに私たち一人一人ではないでしょうか?

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ人への手紙5章8節
神は罪にまみれた私たち、神にとって何の益にもならない私たちのために、貴い(とうとい)御子イエス・キリストの身代わりの死を通して救って下さったのです!

皆さん!神がどれ程大きな愛で私たちを愛されたかを知ってください。
いったい誰が、性的な罪にまみれ、連れ子のいる売春婦と結婚したいでしょうか?
しかし神は更に大きな愛を持って、私たちを愛し、神の子として下さったのです。

【先ず!神の愛を受ける】
ホセアは神の愛を語るだけではありませんでした。実際にそれを行ったのです。
旧約聖書に登場する預言者は、言葉と行動が一致していました。
これは旧約だけに限らず、新約においてもイエス様を始め、弟子たちも同じでした。
自分の生き方を通して、神の愛を伝える!私たちもホセアの生き方を見習いましょう。

もちろん、ホセアのように神の愛を現すために売春婦と結婚したり、好きでもない相手と結婚する必要は全くありません!これはホセアに与えられた特別な使命であります。
今日、私たちがホセアのような行動をするなら偽善者以外の何ものにもなりません。

私たちがホセアのように、生き方を通して神の愛を現すために先ずすべきことは、神の愛を体験することです。神の愛を深く、心に刻みつけることです。

皆さん、聖書を理解しよう、理解しようと聖書と取り組んでおられると思います。
聖書を理解しようとするあまり、聖書は難しい!面白くない、退屈になっていませんか?聖書の第一の価値は、聖書は神からのラブレターであることにあります!
神がどれ程、私たちを愛しているか、その愛を先ず聖書から読み取って下さい!

祈りも神の愛を心に深く刻むための手段です!
聖書で神の愛に感動したとき、その箇所を覚えてください。
そして祈りにおいて、その箇所を何度も瞑想するのです。

私は朝の祈りで、先ずキリストの十字架を思い浮かべます。キリストが十字架につけられ、血を流している。その血は私のために流された血、私を生かすために流された血潮。
祈りの中で、何度も御言葉を繰り返します。わたしの目には、あなたは高価で尊い(たっとい)。私はあなたを愛している。神の愛の言葉を何度も、心の霊の板に刻みつけるのです。

私たちの心の奥底には霊があります。霊とは本来、神の姿を現す部分です。
キリストの愛で、その霊を刻むのです。私たちの霊がキリストの愛を現すために。
私たちは自分の霊に刻まれた姿通りに、考え、感じ、行動します。
霊にキリストの愛が刻まれるとき、私たちは自然にキリストの愛を行う者になるのです。

キリストの愛を霊に刻むには、祈りしかありません!御言葉をもって祈りの中で、霊を刻むのです。キリストの愛の姿を霊の板にしっかりと刻みつけて下さい。

ホセアは旧約聖書を神のラブレターとして読んでいたと、私は確信します。
イスラエルへの神の愛を読み、祈りの中で心に刻みつけるうちに、この愛を現さざるをえなくなった。神の愛に感動されて、今までの自分ではいられなくなった!
どうにかして神の愛を現したい。その時ホセアは神の言葉を聞いたのではないでしょうか。

神の愛に押し出されて行動することです!
そのために、神の愛を追い求めて下さい!神の愛に乾いて下さい。
もっと、もっと、求めて下さい。